――― 5月11日 心の在処・影 ―――
誰もいない教室、暗闇に満たされた廊下。
窓の外に見えるのは人間が体と技の鍛練を行う体育館という建物の灯りと、人間達の住む家々の灯り。
そして闇夜に浮かぶ慈愛に満ちた月の光。
その穏やかな光が窓からそっと差し込んで、暗闇の中で一人佇む私を包み込むように照らしてくれる。
穏やかで静かな光に照らされながら私は、向かい合い視線を交わすもう一人の私に触れながら呟いた。
「…………遅かったか」
人が五、六人程横に並んでも映し出せるほどの大きな鏡。
その鏡に映る私の表情は穏やかさとは無縁の――――後悔と自責に塗れた険しい顔。
右手で触れている鏡から感じる微弱な魔力に、私は重いため息をついた。
「『境界門』は開いているのに、こちら側……私の法術操作を受け付けないとは…………」
空間転移を阻害しようと法術を展開してみたものの、空間転移は難なく発動。
「…………おかげでまた数人取り込まれてしまったな」
私は自身の未熟さと算段の甘さに唇を噛み、ドンッと鏡を小突いた。
正確な人数はわからなかったが、この学校のジャージを着ていた女子生徒が数名……数は恐らく八名。昨日の二名と合わせて約十名の人間を取り込まれてしまった。
昨日の二名と今回もそうだが、すぐ様助けに向かおうと『境界門』を通ろうとしても通ることもできず、門を顕現することもできず、挙げ句の果てには空間転移の阻止もできない。
「………………この『境界門』を通るには何か特別な条件があるようだな」
魔力量の上限で制限される『漆黒境界』や発動者の任意で取り込む『紅境界』とも違う、霊体や生者関係なく取り込む無差別な空間転移。
今と昨日の二度の発動でこの町の霊体の全てが取り込まれ、果ては人間まで…………
「霊体だけならば魔力搾取が目的だろうが…………何故人間まで取り込む必要がある?」 蘭様や萩月凜のように魔力が高いならばまだしも、取り込まれたは全員が欠片ほどの小さい魔力しか持たない者達。まして、魔力の高い者を狙うならば一カ所だけに仕掛けるのは不自然。
大量の霊体や人間が狙いならば複数箇所に仕掛ける方が効率はいいはずだ……なのに、何故この場所だけに仕掛けてあるのか。
「これではすぐに見つけてくれと言っているようなものだが、一体何の目的があってこんなものを」
私達、死神の法術と似ているように思えるが空間固定方式が違う感じだ。それに蘭様の式符術とも違い、術の核……魔力の発生元もこの場所とは違うようだな。
「姉様達に聞けば何かわかったかもしれないが…………」
私は先の見えない憶測に唇に指を添え、頼るように姉様達の姿を思い浮かべた。
こちらの時間で出発したのは昨日の朝で、現世に戻ると連絡を受けたのは昼。そして予定では夕食前には到着する予定だった。
だが、姉様達は今日の朝になっても帰らず、今日で丸一日を過ぎ、あと半日もすれば二日。
現世と神界では時間の流れがかなり異なる為、多少の時間の誤差はあると思うが…………それにしては遅すぎる。姉様達からの連絡から神界にも連絡が取れなくなった。それに今回の姉様の任務のことも考えれば何かあったと推測するのだ妥当だろうな。
「姉様、それに蘭様も一緒であれば安心だとは思うが…………」
問題は私、か。
「……………………」
戦闘が起これば、まず間違いなく萩月凜に事がばれる。そんな事になればあの人間はまず行動を起こす事は明らかで、自分から危険の中に飛び込んでくるだろう。
萩月凜の姿が脳裏に浮かぶのと同時に、萩月家から出立間際に言われた言葉が不意に頭の中で響いた。
(――――――死神でもエリスは女の子なんだし、あんまり無茶しちゃ駄目だよ)
私を気遣う萩月凜の言葉と控えめな笑顔。その二つ私の中で静かに、それでいて重く響く。
「…………人間が、死神の心配など」
頭の中で響く声に私は気の抜けた声でポツリと呟き、
(――――――神様でもエリスちゃんは女の子だもの、あまり無理をしちゃ駄目よ)
萩月凜の姿をかき消すようにあの人の姿が過ぎった。
「っ……………」
あの人の姿に私は唇を噛みしめ、胸に溢れてくる感情に拳を握った。
「私は……」
私は溢れ出る感情に四年前、死神として未熟だった自分を呪ってしまう――――何故、私は死神でありながら無力だったのかと。
「もう、あんな思いをするのはたくさんだからな…………」
もう二度と見ることのできないあの人の優しさに溢れた笑顔に、私は感情に震える声で告げた。
「どんな無理でも押し通す…………そう決めた」
自分でも危ういと思えるほどに脆く崩れてしまいそうな声。
私は自分自身を叱咤するつもりで鏡の中の私を睨み付けた時だった。
「おーいっ!! 皆、どこだっ!?」
暗闇の奥から焦りを含ませた男の声が耳に届いた。
男の張り上げた声に答える者はなく、
「頼むっ!! 返事をしてくれ!!」
再度、男の声が虚しく響く。
私はその声に胸に疼くような痛みを感じ、それを払うように手をかざした。
「…………姿成せ」
私の意志を青の閃光が具現化し、人一人分の大きさの『境界門』が現れる。
門は私を迎えるように静かに開き、私は暗闇の中で響く男の声に背を向けて呟いた。
「…………すまない」
私は震える声で何度も叫ぶ男の声から逃げるように門を潜り、学校を後にした。
