――― 5月10日 過ぎ行く日常・表 ―――
「 リン、忘れ物よ」
玄関で靴を履くリンに、私は慌てて声を掛けた。
「え? 忘れ物って?」
私の言葉に少しだけ驚いたように振り返るリン。
振り返ったリンに、私は青と白のチェック柄の包み布に包まれたお弁当を差し出して。
「ほら、お弁当。せっかく作ったんだから持って行かなきゃ勿体ないでしょ」
「あ、うん。ありがと、セフィリア」
リンは別段驚いた様子もなく、のほほんと笑って受け取った。
そんなリンに少しだけ、私は腕を組みながら苦笑いをした。
「忘れ物って言うのは別に良いんだけど……自分で作ったお弁当忘れるなんてちょっと不思議」
「はは、ほんとそうだね。僕が言うのもなんだけど、時々忘れちゃったりする時があるんだよね」
リンは少しだけ恥ずかしそうに笑って、
「滑稽だな」
それを小馬鹿にするように、冷めた声が後ろから突き刺さるように飛んできた。
私はその声に小さくため息を付いて、後ろを振り返った。
「エリス…………またアンタはそんな事言って」
「い、今の発言に何か問題でも?」
私がため息混じりにこめかみを押さえる姿にエリスは困ったように眉を寄せて、
「客観的に今の状況について発言しただけなのですが……」
「もう少し言い方を気をつけなさいっての。今の言い方だとケンカ売ってるように聞こえるし、何よりリンに失礼でしょうが」
「別段、戦いを仕掛けているつもりでは……それに人間相手に言葉を選ぶ必要は」
「エリス?」
一向に反省するつもりのないエリスに私はにこやかに笑顔を作って仁王立ちする。
私の作り笑顔に、
「い、以後気をつけます!!」
慌てて逃げるようにリビングへと消えた。
「まったく…………」
「ははっ…………」
私とエリスのやりとりを後ろで見ていたリンは気まずそうに笑って、私はまたリンの方に向き直った。
「あまりゆっくりしてると学校に遅れちゃうし、他に忘れてる物とか無い? あるなら取ってきてあげるけど」
「教科書は鞄に入れてあるから心配ないし、財布も携帯電話もちゃんと持ったよ」
「ハンカチとかティッシュは?」
「大丈夫、ちゃんと持ったよ」
そう言って、ブレザーの右ポケットをポンッ、って叩くリン。
「なら大丈夫ね」
「うん、それじゃ行ってくるね」
「事故んないようにね」
「はーい」
私へ間延びした返事を返しながら玄関のドアを開くリン。
今のやりとりに母親と子供みたいだなって、小さく笑って。リンの動くがピタって止まった。
リンはドアを開けた状態で一度、私の後ろ。リビングに向かって少し大きめの声で言った。
「お祖母ちゃん、いってきまーすっ!!」
それから一秒と開かずにランさんの「気をつけていくんじゃぞぉっ」とリンと同じように大きめな声が返ってきた。
リンはその声に小さく笑いを溢して、
「はーいっ!!」
一歩外へ。
「もし、何かわからない事とか必要な物があればお祖母ちゃんに聞いてみて」
「了解」
「それじゃあ」
パタンと静かにドアが閉じて、ドア越しにリンの足音が遠のいていく。
リンを見送り、頭の後ろで両手を組みながら振り返って。
「さてっと」
この後の動きを確認しようとリビングに戻った。
リビングに戻るとエリスが私の顔色を伺いながら椅子に座っていて、テーブルを挟んでエリスの正面にはランさんが食後のお茶をほっこりした顔で「食後の一杯は格別じゃのぅ」って仕事終わりのオッサンみたいな事を言っていた。
湯飲みを静かにテーブルに置いて、ランさんが私の方を見上げて。
「凜は学校に行ってしもうたし、お主らもこの後は仕事に行くのじゃろ?」
「はい」
「ふむ、となると……儂は今日は何も予定がないからのぅ。一人で留守番か」
どこか寂しさをのぞかせた表情で呟くランさん。
寂しさを紛らわせるようにお茶を飲むランさんの様子を伺って、私とエリスは互いに視線を併せて頷いて。
「その、ランさん」
「ん、どうしたんじゃ? セフィリア、それにエリスも何をそんな申し訳なさそうな顔しておるんじゃ?」
私達の様子に首を傾げながら尋ねるランさんに、私が答える。
「あの、任務の事でランさんにお願いが…………」
