異世界転生しました。後悔しています。だから私は、
令和七年、私は自ら命を絶った。
よくないことだった。
就職して四年目で新たな上司として着任した女性からの粘着質なパワハラに蝕まれ、ストレスで過食に走っては壮絶な罪悪感と共に胃の腑から一切合切を吐き出す月日。
そんな私に付き合いきれないと、結婚秒読みだった婚約者もあっさり去って行った。
精神も病んで、肉体も病んだ。
限界だった。
だから、崖から飛び降りて、荒れ狂う海へと自分を捨てた。
忽然と跡形もなく消えてしまいたかった。
この世界からも、どの世界からも、抹消されることを願った。
よくないことだった。
「ヴァネッサ様、お目覚めのお時間でございます」
逆さまに落ちていく、遠ざかる曇り空。
真っ白に包まれた私が次に目を開いた時には、ふかふかのベッドの上にいた。
寝そべる長方形を囲うようにしてずらりと並ぶ、メイド服の人々。
天蓋のなか、最もプライベートな空間に干渉するのはマナー違反では?と思ったところで頭に疑問が湧いた。
はて……マナー?
「おはよう、ハンナ。今日のお天気は?」
「快晴にございます」
「健やかなる日ね。こういう日は街に遊びに行きたいところだわ」
ベッドから起き上がると、私の足は前へと進み始める。
勝手に身体が動くし、勝手に言葉が口から出る。
不思議な感覚だ。
意識は確かに私なのに、その入れ物は全く別物のよう。
上から垂らされた糸で操られる人形のよう。
「本日、午前中はフランセイス語の習得、午後はカドリールのレッスンと護身術の体験講座でございます」
「私の思い通りになる時間は?」
「ご就寝前のひとときだけ、かと」
ハンナと私に呼ばれた女性は、侍女チームの長であるようだ。
あれこれと周囲に指示を出しながら、洗顔を手伝ってくれる。
何か薬草の匂いのする水で口をゆすがせると、ドレッサーの前にある椅子を引いて私を座らせた。
鏡に映る、その姿は。
「何これ、外国の女の子がいる」
「ヴァネッサ様? どうされました?」
思わず出た驚愕の言葉、意識を司っているであろう私が初めて出した言葉。
私は、呆然とその女の子と対峙した。
顔をぺたぺたと触る。
近づいたり遠ざかったりする。
左右に反復横跳びする。
行動はどれもひとつも違わずに行われる。
当たり前だ、それは私なのだから。
でも、俄かに信じがたい。
純日本人だったはずの私が、鼻筋の通った少女になるなんて。
何が起こった?死んだはずじゃないの?
「ハンナ、これって私よね?」
「ええ、左様でございます」
「ずっと私は私だったのよね? 今日産まれたばかりとかではなく?」
「ご就寝の前恒例のベッドの上でのハイジャンプで、頭を強打されましたか? それとも料理長に隠れて魔錬成した毒物でも食されましたか?」
「……私、意外とやんちゃね?」
「ええ、若様には秘密にしてあります」
その侍女はブルネットの髪をブラッシングしながら、口の端を僅かに吊り上げた。
共犯の香りがする。
どうやら私の外側は、お金持ちの少女にしてはお淑やかとは一線を画すものらしい。
少女の一人部屋にしてはあまりにも広い室内、艶りと重く光る家具、花模様の可憐な壁紙、その前に居並ぶ数名のメイド服。
まさしく英国貴族のようだ。
齧った程度の知識ではあるけれど、たぶん間違っていないだろう。
これはもしや。
もしかしなくとも、もしや。
「ねぇ、ハンナ。少し質問してもいいかしら」
「ええ、何なりと」
「頭を打って記憶が飛んだと思って気楽に聞いてね?」
「承知いたしました」
「私は何者で、何歳で、私の暮らすこの環境は何なのか、教えてもらえる?」
髪を編んでいた手が一瞬ぴたりと止まる。
鏡の中で視線がかち合った。
そして何事もなく再開される作業。
「相当重傷でございますね、ヴァネッサ・シェインズ様。もう十四歳にもなりますのにお転婆も大概にされませんと、旦那様や若様、お身体の弱いお姉様の気も休まりませんでしょう。我がファーミアン王国の中でも由緒正しき侯爵家の次女でいらっしゃるのですから、皆様のお手本となる淑女になられますよう」
有能だ。
ハンナはとても有能だ。
前世、と称していいだろうか、この世界に来る前の私と同年代に見えるのに、頼んでなかった家族構成も盛り込んだ人物紹介をしてくれた。
私、十四歳の少女なのね。
少女にしては出来上がってる骨格な気がするけれど、これがこの世界のデフォルトだろうか。
まさか、半分の年齢になるなんて。
「ファーミアン王国って、地球のどこ?」
「地球……?」
「訊き方が悪かったわ。西洋のだいたいどのあたり?」
「西洋……?」
「……周辺諸国の名をいきなりど忘れしてしまったから、発表してくれる?」
「大きなところで申しますと、フランセイス王国、イタリーヌ帝国、ドンドイツ皇国、スペッシュ公国でございます」
「今年って何年?」
「テリセル暦一八六七年でございます」
決まりだ、間違っていなかった。
もしかしなくてもこれは、異世界転生だ。
令和七年ともなると色んなジャンルの書籍や漫画、ドラマに溢れていて、その言葉を耳にしたこともあったから、事象自体のネーミングには触れたこともあったけれど。
まさか、自分の身に降りかかるなんて。
私は死にたかったのよ、神様。
一握りの灰にさえなりたくなかったのに、また生を重ねなければならないの……?
「ヴァネッサ様、眉間に皺をお寄せになるのはなりません。奥ゆかしいお顔立ちに影が差してしまいます」
気になる物言いをスルーできなかった。
「それって一聴すると褒めてるけれど、その実、マイナスをどうにかゼロに戻す時に使う苦肉の表現よね?」
綺麗とか可愛いとか、素材そのままを述べた表現ではなく、素材の中身や雰囲気に言及する婉曲表現を使う時はきまって褒めていない。
奥ゆかしい顔立ちってことは……。
「地味なのね、私の顔」
鏡の中で再度合った共犯者の視線が、ふいと逸らされた。
まぁ、でも分かる気がする。
前世でも月並みな容姿だったし、そこは特別気に留めてもいなかった。
ヴァネッサは鼻筋は通っているけれど、髪も目の色も暗めで、キラキラのお嬢様という作りではない。
ちなみに鼻筋ならば、ハンナのほうがエベレスト級の高さを誇っている。
「ヴァネッサ様、お着替えをされてご朝食でございます」
いつの間にか終わっていた顔面周りのセットアップを崩さないようにしながら、室内用のドレスに袖を通した。
足が勝手に動く。
一階の食堂へと入ると、そこには既に三名が座っていた。
「おはよう、ヴァネッサ」
「また朝寝坊だな、ヴァネッサ」
「その髪型、わたくしが昨日していたのに似ているわね。真似するなんて可愛いわ、ヴァネッサ」
三者三様の挨拶が降りかかる。
「おはようございます、家族の皆さん」
口が勝手に動く。
なんとも他人行儀な挨拶返しだけれど、これが通常運転らしく、家族の皆さんは気にせずに食事を続けている。
ハンナに右側の席を勧められたので、大人しく座った。
すぐさま朝食が提供される。
分厚いホットケーキに心躍るのは、生粋の十四歳ゆえだろうか、それとも前世仕込みの甘党ゆえだろうか。
「ヴァネッサ、今日の予定は?」
「午前はフランセイス語、午後はカドリールと体験講座だそうです」
「お前もあと二年でデビュタントとなるんだ。レディとしての振る舞いを、よくよく身に付けなさい」
いわゆるお誕生日席に座ってステーキを切りながら白髪の男性——父であろう侯爵閣下が言う。
「お前は肝心の器量が優れないから、中身で勝負するしか良家に見込まれる術はない。人一倍努力をして、我が家門に恥じない令嬢でいなきゃな。遊びも大概にしなさい」
私の対面に座る赤茶の髪の青年が、とげとげしい言葉を放ってくる。
もしかして私、嫌われているな?
