――― 境界世界 無垢なる邂逅 ―――
あれは五年前――――――私が九歳になり『第二級』に昇格し、その研修として初めて現世に降りた日だった。
「ここが……現世」
私の来訪を清々しい青空と共に迎えてくれた人間達の住む世界――――――現世。
小高い丘から眼前に広がる景色に、私は言い様のない高揚感に胸を高鳴る。
小高い丘から見えるのは人間達が築き、生活を営んでいる町。そしてそれを守るように青々とした木々が生い茂り、その脇ではのどかな田園風景が広がっていた。
「あの町が私の研修の場か…………」
遠方に見える町並みに私は緊張を混ぜた息を付き、
「…………ん」
背後に感じた魔力の流動に静かに振り返った。
振り返った先では魔力の流れに合わせて空間が歪み、その歪みから黒一色の人影が姿を現した。
女性ながらスッと高く細身の体躯を自分と同じ黒の制服に包み、肩まで伸びる柔らかい茶髪の癖毛と初見で穏やかさを感じさせる優しげな顔立ちが印象的な一人の女性。
女性は空間の歪みからヒョイッ、と丘の芝生に 軽やかに着地。それと同時に私を一瞥し、両足を寸分無く揃え敬礼をする。
「お待たせいたしました、ベェルフェール様」
「い、いえ」
「私の名前はジュリア=ノーマン。本日より一週間、ベェルフェール様の指導官として……」
「あ、あのっ!!」
私は堅苦しく強張った表情で挨拶をするノーマンさんの言葉を遮り、
「っと…………ど、どうなさいましたか?」
「そ、その………ベェルフェール『様』というのは止めて頂けませんか?」
「え?」
ノーマンさんは私の突然の発言に目を丸くし、口をぽかーんっ、と開けた。
何故そんな事を? と驚き顔で訴えるノーマンさんに、私は生意気だと思われないか不安になりながらも、素直に気持ちを伝える。
「た、確かに私は貴族の出ではありますが死神として『第二級』に昇格したばかりの新人です。それなのに上司であり指導官でもあるノーマン上官が、部下である私に様付けや敬語などおかしい話、だと……思う、のですが…………」
最後の方は不安に押され尻すぼみになってしまったが、なんとか思っていた事は言い切る事ができた。
自分が『第三級』の頃……いや、物心ついた時から周囲からは三大名家筆頭の令嬢というだけで必要以上に持ち上げられる待遇が多々あり、まだ九歳の私が思うのもあれだが今よりももっと幼い頃からそれが大嫌いだった。
「………………」
ノーマンさんは口を開けたまま私を見下ろし、
「あ、あの…………」
私が出過ぎた真似だったかと不安に表情を曇らせた時だった。
「…………ジュリアでいいわよ」
まるで自分の子のにするように優しい笑みで、私の頭をそっと撫でる。
「へ?」
「ノーマン上官、なんて堅苦しいでしょ? だから私の事はジュリアって呼んで、ね? エリス」
私の曇った表情をほぐすように優しい温もりで頭を撫で、名で呼んでくれるノーマンさん。
私は引け目も、贔屓もない純粋で暖かな笑みに静かに頷いて。
「ありがとうございます。ジュリアさん」
気恥ずかしかったが、ジュリアさんの微笑みに静かに口元を綻ばせた。
「それじゃ改めて。私の名前はジュリア。上司とはいったものの私も貴女と同じ『第二級』だから足りないところもあると思うけど……貴女の上司、先輩として手本になれるように頑張るわ。よろしくね」
「こちらこそ。死神として未熟な私ですが本日より一週間、ご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします」
私達は和やかに握手を交わし、どちらともいわず手を放して。
「じゃあ、早速だけど一週間の予定を説明するわね」
「はい」
親しい仲にも礼儀あり、と公私を瞬時に切り替えながら心の中で緊張の糸を一本張った。
それからジュリアさんは小さく咳払いし、説明し出した。
「主な研修の内容は『霊現体』の魂の状態確認と回収、それと町の魔力の流脈の把握に魔力バランスの管理ね」
「はい」
「それとここ最近は『霊現体』の『悪霊化』は発生していないから戦闘になることはないと思うけど、現場ではいつ何が起こるかわからないから頭の隅で気を張っていてね」
「了解しました」
「一応、研修内容はこんな感じだけど……何か質問とかある?」
「いえ、特には」