「任務の手伝いかえ? 確か、今回の任務は町の魔力調整であろう? ならばそれほど難しくなかろうに」
「いえ、そちらとは別の任務でお願いしたい事があるんです」
「はて、別とな?」
予想外とばかりに、ランさんはまた湯飲みをテーブルに置いて、話を聞こうと体の向きを私に合わせてくれた。
「別件、というよりは前の任務……ジュマ=フーリスの件についてなんです」
「ほぅ」
私が口にした死神の名前にランさんの目が鋭さを帯びる。
ランさんの様子にエリスは緊張に強張って、借りてきた猫みたいに固まってる。
まぁ、自分の孫であるリンを殺そうとしていた相手の名前だもの。ランさんの顔色が変わるのも無理ないと思う。
「それで? 儂に頼みというのは?」
気持ちを引き締めるようにランさんは両腕を組んで、私はランさんの言葉に促されるように言った。
「私と一緒に『神界』へ来てください」
§§§§§§§§§§§§
教室の窓際。その一番後ろの席に座って、窓枠の奥に広がる空を見上げながら僕は思う。
「今日も良い天気だなぁ」
今日で転校してきた設定、四日目。今は二時限目と三時限目の休み時間。
周りは次の授業の準備だったり、それぞれの話題で楽しそうに話を咲かせたり……僕が知っているクラスの風景と何も変わっていなかった。
僕はというと目的があるわけでもなく空を見上げては、さっきみたいに呟いて日常を過ごしている。
日常と言っても、転校してきた僕は別段クラスの皆から好奇心から質問攻めも親切心から世話を焼いてくれるクラスメイトができたわけでもなく……ただ、いつも自分の席で一人ぽつんって座ってるだけ。
「………………」
今まで僕のクラスに転校生が来れば、普通なら転校生って話題で何人かのクラスメイトが話しかけてくれて、そこから少しずつクラスに打ち解けていく……そういうものだって思ってたし、実際そうだった。
でも、僕の場合はその「普通の転校生」には当てはまらなかったみたいで。
「次の授業ってなんだったっけ?」
誰に質問するわけでもなく、僕は独り言を言って。
僕の声を遠くへ運んでいくように優しい撫でるような風が吹いて、僕の髪を小さく揺らす。
別に自己紹介で変な事を口走ったわけでも、転校初日からクラスメイトとケンカをしたわけでもないし、勿論それ以外の目立つ様な問題を起こしたわけでもない。
でも、理由は簡単で。自分でも「まぁ、こうなるよねぇ……」って予想はしてた。
「………………」
クラスメイトが僕に興味を引かなかった……ううん、クラスの人が僕を避けている理由。
それは…………僕の髪と瞳の色が原因だ。
僕の髪と瞳は綺麗な紫色。髪の毛であれば黒髪や茶髪、白髪……他にあったとしても金髪。瞳で言えば碧から黒に茶色。あとはこれは僕と同じくらい珍しいと思うけど色素欠乏症の人でウサギみたいに紅い瞳、でもこっちの方が世間的には知られている方だと思う。
それが紫色って、カツラとカラーコンタクトでもしてるの? ってくらいに度を超えた色をしているから……初対面の人は大体気味悪がって僕を避ける。
何度か髪を黒く染めてはみたけど、お風呂に入ってシャンプーをするとまるで泥が落ちるみたいに色が落ちて、結局元の紫色に戻っちゃった。
幼稚園とか小学校の時はよく、髪や瞳の色の事でいじめられてたりしたけど……まぁ、その高校生版が「触らぬ神に祟りなし」って状態で。今までは十六年っていう時間が『慣れ』っていうものをくれていたけど、今はそんなアドバンテージはないからこうなる事は必然で。変なイジメの標的になっていない分、マシかなって思う。
「えっと、時間割は……」
僕は空から視線を教室内に戻して、時間割を確認しようと教室前方の出入り口に移しかけた時だった。
「おーい、萩月」
「へ?」
向きかけていた方向、右側からよく通る声が聞こえてきて。
「次、体育だからはやく準備して。校庭でやるから急いで欲しいんだけど」
顔を向けると、そこには僕を見下ろしている一人の女の子がいた。日の光のせいなのか背中まで伸びた長い黒髪は赤みがかって見えて、少しだけつり上がった瞳が活発的なイメージを感じさせた。
僕は目の前にいる女の子の顔に、見覚えがあった。
――――――――――おい、萩月!!