ハンナが言っていた『若様』だろうが、実の兄ではないのでは、と疑いたくなるレベルで嫌われている。
「お兄様、そうおっしゃらず。ヴァネッサはまだ子供ですから、日に焼けても無邪気で可愛いではありませんか。私は身体が弱いでしょう? 肌も白く透きとおって不健康そうに見えるのが悩みの種ですので、ヴァネッサの元気は羨ましい限りです」
兄っぽい人の隣には、やわらかい金髪に薄紅の瞳を持つ女神が座っていた。
白いスープを飲んでいる。
「マリアーネ、その儚さはこの国一、いや、この大陸一美しいものだよ。皆からの羨望の眼差しを一心に受けるのは、君だ。あんな野生児のなけなしの長所など比較対象にもならない。君は最高のレディとして胸を張っていなさい」
「ありがとうございます、お兄様。病弱で産まれてしまった私ですけれど、精一杯頑張りますわ」
「マリアーネは十分頑張っているだろう? 身体がつらくても泣き言ひとつ零さずに責務を全うするじゃないか。遊んでばかりいるヴァネッサにお前の健気さを分け与えたいよ」
兄、姉、父は、あははと笑い合う。
……私いま、踏み台にされたよね?
貶めた他人の上で誰かを褒める行為は、マナーとしては最低だよ?
地獄か、ここは。
地獄の前世から逃げるために命を捨てたのに、管轄違いの別の地獄に舞い戻ってしまったのか。
あまりのショックにカトラリーを置く私に、ハンナは小声でこう囁いた。
「ご辛抱を。以前のようにテーブルをひっくり返してはなりません」
思わず鼻から息が漏れた。
私という意識に乗っ取られる前のヴァネッサ、やんちゃすぎない?
怪力健康優良児か?
太陽光が燦燦と踊るなかで、地獄の朝食は続く。
ヴァネッサ・シェインズ、十四歳。
シェインズ侯爵家三兄妹の末娘として産まれる。
ブルネットの髪に勝気につり上がった暗めの瞳、若干のそばかす。
子供同士の交流会という名目で行われる色々な催しのためにドレスを作る際には、仕立屋を高熱で倒れさせるほどには残念な見た目。
ただし、要領はよく頭の出来もいい。
シェインズ家の構成員は、ヴァネッサ他三名。
母は既に他界、父は社交シーズンの間、タウンハウスと愛人を住まわせている邸を行ったり来たりする生活を送っている。
十九歳の腹違いの兄は、大学に通いながら跡取りとしての修行中。
小物、意気地がない。
もうすぐ十六歳になる腹違いの姉は、病弱だけれど絶世の美女。
女性は見た目で人間性のほぼ全域を推し量られるといっても過言ではなく、老若男女すべてから熱い眼差しを送られる存在。
初対面で感じていたことではあるけれど、家族の皆さんと日々を共に過ごす中ではっきりしたことがある。
私はあからさまに虐げられているわけではないけれど、薄っすらとまとわりつく侮蔑的な雰囲気にいつでも苦しめられている。
愛していなかった女の胎から出た子など、愛す対象にはならいない。
父のそのような態度は、当然子にも伝染する。
父はすぐに姉と比べて苦言を呈するし、兄は貴族の子息としては配慮に欠ける言葉の矢を浴びせてくる。
そして、姉。
一番の問題は、ここだ。
私がヴァネッサとして生きてしまうようになってから、半年が経った。
相変わらず私の一日のスケジュールはぎゅうぎゅうに詰めこまれている。
語学、マナー、各種習い事を悪魔の講師陣に叩き込まれ、疲労から夜は爆寝、少ない睡眠時間ゆえに常に目の下に青い沼を作りながら毎日を過ごしている。
片や病弱な姉は優雅に、ゆったりまったり一日を堪能する日々。
「今日は調子がいいからイタリーヌ語を勉強……ごほ、ごほ」
「デビュタントに向けて、新作のドレスでウォーキングを……あら、なんだか目眩が……」
「ピアノのお稽古をしたいから先生を呼んでもらったの。楽しみに……急に指先が冷たくなってきたわ」
やる気は見せる。
やる気はあるんだぞ、とアピールはする。
けれど、そのどれもが急な体調不良によって延期となる。
父や兄のみならず、姉専属の侍女たちの過保護ぶりは凄まじい。
少しでも咳き込めば、少しでも覚束ない足取りをすれば、問答無用で姉を部屋へと連れて行く。
その度に、当人は。
「私は大丈夫ですのに……けれど、みんなの心配を無下にはできませんわ。ヴァネッサ、代わりにお勉強をお願いね」
「ドレスを着るのを楽しみにしていたのに……ヴァネッサ、あなたが練習して今度私に教えてちょうだい。あぁ、あのドレスはあなたの肌には合わないから使わないでね」
「少しくらいなら無理しても……細くて綺麗な指に無理はさせられないですって? みんなありがとう。ヴァネッサ、あなたの指は頑丈だから、耐えられるわよね?」
全部がこちら側に丸投げされる。
私は私の予定を消化するだけで手一杯なのに、せっかく講師を呼んだのだからと、姉の教養の肩代わりまでさせられて。
しかもそれを、か弱いその人は悪気なくお願いしてくるので、断れない。
姉の背後を陣取る侍女たちの黒目から出る波動砲が凄すぎて、否やは言えない。
「一緒だ、一緒。前世と一緒」
だらしなくベッドに転がりながら、一人ごちる。
崖から飛び降りた理由の一端となった、パワハラ上司。
その人は何でもかんでも部下に仕事を投げる人だった。
自身の体調不良や家族の体調不良、電車の遅延、事故、ハプニング……使える森羅万象すべてを駆使して自分の仕事を軽くする人間。
そのくせ投げた仕事の成果が現れないと、途端にヒステリーに怒鳴る。
「私の出世に響いたらどう責任取るの?」「やる気がないなら閑職に飛ばす」「昇給なんて夢見てないで、まずは与えられた仕事をきちんとこなしなさい」
今でも頭の中に響く。
あの金切り声がないだけでこの世界の姉はマシだと思えるほどに極悪だった。
思い出しただけで、後頭部に鈍痛が走る。
救いがなかった。
会社に味方はなく、同僚は皆、次の被害者にならないようにと目を逸らして牽制し合って。
何時間も個室で説教され、電気の消えたオフィスで孤独にぽつんと残業した。
つらいと思う感情が心を腐らせて、日に日に大きく口を開ける空虚に怯えて、食べ物でそのつらさを塞ぐようになった。
食べても食べても埋まらない。