「まぁ、何か気になる事があればその都度聞いてね」
「はい、ありがとうございます」
研修内容の確認を終えるとジュリアさんは町へと体を向け、私もそれに連なって体の向きを町へと合わせた。
二人揃って視線を正面に向け、体の奥へ抑えていた魔力を解放する。
体の奥から血流に魔力を乗せ、体全体に行き渡らせながら魔力を研ぎ澄ませていく。
「じゃあ、準備運動がてら町まで競争ね」
「きょ、競争って?」
落ち着きのある大人の女性の表情から、悪戯っ子の様な無邪気な笑みを溢すジュリアさんに、私は戸惑って。
「よーい、どんっ!!」
「ちょっ!?」
ズルッ子上等とばかりに地を蹴り、空へ高々と跳躍するジュリアさん。
「ちょっ、ジュリアさん!?」
突然の競争スタートに私も慌ててジュリアさんの後を追おうと、黒のコートをはためかせながら空へと跳躍した。
―――――――――ジュリアさんとの追いかけっこが始まって三時間後。
「さすがに午前中だけだと町全部は回りきれないかぁ」
「そうみたいですね。小さな町と思っても細かなところまで把握しなければいけませんし…………何より、実際の任務となると思ったようにいかないものですね」
町の中で一番高い建造物『ビル』というものの屋上で、下の通りを行き交う人間達の喧噪を眺めながら言葉を交わす私とジュリアさん。
丘から競争を引き分けで終え町に到着すると先に説明されていた通り、町の『霊現体』達の見回りを開始。
こちらで確認している『霊現体』の数の照合に『浮遊霊』や『地縛霊』への変異の有無、それに加えて魂の存在期限の迫った魂の回収など様々な任務をこなした。
その際に地理の把握に、流脈の流れが滞りやすい場所や魔力のバランスが崩れやすい地点など事細かに教えて貰いながらの何とも忙しい時間を過ごし、昼に差し掛かっての昼食時間を迎えようとしている現在。
「私がもう少し上手く動けていれば町の探索だけでも終えられたかもしれませんね」
「そう? まぁ、貴方の言う通りいつもよりは少し効率が落ちてるけど……私も初めての指導官で手探り指導だし、ちょっと要領が掴めてないのが原因かな。エリスは新人って思えないくらい任務をこなしてくれてるし、あまり気にしなくて良いと思うけど……」
先程までの任務の手際に反省している私に頬を掻きながら苦笑するジュリアさん。
「お褒めいただいて恐縮ですが……やはりまだまだです。姉様が私の年の頃にはもう『第一級』に昇格し、第一線で任務を勤めいていましたから」
「あぁ、貴女のお姉さん……セフィリア=ベェルフェールさんね」
苦笑を少しばかり深め、感心するように姉様の名を呟いた。
だが、それもその筈だ。
これは身内贔屓になるかもしれないが、姉様は誰もが紛う事なき『天才』だと確信を持っていわせる程に卓越した力を有しているからだ。
本来、私が昇格した『第二級』は平均的な死神の能力でいえば二十代前半で到達する領域。だが、姉様はそれを七歳という若さで多くの死神を抜き去って最年少での『第二級』に昇格。
それから二年後、より優れた死神の中から更に並々ならぬ修練と実戦の積み重ねにより鍛え抜かれた一握りの死神だけが到達できる『第一級』に昇格。
こちらも当然とばかりに史上最年少という若さでいたり、それから二年後には私達死神の中でも指折りの実力者が揃う第十三隊に入隊し、その溢れんばかりの力と才能に誰もが次代を担う死神と期待して止まないのだ。
「三大貴族の中でもずば抜けて高い魔力を持っている上に『法具』の所有者。私も何度か一緒に任務をした事あるけど…………今の感じで行けば二十歳にはどこかの隊の隊長に昇格してるのは間違いないわね」
「おそらくは。ですので姉様の妹として恥ずかしくない死神になるのが私の目標です」
私は自分の口にした目標をつかみ取るように視線を右手に合わせ、強く握りしめた。
「ふふっ、目標がある事は良い事ね。若い子達がこんなにも頼もしいとあんしんね」
「若い子達って…………ジュリアさんだってその内の一人でしょう?」
「あら、嬉しい事いってくれるじゃない」
そう言って嬉しさに顔を綻ばせ「良い子良い子っ!!」と優しく頭を撫でてくれるジュリアさん。
「お世辞でもありがとうね」
「いえ、お世辞では…………」
詳しい年齢は個人情報なので控えるが、歳は二十代前半で充分なの程の若者世代だと思ったのが…………どうやらただの世辞と受け取ったらしい。