僕が幽霊だった夏先輩を生き返らせる為に、セフィリアから『事象回帰』の事を聞いた日。教室で僕に話しかけてきた女の子だ。
僕はその女の子に驚いて、
「え、と……」
「ん、どうしたの? そんなに驚いた顔して」
「いや、その……初めて話し掛けられたからビックリして」
驚いた事を誤魔化すために愛想笑いしながら答えた。
「初めてって……あぁ」
女の子は僕の言葉に首を傾げて、少しだけ間をおいて何か納得したような顔で僕を見た。
「確かに、あんたに話掛けたのは私が初めてかもね。皆、あんたに話し掛けて良いものか迷ってたみたいだし」
「はは、やっぱりそうなんだ」
「やっぱりって?」
特に深く考えないで出た言葉に、女の子が不思議そうに問いかけてきて。
「いや、ほら。僕って変わった色の髪と瞳してるでしょ? 紫色の髪と瞳って気味悪いんだろうなって……」
「あぁ、違う違う」
女の子は慌てて僕の言葉を遮って、
「え? 違うっていうのは……」
「確かに萩月って珍しい髪の色とかしてて目立つし、そう言うのを気にしてる子もいるけど……皆が話し掛けるの迷ってたのは髪の色とか関係ないよ」
苦笑いでいった。
「あんた、自分の事だから気がついてないかもしんないけどさぁ。転校してきてからずっと物凄いしかめっ面してて、話し掛けても良いのかわかんない雰囲気だったからさ」
「し、しかめっ面って」
「なんかスゴい悩み事してるみたいな感じで、下手に話し掛けない方が良さげだったから……とりあえず、あんたの様子が落ち着くまで話し掛けられなかっただけよ」
女の子はその時の僕の真似をしているのか、腕を組んで眉間に物凄い皺を寄せて仁王立ちした。
「そ、そうだったんだ……」
僕は女の子のモノマネを見ながら、顔に出ていたのかと反省した。
クラスの皆や今まで面識のあった人達へ初対面っていう対応をしなきゃっいけないってあまり目立たないように黙っていたけど、それは逆効果だったみたいだ…………まぁ、考え事をしていたのは本当だし、顔に出た原因もきっとこっちだと思う。
「ご、ごめんね? なんか皆に気を遣わせちゃったみたいで……」
とりあえず、気を遣わせてしまった事を謝ろうとして。
「えっと……その…………」
僕は女の子の名前が出てこなくて、あたふたしながら女の子の顔を見ていたら。
「箕島よ」
「え?」
女の子は僕の様子に気がついたように名前を言った。
「箕島香夜。このクラスの学級委員長をしてるわ、何か困った事があれば何でも聞いてよ」
箕島さんははにかみながら手を差し出し、
「これから二年間、よろしくね。萩月」
「こちらこそ。よろしく、箕島さん」
僕は笑い返して、箕島さんの手を握った。
ぎゅっと握手をして、どっちからってわけでもなく手を放した。
「さて、挨拶も済んだし……早速で悪いんだけどさ、萩月」
「なに?」
箕島さんは作ったようなニッコリ笑顔で僕に微笑んで、
「教室から出てって欲しいんだけど」
「…………へ?」
僕は突然の言葉に、気の抜けた声が出た。
「えっと……何で?」
突然の言葉に僕は戸惑いながらも聞き返して。
「何でって……」
箕島さんがじとっとした目つきで僕を睨んで、首を小さく後ろに降った。
「次は体育の授業で、女子が教室で着替えるから移動して欲しいんだけど?」
「き、着替えっ!?」
箕島さんの言葉に思わず叫んで、僕は慌てて周りを見回す。
「っ!?」
周りを見回すと僕以外の男子の姿はなく、全員が女子。
それも何人かはもうブレザーを脱いでいたり、ネクタイを外したり。覗き防止の為にカーテンを引いて、たくさんの女子の視線が僕を締め上げるように集まっていた。
その光景に体育の授業で着替えをする時は女子の着替えの覗きを防ぐ為に、男子は体育館の更衣室で着替えをする事になっているのを思い出した。
この状況を認識するのと同時に体中から汗がドッと吹き出して、心臓が一瞬で破裂寸前まで脈を打って。
「ほら、早くしないと転校してすぐに変態のレッテル貼られちゃうわよぉ~」
「ごっ!! ごめんなさいっ!!」
箕島さんの言葉が耳に入ると同時に、僕は逃げるように教室を飛び出した。
「だ、誰か声掛けてよぉっ!!」