胃はいっぱいなのに気持ちは底のない空腹に支配されて、吐きながらも食べ続けた。
そして、壊れた。
日常も、表情も、感情も、希望も、全部失くした。
「……死にたかったのに」
未だに手を伸ばす。
終わりの端にある、あのあたたかさ。
何もかもが終わるという安心感。
極限の中で掴んだはずなのに。
逃げて行ってしまった、私を置いて。
私を、こんな訳のわからない世界に飛ばして。
けれど、もう一度は出来ない。
あれは文字通り、決死の覚悟だった。
自ら命を絶つなんて、崖から飛び降りるなんて、本当に本当に意を決したのだ。
二度は出来ない、出来るはずない。
「転生なんて、希望じゃない……」
膝を抱えてうずくまる。
とめどなく流れる涙は、私のものか、それともヴァネッサのものか。
生きるとは、なんて絶望なんだろう。
異世界転生なんて、後悔しかない。
この世界に落ちてから一年後。
公爵家で催された、茶会と称した大規模なお見合い会に招待された姉は、私ともども参加していた。
今年、華々しく社交界デビューを果たした女神は、純白のドレスと真珠の装飾品でその美貌を完全無欠に彩って、旋風を巻き起こした。
シェインズ家の長女の噂はそれまでもたびたび人々の口に上っていたけれど、国王陛下に謁見した日以降、その人気は確固たるものとなった。
そして私は、一層被害者としての道を歩むこととなった。
「マリアーネ嬢、あなたとお話がしたいんだ。少しお時間をいただいても?」
「ずるいぞ、私の方が先に声をかけていて」
「並べ並べ。制限時間制だ……えーっと、そこの君はどちら様かな?」
「妹のヴァネッサですわ。私は少し身体が弱くて気分が悪くなってしまうことがありますの。その時の介抱役として、そばにいてもらっているんです」
姉は招待された会すべてに私を付き添わせた。
遠い親戚も目付役として行動を共にしたが、日程によって毎回顔ぶれは変わり、あまり親身になってはくれない。
姉は私を同伴できないならば出席を辞退すると宣言し、それを聞いた主催者は挙って私にも招待状を送るようになった。
「マリアーネ嬢、お美しい。この世の者とは思えない。健康そうな妹さんと比べると儚さが際立つようです」
「あぁ、ついに会えた愛しい人。お噂をお聞きして、いてもたってもいられませんでした。妹さんも、こんなに可憐なお姉さんがいて自慢でしょう?」
「プレゼントを受け取ってください。あぁ、重いと大変だ。妹さん、持っていてくれるかな?」
引き立て役だ、そして完全なる使用人扱い。
姉の世話役として赴くのだから目立たないように、という兄の指示により、私の身なりは失礼にならないぎりぎりまでランクを落とされていたため、ふんだんに着飾った姉と比べると天と地の差。
本当に姉妹かと疑われるほどの違いがあった。
エレガントに座って男性からの熱烈な告白に微笑む姉と、後ろにひっそりと佇む妹。
家の中では当たり前に受け止めていた、姉を讃える材料として使われるその行為。
それを見知らぬ第三者にされるのは、また別の種類の傷になる。
ちくちくとした言葉は、ひとつひとつは小さいけれど、束になった瞬間に人の尊厳を踏みにじる。
「お姉様、申し訳ありません。少し風に当たってきます」
「すぐ戻ってちょうだいね。私は病弱だから」
人でごった返すホールを後にした。
邸の中を足早に駆け抜け、緑ゆたかな庭へと出る。
さすが公爵家の庭だ、広い。
広すぎて帰り道を見失うほど。
鬱蒼とした草木を手で避けながら進んでいると、手入れのされた空間へと出る。
ガゼボがあったのでソファへと座ると、風が気持ちよく吹き抜けた。
淑女失格の烙印を押されそうなほどにだらしない格好でくつろいでいると、顔に影が差した。
「もしかして、迷子か?」
逆さまの顔がにょきりと現れる。
「ぎゃあっ!」
慌てて起き上がったばかりに、私の額がその人の顎をクリーンヒットした。
一旦悶絶する両者。
復活したのは、私の方が先だった。
立ち上がり、膝でお辞儀をする。
「申し訳ありません、お怪我はありませんか?」
「大丈夫だ、こちらこそ驚かせて悪かった。あまりにも気力の抜けた様子だったので、もしかして途方に暮れているのかと思ってね」
真正面から目線の合ったその人は、あまりにもな王子様顔だった。
艶やかな金の髪に、碧眼。
姉と並んだら宗教画の最高峰にでもなりそうだ。
けれど、どこか親しみやすさも滲む。
「途方に暮れてはいますけど、迷子ではありません。自分の足でここに参りましたから」
「途方には暮れているんだね。それは結構な問題だと思うんだけど……とりあえず座ろうか」
「失礼いたします。長年茨の道を歩んでいますので、大概慣れっこでして」
「話を聞こうか?」
「お気持ちだけ頂戴します」
「秘密主義か?」
「一匹狼主義でございます」
あはは、とその人は軽く笑った。
どこかで見たことのある顔だ、でも思い出せない。
社交シーズンでは姉のお供で数多くの男性を否応なしに見てしまっているので、脳内貴族男性図鑑は掲載写真がほぼぼやけている。
自分に興味を示さない、ましてや小馬鹿にするようなカテゴリーの人々には嫌悪感しかないので、記憶能力が働かないという事実もある。
それでも、目の前の男性はその類ではないような気がする。
勘違いだろうか?
「ここは風の通り道だな。清々しい気分になる。君の孤独も晴れるといい」
「お優しい思い遣りだけで十分でございます」
「慎み深いな。常に姉の後ろに控えているのは押しつけだと思っていたけれど、もしや君の意思か?」
その言葉に、私はその人をじっくりと見た。
不躾で訝し気な視線にも屈しないその人は、それをまっすぐに受け止める。
「もしかして、私をご存じでいらっしゃいます?」
「シェインズ侯爵家の末のご令嬢、ヴァネッサ嬢だろう?」
「っ……よくお分かりになりましたね」
姉がいて初めて『私』と認識される私。
マリアーネ・シェインズの付き人兼妹のヴァネッサ・シェインズ。
姉という偉大な存在を失えば、何度顔を合わせても憶えてもらえない、ただの透明人間。
なのに、たった今会ったこの男性は、私をひとりの人間として認識している……?