「さてっ、と。話は此処までにして一旦任務は中断。お昼ご飯にしましょう」
「そうですね、時間も丁度良い頃ですし」
となると早速準備に取りかからねばならない。まぁ、準備といっても空間法術で私達それぞれの隊員寮の私室と現世を繋いで、そこから食堂に行くだけ。それ以外の仮眠やシャワーも同じで、現世に赴きながらも衣食住は安定供給されているから法術様々といったところで。
「あっ、その前に一カ所だけ行かなきゃいけないところがあるのよ」
「いかなければならない所、ですか?」
「えぇ、ついでっていうと失礼だけど貴女にも紹介しておかなきゃいけない子がいるからついてきてもらって良い?」
「はい、同行いたします。ですが、紹介したい子というのは? 私達以外にも死神が配属されているという話は聞いていませんでしたが?」
私はジュリアさんの申し出に即答で答え、それと同時に沸き上がった疑問を問い掛けてみた。
するとジュリアさんは悪戯っ子みたいな笑顔でウインクし、
「まぁ、会ってからのお楽しみってね」
コートを翻し、進路方向へと体を向けた。
「ここからでも見えるんだけど…………灰色の大きな建物が見える?」
私の様子を伺いながらおよそ一キロ先の灰色の建物を指差すジュリアさん。
私は難なく見えた灰色の建物に「はい、見えます」と短く答え、
「あそこはこの町の病院なんだけど、とりあえずあそこへ向かいましょう」
「了解です」
今度は二人同時に肉体へ魔力収束を行い、互いに体中に感じる魔力の脈動に、ビルを同時に蹴って、目的地への病院へと向かった。
――――――五分後。
白を基調とした大きな建物の屋上にトンッと降り立ち、
「着いたわ、ここよ」
「ここは…………」
私とジュリアさんは屋上縁から建物を見下ろした。
私の十メートル程下に見えたのは大きな黒字のパネルで、読みづらかったが『蓮田医院』と壁に貼り付けられていた。
「病院、ですね。ここに私に会わせたい方がいるとの事でしたが…………一体どんな方なんですか?」
ここに来る途中、魔力で気配を探ってみたが死神のものはなく、気を引くほど高い魔力の気配もなかった。
「う~ん、もう約束の時間になってるから来る頃だと思うんだけど」
ジュリアさんは私の問い掛けに答えながら辺りを見回し、
「ジュ、ジュリアさ~んっ!!」
不意に、慌てている事が丸わかりの子供の声が屋上に響いた。
「ん? この声は…………」
「あぁ、来た来た」
ジュリアさんは辺りを見渡すのを止め、自分の足下へと視線を落とすと、それに合わせたように屋上の床からにゅっ!! と物凄い勢いで飛び出てくる人影が。
「なっ!?」
私は突然飛び出してきた人影に思わず身構えて、
「ゲ、『霊現体』!?」
「あぁ、大丈夫よ。エリス、この子は病院にいる『霊現体』だから」
それを宥めるように、ジュリアさんが苦笑で間に入った。
「こ、この病院の?」
私はジュリアさんの言葉に構えを解き、ジュリアさんの後ろで浮いている『霊現体』を観察した。
肩まで伸びた艶やかな黒髪に、気の強そうな栗色の瞳。顔立ちは中々に整っており、背格好でいえば十二,三歳の『霊現体』。
「そうだよ、私は柴賀結菜。あなたは?」
病院の入院服だろうか、淡いピンクのパジャマ姿の少女はふわふわと浮きながら自己紹介し、私も気をとり直して名を名乗る。
「私の名前はエリス=ベェルフェール。ジュリアさんと同じで死神です。今日から一週間程任務の為、この町に滞在予定です」
「エリスちゃんっていうんだ。私の事は結菜でいいからね、よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
簡潔に自己紹介した私に人懐っこい笑みを浮かべながら右手を差し出し、私もそれに倣って右手を差し出し握手をする。
握った手は私よりも少し大きく、心地良い柔らかさに姉様の温かな手を思い出しかけて熱だけを感じない。そんな無機質な感覚に――――――目の前にいる結菜は人外、やはり『霊現体』なのだとジュリアさんの言葉以上に実感した。
これが『霊現体』の少女、柴賀結菜との出会った日であり、この日から三日後―――――――――
―――――――――――――――――私は彼女を見殺しにした。