後ろからは女子の笑い声が聞こえてきたような気がしたけど、そんな事を気にしている余裕なんてなくて少しでも教室から離れようと全力で廊下を走った。
そしてバタンッ!! と教室のドアが閉まった音と同時に、
「あぁっ!!」
僕はある事に気がついて急停止。
慌てて後ろを振り返った時にはもう手遅れで。
「着替えのジャージ、教室に置いてきちゃった…………」
堅く閉じられた教室のドアを見ながら「今、取りに戻れるわけないしなぁ……」って自分の間抜けさに呆然と呟く僕。
女子の皆が着替え終わるのを待っていたら次の授業に絶対に間に合わないし、かといってこのままで授業に出るわけにも行かないし…………。
「誰かジャージを二着なんて持ってきてるわけもないし…………あ」
黙って制服姿でやるしかないと覚悟を決めかけて、ふと都合良く思い出した。
「保健室に行けば、予備の備品でジャージ貸して貰えたっけ」
僕の記憶違いじゃなきゃ、保健室で忘れてきた人の為に何着か予備で貸し出してたはず。当然だけど、使った後は自分で洗濯して返さなきゃいけない手間はあるけど……この際、仕方ないか。
今僕がいるのは二階の北側で、保健室は一階西側。歩いていけば三分ぐらい掛かるけど、それだと着替えてる時間もないし、何より授業に間に合わない。
「走れば何とか間に合うかな?」
僕は襟元に指を差し込んで、ネクタイを緩ませながら走り出す。
「…………」
今みたいに僕ががちょっとドジって廊下を急いで走ってたり、他のクラスの人達が教室や廊下で話してる光景に、どこか懐かしさみたいなものを感じて。
「僕の方はなんかバタバタしてるけど」
やっぱり、これが日常なんだって思う。
そして、それと同時にある人の事が思い浮かんで……つい、その人の名前を呟いた。
「夏先輩はどうしてるかな?」
§§§§§§§§§§§§
「ねぇねぇ、夏子!!」
「んー? なーに、あかり」
正面から聞こえてきた少し興奮気味の声に、私は気のない返事を返して右手に握っていたシャーペンを走らせる。
前から二列目、窓際の席でいそいそと勉強に励む私に、あかりが何か突き出していて。
「この雑誌の記事見てみなよ、ウチの学校の事載ってるよ!!」
雑誌を叩いているのか、紙を叩く音が何度か響いた。
私はその音に小さくため息を付きながら顔を上げて、
「あかり、今自習時間なんだけど……」
「そんな事わかってるわよ、だから話しかけてんじゃん」
私の言葉に拗ねたように唇を尖らせているあかり。
小さい子供みたいに拗ねる幼馴染みに、私はもう一度ため息をついた。
教室の黒板には少し大きめな字で「自習」って書かれていた。
本当であれば国語の授業の筈だったんだけど、教科担当の先生が体調不良で自習になった。
今は授業の三時限目が始まったところ。私は今日教えて貰うはずだった範囲の予習をしていたところだったんだけど…………。
「他のみんなだって私と似たようなもんじゃん。真面目に自習してるのなんて夏子ぐらいよ」
どこか開き直ったように雑誌を持っていた手を教室全体を指すように動かして、私はあかりの言葉と腕の動きにつられるようにクラスの様子を見た。
すると、私の目に映ったのはあかりの言葉通り。さすがに声の音量は下げていたけど、仲の良い友達同士が集まって雑談に華を咲かせていた。
私はノートにシャーペンを置いて、ため息混じりに頬杖した。
「何、さっきからため息付いてるのよ?」
「別に、何でもない」
襟元で束ねた茶色がかった黒髪の小さなポニーテールが揺れて、
「何でもないなら話し元に戻すわね」
強引に私を話しに引き込んで、あかりは椅子を私の席に向け直して座った。
「ほら、この雑誌。ここの記事に紫苑高校が載ってるの」
持っていた雑誌をノートの上に重ねるように広げて、完全に雑談モードに入るあかり。
私はあかりの様子に自習を諦めて、差し出された雑誌に視線を落として。
「えっと…………」
あかりが開いていたページのタイトルに言葉が出てこなくて、私は目を細めた。
記事の見出しは『実録!! 本当にあった都市伝説』。
「都市伝説、ねぇ」
その言葉に力が抜けた声が出て、
「あぁっ!! その顔、私を馬鹿にしてるでしょ!?」
私とは反対に、あかりの声に熱がこもって慌てて否定する私を疑うようにあかりが睨んできた。