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「フゥッ」
私はお風呂上がりで火照った体の熱を吐き出すように大きく息を吐いて、バスタオルで濡れた髪の毛を拭く。
凜と『ソリア』で別れてから二時間。時間は夜の九時を少し回ったところ。
私は『ソリア』での凜とのやりとりを思い出しながらリビングへ。
「凜、大丈夫かな?」
凜が私限定メニューの特製カツカレーを食べ終わった時は真っ青な顔で脂汗まで垂らして…………一応、途中で「私も手伝おっか?」って聞いてみたけど、「頼んだのは僕なのでちゃんと全部食べます」ってきっぱり断られた。
全部食べ終わった頃には凄く辛そうで、帰りも送って行こうかって聞いてみたけど、逆に遅くなったから送って行きます、って言われて嬉しかったけど、さすがに断った。
「まぁ、エリスもいるし大丈夫………………よね?」
私は自分の言葉に何故か不安になって、後で電話してみようと思った。
私は『ソリア』で凜を見送った後。帰る時間が遅くなって慌てて帰宅。家に着いたのは八時より少し前で、家の灯りはまだついていなかった。
お父さんがまだ帰ってきてなかったことに安心するのと同時に、大急ぎで晩ご飯の準備をしようとして家の中に入った時に見計らったようなタイミングで家の電話が鳴った。
出てみると電話はお父さんからで「急患で今日は病院に泊まる」って話だった。
大急ぎで夕飯を準備しようとしていた身としては肩すかしを食らった気分だったけど、ちょっとラッキー!! って思った。
それからは私一人でご飯を食べても楽しくないし、何より凜を待ってる間にデザートとか沢山摘んじゃってカロリーオーバー気味だったから夕飯は無し、と自分の脳内会議で決めてお風呂へ。
お風呂で一時間近くのんびりして今に至る、と。
私はバスタオルを首に掛けて、キッチンへ。
冷蔵庫を開けてながら牛乳パックを取り出して、静かに冷蔵庫のドアを閉めた。
「これ飲んだら凜に電話でもしてみようかな」
私はテーブルの上に置いてあった携帯電話を見ながら、ほんのりお風呂の火照りとは違う熱にほっぺたが熱くなるがわかった。
実は凜の携帯電話の番号は知っていても一度も掛けたことがない。
あかりとか同じ歳の子達とは学校の事とかプライベートで愚痴話とか色々話したりはするんだけど…………凜は学年も違えば性別も違ってあまり電話を掛ける機会が無かった。まぁ、それ以外で一番の理由としては…………ただただ恥ずかしいってだけで掛けられ無かったんだけど。
あかりにこの話をしたりすると「恥ずかしくて電話できないって、どこの純情小学生かっ!!」ってツッコまれたこともあったけど「ただ声が聞きたかっただけ」ってそんな恋人っぽい事を言えるわけもなく…………………。
「き、今日はほら!! 凜、ご飯食べ過ぎて辛そうだったし、迷惑かけちゃったし、誘ったのは私だし、気遣いの電話をするのは当然だと思うし」
私以外に誰もいないのに、どこか言い訳みたいな理由を言いながら慌てる私。
私自身への完璧な建前を自分に言い聞かせ、心を落ち着かせる為に大きく深呼吸をした。
「…………………」
そこから私はコップに牛乳をなみなみとついでグイッ、って一気飲み。
飲み終わったと同時に牛乳パックとコップをテーブルに叩き付けるようにドンッ!! って置いて、すぐ脇にある携帯電話を睨み付ける。
「……………………」
それから何秒か私の中で電話する事への迷いと掛けたいってう衝動がぶつかり合って、
「……………………ッ!!」
衝動が迷いを殴り飛ばして、私は意を決して携帯電話を手にとって。
――――――ピンポーンッ!!
リビングにあったインターホンが意地悪するように鳴った。
私はその音にビクッって肩を震わせて、
「だ、誰!? こんな大事な時に!!」
ちょっとだけ邪魔された苛立ち混じりにインターホンに映る人影を睨んだ。
インターホンの画面に映し出されていたのは肩まで伸びた茶髪姿の女の人。そして私のよく知っている人で、
「あ、あれ? 蛍おばさん」
あかりのお母さんだった。
あかりの家はすぐ近くで、歩いて一、二分くらいの所にあるんだけど…………。
「なんでこんな時間に?」
画面に映る蛍おばさんの切羽詰まった表情に、何かただ事じゃないって私はインターホンには出ず、直接玄関へ。
ドアのロックを外して、蛍おばさんにぶつからないように半分だけ開けて体を出した。
「蛍おばさん、こんな時間にどうしたんですか?」
「あっ、なっちゃん!! ごめんね、こんな夜遅くに」
蛍おばさんは焦りや不安に押し潰されてしまいそうな顔で、声も今にも崩れてしまいそうなほど震えていて。
「ウチのあかりがお邪魔してない、かしら?」
「え? あかりは来てませんけど…………」
「そんな、なっちゃんの所にもいないなんて…………」
蛍おばさんの言葉に私の中でどんどん嫌な予感めいたものが一気に膨れあがって。
「あかり、家に帰ってきてないんですか?」
私の言葉を引き金に、青ざめた顔で蛍おばさんが口を開いて。
「バレー部の先生から連絡があってね―――――――――」
震える声で響いた蛍おばさんの言葉に、私の中で何かが壊れる音が聞こえた。