初めての体験に、小さく胸が高鳴る。
「失礼ですが、どこかでご挨拶をしたことがありますか?」
「これが初めてだ。先日のガーデンパーティーで見かけたから憶えていた。君の姉の前に長蛇の列が出来ていただろう? 気になって見ていたんだ」
「気になって……?」
「ああ、君の姉のことを観察していた」
「……そうだったんですね」
同じだった、この人も。
嬉しさに膨らんだ気持ちが一瞬で萎む。
結局、他の人と変わらない。
姉、姉、姉、なのだ。
沈んでいく気持ちに顔を俯かせていると、けれど金髪の人は予想外の言葉を続けた。
「他家の決まり事に口出しをするのはルール違反だから沈黙しているけれど、君も令嬢だろう? しかもデビュー前だ。本来ならば深窓に育てられなければならないのに、小間使いのように姉の世話をさせられているのはなぜだ?」
碧眼に覗き込まれる。
その仕草と、まさかそんな言葉をかけられるとは思っていなかった衝撃で、口がうまく動かせない。
私は一体何を言われた?
「君も大切にされるべきだ。質素なドレスに質素な装飾品で、差別的な扱いをされていること自体もつらいだろうに、それを人前に晒さなければならないのは、さらに憂鬱だろう?」
突き刺さる。
言葉の剣が、心に強く突き刺さった。
「……っ、……」
景色が滲んだと思ったら、次の瞬間には熱い何かが頬を濡らしていた。
それは止めどなく溢れる。
涙だと実感すればたちまち、嗚咽を伴う流れになる。
「どうした? 泣くほどつらいか? どうした?」
慌てた様子のその人は、けれど私の顔の横で手を右往左往させるだけ。
貴族令嬢の身体に安易に接触してはならない、一般常識だ。
もはや激流といっても過言ではない頬の上の水流を止めようとしているのだろうけれど、それは叶わない。
私が自ら乱暴に頬を擦っていると、その人はハンカチを差し出した。
白地にイニシャルだけが刺繍されている。
「お借りします」
「腫れてしまうから、目元はあまり擦りすぎない方がいい。そっとだ、そっと」
「私の顔の造作では、気遣っても気遣わなくても大差はないかと。誰にも気づかれませんし、誰にも期待されていません」
「見向きもしない奴は放っておけ。君を姉の付属品としてしか見ない者に、君自身と真剣に向き合わない者に、君を傷つけたという碌でもない自尊心を与えるな」
ぽろり。
新たに流れる一筋の涙。
涙腺が壊れたようだ。
「なぜまた泣く?」
「あはは……なぜでしょう」
前世も含めて今日まで、欲しいと願っても与えられなかった言葉がふたつ。
前世では上司に叱責され、この世界では貴族男性にぞんざいに扱われている私の惨めさに寄り添ってくれる言葉。
そして、前世では婚約者に捨てられ、この世界では家族にも冷遇されている私の背を支えて勇気をくれる言葉。
欲しかったものが、まさかたった一人から、同じタイミングで与えられるとは思ってもみなかった。
癒しも慰めも、遠い彼方にあるものと思っていた。
見つめるその人は、眉毛を下げながら私をただ見ていた。
それからその王子様顔の男性には一年を通してたびたび会った。
社交シーズン、貴族は超多忙を極める。
一日にふたつの夜会を掛け持ちすることも珍しくなく、参加者を募りたい家は趣向を凝らした集まりを多く開催した。
それが終われば穏やかになるのか?
答は否だ。
カントリーハウスに帰った秋冬にも、晩餐会や音楽界、詩の朗読会など多種多様な交流は続けられる。
特権階級は基本的に暇なのだ。
だからこそ人との繋がりを強く求め、その最たる出来事が結婚となる。
「ヴァネッサ様、お目覚めのお時間でございます」
「おはよう、ハンナ。今日の予定は?」
この世界に来てから一年半が経っていた。
無意識に動いてドレッサー前へと向かう足。
けれどその感覚は、転生した頃と比べると全く違う。
習慣化された日常のルーティンとして、身体が記憶したゆえの無意識だ。
ヴァネッサは今では私と一体化している。
「午前中は剣術の体験講座、午後はマリアーネ様からご依頼の刺繍、夕方はピアノの演奏会、その後は晩餐会です」
「お姉様から依頼の刺繍?」
「昨晩、マリアーネ様付きの侍女から回って参りました。本日の演奏会に招待した紳士にプレゼントとしてお渡しする予定なので、必ず仕上げてほしい、との言伝付きです」
「はぁ……」
ブルネットの髪を結われながら大きなため息が出た。
今日の演奏会は我が家で行われる。
姉と私でピアノの連弾を披露するというものだ。
どうしてもやりたいのだ、と女神がうるうるの瞳で兄に懇願し、即時に許可が出され招待状がばら撒かれた会である。
そこで当然のようにサポートを強要される、被害者の私。
姉はピアノがほぼ弾けない。
講師を長年雇っているのだが、初心者の数歩先行く程度の習熟度しかない。
そこに疑問はない。
練習の日、三回に二回は体調が悪くなり、それを全て私に丸投げするから。
それはピアノに特化した話ではない。
勉強も楽器も絵画もダンスも、貴族令嬢の教養として訓練される重要項目はほとんど初心者の域を出ない。
社交の場でメッキがちらりと剥がれた場合は、私が必死にフォローし女神の必殺技である極上の笑顔でごまかしている。
それで異性は騙せても、同性の鑑識眼は曇らせられない。
男子禁制のアフタヌーンティーで姉は、ときどき失態を披露する。
同性間で重視されるのは中身であり、繕えばある程度は盛れる外見の美しさは武器にはならない。
くすくすと扇子の裏で嘲笑される姉を見て、居たたまれない気持ちになると共に、胸のすく思いもするのも事実だ。
そういう時は助け舟を出さずに見守って楽しんでいる。
性悪?