「してないしてないっ!!」
私はすぐに首を横に振って。
「ほんとにぃ?」
「ほんとだよぉ!!」
「…………まぁ、いいけど。私は夏子に馬鹿にされても仕方ない脳みそなのは事実だしぃ」
根に持ってるのが丸わかりなんですけど!! って心の中でツッコミつつ、あかりの話をちゃんと聞いてあげないと、と反省もしてみる。
「そ、それで? ウチの学校の都市伝説っていうのはどんな事なの?」
「…………とりあえず左ページの一番左上を見てみて」
妙な沈黙があったけど、あかりもこれ以上口喧嘩しても仕方がないって諦めたのか、一言だけ言って右手で読んで欲しい記事を指さした。
あかりの指先に先導されるように、私も視線を移動させて。
「ここよ、この記事」
「『闇が支配する四時四十四分、二階西校舎の大鏡に鏡の世界の扉が開かれる。そしてその鏡に姿を映したものは鏡の世界に閉じこめられ、二度と戻ってくる事はできなくなる…………って」
指さされた記事を読んで、私は思わず脱力しながらツッコんだ。
「これ、学校の七不思議じゃない。それも結構怪談話の定番」
「いや、確かに夏子の言う通りなんだけどね」
あかりは私のツッコミをさほど気にせずに聞き流しながら、
「私が言いたいのはウチの学校が記事に載ったのが凄いよね、って話で」
「……………………」
「……………………あれ? そんなでもない?」
私とあかりの間には価値観の違いから生まれた気まずい空気が流れて。
「確かに、凄いなぁって思うけど………………それほどでもない、かな?」
あかりを傷つけないようにできるだけ優しく笑って答える私。
「ちぇっ!! 夏子のノリがすこぶる悪い!!」
「えっ、私が悪いの!?」
逆ギレしたあかりに私は眉を寄せて、あかりはそんな私の事なんてお構いなしに机に体を乗せて。
「まっ、夏子のノリが悪いもの仕方ないかぁ。今は別の事に夢中だもんねぇー」
何でか突然茶化すようにニヤニヤし始めて、
「夢中になってる事って……いきなり何を言ってるのよ、あかり。別に今、夢中になってる事なんてないわよ? 強いて言うなら受験勉強くらいで……」
「あらあらまぁまぁ、また嘘付いちゃって」
右手を反して口の横に添えて、横目で私を見るあかり。
その姿がひそひそ話する近所のお母さん達のように見えて、嫌な予感がした。
「嘘なんて付いてないよ」
「嘘おっしゃい!!」
あかりは何故か勝ち誇ったような笑顔で私を見て、口元に添えていた右手を握って。
「今、夏子が夢中なのはあの子でしょ?」
ビンッ!! と力強く突き立てた親指を窓の外へ向けるあかり。
「あの子って?」
私はあかりの指さす方向へ顔を向けると、窓の外から聞こえる声に私は椅子を窓際に寄せて下を見下ろした。
するとそこには、学校指定の青いジャージに着替えて校庭をランニングしている生徒の姿が見えた。
大体一周五〇〇メートルのトラックをペースの差なのか、散り散りに走る生徒達。
そんな生徒達の中で不自然なまでに目立つ髪色の男子を見つけて、
「紫苑高校二年三組に転校してきた転校生、名前は萩月凜。歳は一六、身長は一三五センチと小学生並みの低身長。体重は殴ってやりたくなるくらいに軽くて、外見は紫色の髪と左眼が特徴的で母性本能くすぐり系男子」
まるで私の心を読んでるみたいなプロフィール説明をするあかり。
「家族構成はわからんし、趣味もわからん。が、しかしっ!!」
途中、説明が酷く雑になって。その雑さを押し切るようにあかりはにやりと八重歯をのぞかせて笑う。
「転校初日から幼馴染みの私を差し置いて昼休みは夏子と昼食、登下校も一緒という何いきなり出てきて私のポジションとってんじゃああああっ!! という只今夏子さんのラブ度最上位少年ですよ、ハイ」
後半はもはや妬みみたいなものが混ざっていたけど、最後に付け加えられた言葉に私の顔が一瞬で沸点を超えた。
「ラ、ラブ度って何よっ!?」
私は思わず叫びながら立ち上がって、教室中の音が消えてクラスメイト全員の視線が一斉に集まった。
「ちょ、夏子ってば……少し取り乱しすぎだって」
私の行動が予想外だったのか、あかりは慌てて私の手を引いて座らせた。