この劣悪な環境でどうにか頑張っている自分への、ささやかなるご褒美だ。
「君の姉は運命の男性に出会ったのか?」
「そのようです。先日招待されたサロンで出会った、侯爵家のご長男と意気投合された、と」
「それは僥倖だな」
私たちは少しだけ間隔を開けながら並んで歩いている。
招待客の前で連弾したふたつの曲目、ピアノの前に並んで座った姉はその左手をほとんど動かすことはなかった。
大部分を演奏したのは私だ。
けれど案の定、素晴らしかったと称賛されたのは派手に着飾った女神のみ。
私は人知れずその輪を抜け出した。
シェインズ家のカントリーハウスでは、クリスマスローズが一面に咲く庭園が自慢だ。
少しの肌寒さを我慢しながら待っていると、現れた王子様。
初対面の日、別れの挨拶をする前に名乗った彼の身分は公爵家の次男だった。
高位である彼への無礼に謝罪をしようと折った膝は、すぐにその体勢を解除された。
「楽に接してほしい、私も君の前では自由にするから」と言われた通り、その後もその人はとても自然体に話しかけてくれた。
会うのはきまってパーティーの行われている邸の庭。
招待客の中に彼の顔を認めれば、私は機をうかがって外へと繰り出した。
恋をしていた。
いつの間にか。
初めて会ったあの日に、きっと恋に落ちた。
まだ十五歳の、幼く淡い気持ちの揺らぎではない。
前世で何度か恋人のいた経験値含めて、本物の恋だと言い切れる。
私の存在を見つけて優しさをくれた人。
絶望しかなかった転生先で、生きる希望をくれた人。
凍りついていた心にゆっくりと温度が戻ってくるのを実感する日々。
それはなんて安心するんだろう。
消えてしまいたいという願いは、小さくなっていた。
「ヴァネッサに贈り物だと?」
朝食を摂っていた食堂に、兄の怪訝な声音が響く。
私はフルーツの入ったヨーグルトを掬っていた手を止めた。
私でさえ寝耳に水だったからだ。
「お前、懇意にしている相手がいるのか?」
「いいえ、そのような方はおりません」
「社交界デビュー前に色目を使って貢がせるなんて、ふしだらな。お前のどこにそんな魅力があるんだ?」
朝の爽やかな日差しの中で、真正面から繰り出される口撃。
半分血の繋がった妹に対して、その人間性を否定する兄自身の人間性を疑うけれど、それは言葉にはできない。
父は何も言わず、無表情で咀嚼するのみだ。
兄が持ってこさせた私宛の贈り物がテーブルへと置かれる。
持って来たのは姉の侍女だ。
その後ろから入室したハンナが私の耳元で「隠れて置け取るつもりでしたが、マリアーネ様の侍女に強引に奪われました」と教えてくれた。
私の許可なく勝手に箱が開けられる。
それがキラリと光った瞬間、父と兄は絶句した。
「ブルーサファイア……」
「まさか……」
そこには一粒石のネックレスが収まっていた。
深海のごとき静謐な色合いを、巧みなカッティングが引き立てている。
ブルーサファイアは周辺諸国では産出されず、海を越えた別大陸でのみ手に入る。
原産国でも希少とされ輸出規制がかかっているため、王家でもない限り出会える機会は滅多にない。
珍しいもの好きの貴族間で、憧れの的である石のひとつだ。
「これをお前なんかに贈る者は一体どこの誰だ? カードは?」
「こちらにございます」
「……サミュエル・ヴェリガルド」
「は? なんだと?」
その家名は、十五家ある公爵位の中でも最上位に君臨するものである。
兄からカードを引っ手繰った父の手が、みるみる内に震え始めた。
それは、関心を寄せてこなかった次女が上位の家門を引っかけた驚きか、それとも、愛情たっぷりに育てた長女を出し抜いた次女への憎しみか。
「皆様、ごきげんよう。異様な雰囲気で、どうなさったの?」
そこに、何も知らない女神が降臨する。
完璧に仕上げられた髪型と化粧は、朝専用の装いだ。
「あら、あらあらあら、とっても素敵なブルーサファイア! どの方から私への贈り物ですか? 綺麗! こんなに見事な品を送ってくださるなんて、きっと求婚ですね?」
兄の手で光り輝いていた藍を、その細腕に似合わない力強さで奪った姉は、窓から射し込む光にその石を透かして眺める。
うっとりとした瞳は、まるで恋をしている乙女のようだ。
「シンプルなデザインが私の美しさを際立たせますわ! 大きさも十分で、私への想いがたっぷり感じられます!」
弾むような手つきでネックレスの留め具を外した姉の手を、ふいに兄の手が止めた。
不思議そうに顔を傾けた姉と、苦虫を潰したような顔で兄が見つめ合う。
「マリアーネ、これはお前のものではないんだ。ヴァネッサに贈られたもので……」
「……………………」
ぱちぱちと長い睫毛を何度か上下させてたっぷり十秒ほど。
姉の、その麗しく形作られた眉や瞳、鼻、唇は、強烈なまでにひん曲がった。
「はぁぁぁぁぁ?!」
そして、地鳴りのような声がその薄い喉元から発せられた。
父も兄も使用人も私も、姉の見たことのない姿に呆気に取られる。
「まさかヴァネッサに贈り物をする方がいるなんて! しかもこんなに高価なもの! 間違いなんじゃなくて? 私と間違えてるんでしょう? こんな、地味で陰気で人気のない妹に心を奪われるなんてありえない! ねぇ、お兄様、間違いでしょう?」
「それが残念ながら間違いではないようなんだ。ヴェリガルド公爵家の紋章入りでカードも届いてる」
「ヴェリガルド公爵……」
カードを受け取った細腕がわなわなと震える。
紙の上を走っていた眼が再度ブルーサファイアをじっくりと眺め、そして私を下からねめつけるように睨む。
その姿に、淑女の二文字はない。
「ヴァネッサ、きっとこれは間違いよ。本来なら私宛に届くべきはず。どう考えてもあなたなんかに似合わないでしょう? 仕方がないから私が貰ってあげるわ。もうすぐシーズンが始まるから、そこで着用すれば公爵家もお喜びになるでしょう」
「お姉様、なりません。たとえ間違いであったとしても、一度は私の名で届いたものです。贈り主の承諾を得ずに勝手にお姉様に譲ったと知られれば、その無礼はシェインズ家の名折れとなりましょう」
その言葉に低い唸り声を発したのは、姉ではなかった。
父と兄だった。
二人は額に手を当てて、深々と黙考する。
しばしの時が流れたあと、口を開いた。
「マリアーネ、それはヴァネッサに返しなさい。公爵家の不興を買うのは避けるべきだ」
「今度私がお前に似合う宝石を買ってあげるから、それはヴァネッサに返すんだ。公爵家の承諾なしに姉妹間でプレゼントの譲渡を行ったとなれば、我が家の醜聞になろう」
貴族は何よりも名誉を重んじる。
どんなに高潔な家門であっても、悪評によっていとも簡単に滅ぶ社会だ。
可愛い女神を傷つけたとしても、筋を通さなければ。
「お父様、お兄様、どうなさったの? 私よりもヴァネッサの言うことを聞くなんて、正気なの? これを手放すなんて絶対に嫌です」
「返して、お姉様。それは私のよ。公爵家が本当に間違えたのかどうかは私がきちんと確認します。お姉様宛ならば速やかにお戻しするので、それまでは私のためのネックレスだわ」
姉へと向かって手を伸ばす。
普段は文句など言わない従順な妹が反抗的な態度を取ったことに驚いた姉は、ブルーサファイアを手の内に隠すようにして遠ざけた。
あの人の顔が浮かぶ。
恋をしていると思っていたのは私だけだったけれど、もしかしたらあの人もそうなのかもしれない。
両想いかもしれない。