私とあかりの様子に好奇心に惹かれたのか、数人の男女が立ち上がって。
「あぁ、何でもないから!!」
あかりは「こっち来ないで」って言わんばかりに立ち上がった人達を払うように手を振った。
あかりの手払い信号に渋々って感じに立ち上がった人達は席に座って、あかりがほっと胸を撫で下ろした。
「もう、少しは考えてよ」
「どっちが!!」
口調は勢い良く行くけど、音量は小声な私。
「いきなりあかりが変な事言うから悪いんでしょ!!」
「いや、そうかもしれないけどさぁ……驚くのにも限度ってものがあるでしょうに」
一応、あかりも悪い事をしたと思っているのか、私と同じように小声で話し始めて。
「でも、的は射てるでしょ?」
質問みたいな言い方だったけど、声から伝わってくるのは確信じみた自信。
「ちが…………」
私は否定しようとしたけど、その声と余裕綽々なあかりの笑顔に言葉が詰まって。
「はは、夏子って昔っからわかりやすいよねぇ」
「くぅっ!!」
あかりの得意げな微笑みに私は渋い表情で睨み返す。
「しっかし、夏子の好みがああいうタイプだったとはねぇ」
私の視線から逃げるように、あかりは窓枠に両腕を乗せて、その上に顎を乗せて走っている凜を眺めて意外そうに呟いた。
「べ、別に私が誰を好きになったって良いじゃない」
私もあかりと同じように窓枠に乗るように寄り掛かって、拗ね気味に呟いた。
「まぁ、夏子が好きになった子なら絶対良い子だって思うし、夏子の事凄く大事にしてくれると思うよ」
「な、何よ? それ。なんか結婚式目前のお父さんみたいな口調は…………」
「はは、それで? あの凜って子とはどこであったの?」
「えっ? どこって」
前にも話したじゃない、って言葉が出てきそうになって慌てて息ごと呑み込んだ。
「っ…………」
「ん? どうしたの?」
すぐに答えが返ってこなかったのが不安になったのか、あかりの表情が少しだけ曇って。
「ううんっ!! 何でもないよ!!」
私は慌てて首を横に振った。
私はあかりに愛想笑いを浮かべながら、
「えっとね、凜と初めてあったのは……」
心の中で、帰ってきた日常が変わってしまった事を再確認した。
凜って子とはどこであったの?
あかりの言葉がそれを突きつけるように、私の中で大きく膨らんでいく。
「初めて会ったのはお父さんが働いている病院でね」
私はあかりから視線を凜へ移して、差し支えない変わりの記憶をあかりと共有していく。
「へぇ、病院でねぇ……なんか運命的な感じがするわね」
私の恋話に嬉しそうに笑いながら相槌を打つあかり。
私の記憶とは違う出来事の話をする傍ら、私は変わってしまった日常に想いを馳せる。
今、あかりと話している事は一年前。凜に初めて出会った時のことをなぞっているだけ。
本当だったら、あかりが凜の事を憶えていたら……こんな話じゃなくて、私が凜に告白した時の事を悔しさ一杯で話していた筈なのに。
でも、これは私の責任だと思う……だって、本当だったら凜じゃなくて私が皆から忘れられてかもしれないはずだったんだから。
ランニングが終わったのか、二人のペアになって準備体操をしている凜の姿に胸が苦しくなる。
何を話しているかわからないけど、ペアになった男子生徒と楽しげに笑っている凜の笑顔がどうしようもなく寂しかった。
今、凜はどんな事を思って過ごしているんだろう? どんな事を思って笑っているんだろう? どんな事を思って世界を見ているんだろう?
自分のいた記録も記憶もなくなってしまった世界で、凜はどんな思いで生きているんだろう?
昨日の帰り道の途中。
私が「悩み事があるなら相談に乗る」って言った時。凜は笑って「何でもないですよ」って言っていた…………けど、その言葉は絶対に嘘だと思った。
だって、その時の凜の表情は軽く触っただけで壊れてしまいそうだったから。
泣きたいのを必死で堪えて……辛い事も苦しい事も全部。思いっきりやせ我慢してる…………そんな笑顔だったから。
今も私の瞳に映る凜の姿は簡単に砕けてしまいそうで。
そんな危ない壊れ物のような凜の姿に私は自分の情けなさに心の中でため息を付く事しかできなかった。
…………私は凜の力になってあげられないのかな?
心の中で呟いた一言が、酷く重く感じた。