穏やかに流れる会話や冗談を言って笑い合う瞬間、時折熱く見つめる眼差し。
勘違いじゃないのかもしれない。
あの人は姉のことには興味がないようだった。
私を私として見てくれる人。
だからこのプレゼントは、贈り先間違いでは決してない。
取り返さなくては。
「返して。それは私のよ」
「うるさいわね!!!!」
怒号だ。
辺りはしんと静まり返る。
それを発した本人だけが色彩鮮やかに、眼を血走らせている。
「私に口答えするなんて何様なの! 私のおまけとしてしか認識されてないお前に、これを持つ価値なんてないのよ! 私に逆らうなんて許さない!」
完璧にセットされた舞台で何でも与えられる主人公を生きてきた姉の、唯一自分の名札が付けられないもの。
それは、天使を堕天使へと変えてしまう魔力を秘めていた。
「誰にもあげないんだから」
どろっとした独り言を吐いて、儚い生地のドレスが去る。
豹変した姉のいなくなった食堂。
一旦は苦言を呈した父と兄は、それでも諦めた様子で朝食の続きを再開した。
初めて見る女神の怒気に、誰もが萎縮してしまったがゆえだった。
そのあまりの衝撃に、平常心を取り戻すことが最優先となってしまい、侯爵家の面目など遥か彼方へと飛んで行ってしまった。
父も兄も追いかけてでも諭さないところが、結局姉への愛情の深さを表している。
そして同時に、私への愛情の浅さも表している。
不要なものだけ投げられて、大切なものは奪われる。
味方のいない空間で涙を堪えきれず、私は席を立った。
春、社交シーズンが始まった。
王都のタウンハウスへと戻ったシェインズ家には一大イベントが待ち構えている。
……私にとってだけだけど。
晴れて十六歳となった私は今夜、社交界デビューする。
国王陛下に束の間謁見して夜は舞踏会に参加するだけなのだが、レデイとしての第一歩を踏み出す正式な場となる。
「ヴァネッサ、もう少しレースたっぷりのドレスにすればよかったのに。相変わらず地味ね」
清らかなソプラノを奏でるのは、共に馬車に乗っている姉だ。
デビュタントの乙女は純白着用で、というドレスコードがある。
色で目立てない状況のなか、他家との差別化を図るため、どの家もとびきり豪奢な装飾品を娘に用意するのが通例だ。
国王陛下の目に留まることは滅多にないので、皆、その後の舞踏会に照準を合わせている。
そこで良家の子息に見初められれば将来が安泰だからだ。
私にも御多分に漏れず純白のドレスが用意された。
けれどその生地の量に込められた気合はいまいちで、宝石も光ってはいるが質素ここに極まれり。
私だってもう少し華やかなドレスが着たかった、けれどそれは夢のまた夢。
父と兄が金に糸目をつけすぎた結果だ。
髪を編み、化粧をすることに長けている侍女のハンナの力量を最大限発揮してもらっても、底辺ラインであろうことは容易に想像が出来た。
「お姉様はとても派手でいらっしゃいますね」
「妹のデビュタントですもの、家族の私が華を添えなければならないでしょう? それに、このネックレスに見合う装いをしなければ公爵家に顔向けができないわ」
首元を彩るのは、ブルーサファイアだ。
私は強く拳を握る。
あの朝以降、何度も姉に話をしたし懇願もした。
けれど、そのどれもが聞き入れられることはなかった。
「あれは私にために作られたから」と最初の頃は言っていたが、今では「あなたには不相応だわ」と詰られるようになり、その言葉ひとつひとつが私の心を抉った。
希少な藍の宝石と釣り合いが取れないことは、私が誰よりも分かっている。
身に沁みて分かっている。
私にとっては石が大切なんじゃない、その裏に込められたあの人の気持ちが大切で、かけがえがなくて。
この世界で唯一得られた好意だったのに。
姉の首元で揺れるそれが、恨めしい。
「着いたわね。行きましょう、ヴァネッサ」
その人は、今日主役であるはずの私よりも先に馬車を降りて城へと入って行った。
国王陛下への顔見せは呆気ないほど簡単に終わった。
名前を呼ばれて謁見の間に入り、お辞儀をしてにこりと笑えば終わり。
大きく頷いた国の主は口を開くことはなく、私はそのまま退場して退散した。
夜はめくるめく舞踏会。
デビューした乙女たちは一夜で何人もとダンスを踊り、恋の駆け引きを始める。
私は開始こそ広間にいたが、早々に抜け出した。
灯りのともる花回廊を進み、ガゼボで休憩していると、現れる愛しき人。
最近ふいに気づいたのだが、どの集まりでもどの邸でも、人波を抜け出した私は必ずガゼボやベンチへとたどり着く。
まるで導かれているように。
そして、十中八九の確率で王子様も現れるのだ。
不思議。
でもそれをひとつでも言葉にしたら途端に消えてしまいそうで、心で思うだけにしている。
「デビューおめでとう。ヴァネッサ・シェインズ嬢」
「ありがとうございます」
顔を合わせてみたけれど、今夜は大いに気まずい。
せっかく贈ったプレゼントを相手が身に付けていなかったら、男性は不快に思うだろう。
貴族男性はプライドが高い。
どうしよう……。
私の手は無意識に首元を隠していたようだ。
目ざとく見つけられる。
「君からの返礼のカードを受け取った気がしていたんだが、気のせいだろうか? あのネックレスは好みに合わなかったか?」
「いいえ、とっても素敵でした。身に余るほどの光栄でございます」
「ならば、今夜はなぜ着けていない?」
微妙に視線を合わさないまま離れていく私を掴まえるように、碧眼に距離を縮めて覗き込まれる。
硬直したまま浅い呼吸を繰り返す私をしばらく観察したその人は、ふいに笑いを吹き出した。
「あはは、ごめん。からかいすぎたね。怒ってないから、そんなに泣きそうな顔をしないで」
「泣きそうですか? 私」
「とってもね。好きな子を泣かせる趣味はないから、私の胸はすごく痛んでしまうよ。ごめんね、困らないでくれ。分かってるから」
「……分かってる、から?」
疑問符をたっぷり顔の上に乗せて見返す。
公爵家の子息は、笑みを絶やさずにこう言った。
「君の姉に取られてしまったんだろう? 君とはこうして短い時間の逢瀬しかしたことがないけれど、人となりは把握してるつもりだ。律儀な人だから受け取ったものは必ず披露してくれるはず。今日という絶好の機会にそれをしないということは、答はひとつ。君の手元にないんだね」
言い当てられて、肩から力が抜けた。
身体が真っ直ぐに保てなくて、俯く。
悲しくて、情けなくて、不甲斐なくて、謝罪の気持ちでいっぱいになる。
「私なんかのためにせっかく贈ってくださったのに、申し訳ございません」
「謝らないで、大丈夫だから。あれは、偽物だ」
「…………は?」
聞こえた言葉に、顔を上げた。
至近距離にいるその人の瞳は、星を凝縮したように輝いていた。
「シェインズ家の家庭環境のひどさは、侯爵がどれほど隠そうとも、闇を探れば端々が出てくるほどだ。探らない奴は一向に掴めないけれどね。だから今回、邸にプレゼントを届ければ誰かに奪われる可能性は高いと考えた」
「……だから、偽物を?」
「そう。案の定、謁見の間で君の姉が着けているのを見て予想は的中したなと笑いそうになったよ。期待を裏切らないご家族でとても愉快だ」
悪戯が成功して喜ぶ子供のような顔に、前世の元婚約者の顔が重なる。
純日本人だったその人と、西洋人以外の何物でもない公爵子息のふたりは似ても似つかないのに、なぜ?
男性は悪いことをする時は、総じて同じ類の表情を浮かべるのだろうか……?
「もし私がその偽物を着けて今日現れていたら、どうなさるおつもりだったんですか? 見て見ぬ振りでも?」
「石が欠けているとでも言って交換するつもりだった。これとね」
その人は胸ポケットから何かを取り出した。
鎖のついた、藍の――。
「……ブルーサファイア」
「こっちが本物だ。これを君に捧げよう」
私の首を飾っていた地味な首飾りは外されて、ずしりとした重さが下がる。
すぐに持ち上げて確かめる先には、周りをダイヤモンドで埋め尽くされた圧倒的に輝く貴石。
本物だ。
前世でもこの世界でも、こんな貴重なものに出会ったことはない。
存在感が別格だ。
「い、頂けません! あまりにも素晴らしすぎて、私には不適切です」
緊張で首が竦む。
ヴァネッサの中の私は至って庶民なのだ、高価すぎて身体が強張る。
姉に奪われた時は必死に取り返そうとしたけれど、手元に持っておきたかっただけで、実際に着用するつもりはなかった。
感謝と喜びの気持ちを述べて、返すつもりでいた。
「不適切かどうかは贈り主が決めることだ。とても似合ってるよ」
「でも、でも……」
「君はそれが好きかどうかを教えてくれればいい。好きか? それが」
嫌いなはずがない。
この世界で初めて、私のために作られたものだ。
そこに込められたのは、純粋なる善意だけ。
策略や計算や思惑に塗り固められた、見せかけの善意じゃない。
嬉しくて嬉しくて嬉しくて、涙が出る。
「え、どうした? 泣くほど嫌いか? どうした?」
初対面の日の再放送。
相変わらず手を空中で上下させているその人に、涙を拭わないままの瞳で私はこう告げた。
「好きです。大好きです。嬉しくて、死んじゃいそう」
「あぁ、よかった。よかったよ、気に入ってもらえて。でも、死なないでくれ。それは本当に本当に悲しいから」
「はい……はい……」
強く目元を擦る私にハンカチが差し出される。
イニシャル入りのそれは、洗ってアイロンを掛けて、ハンナを介して秘かに返したあの時のハンカチだろうか?
「似合ってるよ。ブルネットの髪と相まって、夜を閉じ込めた妖精のようだ」
優しい碧眼がそう表現した瞬間、頭の中に響くひとつの声。
『お前、目の色がちょっと黒とグレーの間な。夜を閉じ込めてるみたいだ』
目眩のように世界が揺れた。
どこかで聞いたことのある声。
懐かしいような、ずっとずっと聞いていたような声。
頭の底から痛みが走って、目を閉じかけた。
そのとき。
「サミュエル・ヴェリガルド様! こんなところにいらっしゃったんですね!」
世界で一番身近なソプラノが辺りの木々をざわつかせた。
淡いブルーの豪勢なドレスを纏った女神が、頬を染めて近づいてくる。
いきなり現れた姉の存在に、頭痛も吹っ飛ぶ。
「お姉様? どうしてここに?」
「サミュエル様にネックレスのお礼を申し上げたくてお探ししていたの。広間にいたら私とお話がしたいという沢山の男性に囲まれてしまって、抜け出すのに時間がかかってしまったわ」
姉はドレスの裾をさっと直すと、優美なお辞儀で自己紹介をした。
「お目にかかれて嬉しゅうございます。マリアーネ・シェインズと申します。この度は人知れず私を想ってくださり、こうして尊い愛の証も贈ってくださり、ありがとうございます。光栄でございます」
高揚感を隠し切れず、胸を小刻みに上下させながらそう言い切った姉。
固まる公爵家子息。
固まる私。
風だけが通り過ぎる。
「……愛の、証?」
一番に口を開いた子息だった。
「はい。どこでお見初めくださったのかは分かりませんが、こんなにも大きなブルーサファイアをプレゼントしてくださるなんて……私への求婚の証ですね?」
「何か勘違いをされているようだから、まず初めにはっきりしておこう。それに添えられていたカードは未確認だろうか? 宛先はヴァネッサ・シェインズ嬢となっていたはずだが」
「ええ、確認しております。サミュエル様、どこかで私の名前を誤って教えられたのでしょう。ヴァネッサは私の妹の名、私の名はマリアーネでございます。間違って妹の名で届きましたので、正確な宛先である私がお受け取りいたしました」
自信たっぷりに言う。
自分のことだと一ミリも疑っていない胸の張り方だ。
ここまで来ると清々しい。
「間違っているのは君の方だ。私は確かにシェインズ家の次女であるヴァネッサ嬢へと贈った。サファイアがとても似合うと思ったからね。ほら、君も見てごらん。とても素敵だろう?」
碧眼の視線を追った先、それを見つけた姉の瞳が驚愕に見開かれる。
そして、自分の首元で揺れている鎖を持ち上げて交互に見比べた。
「どうして、どうしてふたつも……」
「君のは偽物だ。輝いてはいるけれど、所詮はイミテーション。本物はヴァネッサ嬢が着けているものだけだ」
「な、なんですって!」
「偽物でそれほど喜べるなら、いくらでも差し上げよう。どんなに偽物を集めても、ひとつの本物には敵わない」
それがどんな皮肉か、勉強のできない姉には理解できないだろう。
「サミュエル様、まさか……ヴァネッサに求婚をするおつもりでいらっしゃいます?」
「うん、そうだね。そのつもりだ」
「え?」
「え……?!」
姉と共に私も驚いた。
両想い……になるなんて。
その人は蕩けるように笑った。
「好きだ、ヴァネッサ嬢」
いつになく澄んだ空がひとつの瞬きの間に嵐へと変わる。
想いを寄せていたその人から愛の告白とでもいうべき言葉を伝えられたたったの数日後、有頂天だった私は地獄の底へと突き落とされた。
「ヴァネッサ様、お目覚めのお時間でございます」
「おはよう、ハンナ。いつもよりずいぶん早いけど、今日の予定は?」
「朝は武術の体験講座の予定でございましたが、キャンセルとなりました。急いでお支度をしなければなりません。旦那様がお呼びです」
まだ朝陽の薄い時間帯。
ハンナに引っ張られるようにしてドレッサーの前に座った私は、いつもよりも大人数の手によって時間短縮で朝の支度を終えた。
背中を押されつつ父の書斎へと入る。
「おはようございます、お父様」
「おはよう、ヴァネッサ。座りなさい」
そこにはすでに姉の姿があった。
その口角の上がり具合から、嫌な予感しかしない。
「ヴァネッサ、お前の婚約が決まった」
「婚約? どうしてまた急に……お相手はどなたですか?」
貴族同士の婚約成立は、正式な発表をする前に国が発行した許可証が必要となる。
近親婚を避けるために血縁者の照合を行う必要があり、それには日数を要する。
ということは婚約の相手は、つい先日想いを通わせ合ったヴェリガルド公爵家の次男ではない。
「相手は、ジダンフィ卿だ」
「……っ!」
呼吸が止まる。
それは好色男爵として社交界では不名誉な評価を集める、長らく寡男である貴族の名である。
手広く事業展開しているため財は潤沢にあり、片っ端から金に困った名家の令嬢を買っては捨てるという悪行を繰り返しているという。
「前々からお前を嫁に、という話は貰ってはいたんだ。お前も社交界デビューを果たしたことだし、いい機会だろう。一年目で結婚相手が見つかるなんて幸運だ」
何を言っているんだろう。
仮にも実の父であるが、その頬を全力で張り倒したい衝動に駆られる。
「ジダンフィ男爵がどんな人物が承知で言っておられるんですか?」
「あぁ、もちろん。少し手癖が悪いとこはあるが、妻となった者に乱暴は働かないだろう」
「本気でそう思っていらっしゃいますか?」
「本気だ。そうでなければ、可愛い娘の行く末を心配して拒否していただろう」
これみよがしに愛のある振りをする。
今さら私なんかに恩着せがましい言葉を吐いて、何になるんだろう。
背中から刺されないための回避策だろうか。
「拒否をしたいのですが、私は」
「貴族家の婚約に本人の意思が反映されるのは稀だ。お前も分かっているはずだ」
「事前相談はなく、強制的に嫁がされる。それもお父様とほぼ同齢の男性に。それはある種の暴力ではありませんか?」
「口答えをするな。お前の母親が死んだ後もここまで育ててやった恩を返す時が来たんだ。親孝行をさせてやる機会をわざわざ作ってやったんだ。感謝さえしてほしいくらいだよ」
母と父の間には愛情は一切存在しなかった。
あったのは、金銭絡みの契約だけ。
母は地方の裕福なジェントリの家に産まれた四女だった。
結婚適齢期を過ぎても一向に家を出て行かず、穀潰しだと煙たがられていた。
そこに降って湧いたのが、一男一女をもうけた父である。
貴族には珍しく恋愛結婚した愛妻を流行り病で亡くし、気が滅入って慣れないギャンブルに溺れた父は負けを重ね、いつの間にか全財産を失う一歩手前まで来ていた。
金策に走るけれど、元来人付き合いの得意でない性格が災いして上手くいかない。
没落という二文字が現実的となったとき、その噂を聞きつけた母の実家からひとつの提案がされた。
持参金を弾むから行き遅れた娘を貰ってくれ、と。
いつまでも独身でいることに眉を顰められた時代だ、母の実家はどうしても母を嫁に出したかった。
それがたとえどんな男でも、侯爵という冠があるならばそれだけで、田舎では名誉の皮も被れよう。
その提案はすぐに快諾された。
それに気をよくした実家は、もし子が産まれれば養育費も出すから、侯爵令嬢に相応しい教養を身に付けさせてやってほしい、とも交渉した。
目の上のたんこぶだった娘だが、真に憎いわけではない。
その胎から産まれた孫であれば、絶対的に愛しい存在であろう。
切なる思いで、ジェントリは頭を下げた。
父はそれも快諾した。
愛してもいない女、そしていつか産まれてくるかもしれない愛してもいない子。
興味は一切なかったが、共に暮らすだけで金に恵まれるのならば断わる必要性はない。
どちらかが死んだら損益計算をして、いい頃合いで離縁しようと考えていた。
「育ててやった、などと押しつけがましく仰ってますが、母が死んだら私を捨てようとしていたことは承知しています」
「……なぜそれを?」
「風の噂で」
優秀な私の侍女は、私が疑問に思ったことへの完璧な回答をいつでも持ち合わせる超人だった。
色素の違いから、私はこの世界で覚醒してから早々に『みにくいアヒルの子』であることは理解した。
けれどなぜ父が、愛していない私にここまで真っ当な教育を受けさせたのか、腑に落ちなかった。
母がいなくなったならば一目散に捨ててしまえばいいのに、と。
それに対する答はこうだ。
「家族間でのいじめと言っても過言ではない差別が原因で、貴族令嬢が自ら命を絶った事件をきっかけにして、本妻や後妻関係なく、産まれた子供は成人まで平等に養育しなければならない。そう国王陛下から通達が出されたから、ですよね?」
「……そうだ。お前が十歳になった頃だった」
それも知っている。
侍女が教えてくれた。
そして、彼女はこうも言っていた。
『通達が出る少し前に国王陛下の紹介でシェインズ侯爵家に雇われた自分を、旦那様は随分気にしていらっしゃいました。密偵かと疑って』と。
元来、肝の小さい男だ。
先祖代々の家門を可もなく不可もなく維持し続けるだけの能力しかない。
可愛くもないひたすらに邪魔な娘ではあるが、国に反旗を翻してまで捨てる勇気はない。
だから父は方向転換したのだ。
「私がお前を愛していないことには気がついていたな? なぜ放り出されないか不思議だっただろう? お前を一人前のレディにして、高く売りつけようと思ったんだ。悪趣味な貴族たちには教養ある女を求める傾向があるからな」
「お父様、天才ですわ。先見の明がおありになります」
今まで黙っていた姉が割って入ってくる。
殺気立つ私の心にそのソプラノは、不協和音を奏でる以外の何物でもない。
「そうだろう? お前たちには嫌な思いをさせて悪かったな。母親の違う異分子と共に暮らすのは大変だっただろう?」
「確かに気を遣うことは多くありましたけど、私はお父様が愛してくださるから乗り越えられました。きっとお兄様も同じ気持ちですわ」
「嬉しいことを言ってくれるな。お前とヴェリガルド公爵家の次男との婚約は、出来るだけ早く話をつけるから少し待っていなさい」
「ありがとうございます、お父様!」
親子劇場は予想外の演目を奏で始める。
「ちょ、ちょっと待ってください。お姉様がヴェリガルド公爵家と婚約するんですか?」
「そうだ。マリアーネの涙ながらの願い事だ、父は何としても叶えてやらなきゃならない」
「そんな……ヴェリガルド公爵の子息は、私を好きなはずで……」
そう零す私に、姉はふんと鼻を鳴らした。
「つまらない妄想はやめなさい、ヴァネッサ。あなた、人妻になるのよ。旦那様以外に愛を語る権利は、もうないわ。いい気味ね」
無邪気に笑う女神の顔には、悪魔の色が乗っている。
好色男爵との話がいつから進められていたのかは不明だが、決定打を打ったのは間違いなくこの悪魔だ。
あの日の告白を目の当たりにして、父を急かしたに違いない。
勝ち誇った瞳。
何もかもが希望通りになる主人公。
奪われていく、私の何もかも。
「お父様、聞いてください。ヴェリガルド公爵家の子息と恋仲なのは私です。この前愛を告げられて、きっと近日中には許可証を携えた子息が、結婚の申し込みをしに当家を訪れるはずです。私がジダンフィ男爵に嫁いでしまえば公爵家との繋がりは持てなくなり、それは当家にとって損害になると――」
「自惚れるな、ヴァネッサ。お前に人を惹きつけられる魅力はない」
必死に言い募る私の言葉を制して、父はそう断言した。
「お前が子息と恋仲だと? 冗談も大概にしなさい。お前ひとりが逆上せあがっているだけだろう? マリアーネとお前を比べれば天と地の差。誰もがマリアーネに恋をする。公爵家との繋がりは、お前の姉が立派に作ってくれるだろう」
「お父様、嬉しいですわ。自慢の娘でいられることが私の誇りです」
「あぁ、お前は私の唯一のレディだ」
どんな拒否権もない。
この親子を前にして、私にはどんな選択肢も与えられない。
「結婚は家同士のことだ。お前に決定権はない。男爵の元に嫁ぎなさい、出来るだけ速やかに」
二年ほどしか貴族でない私でさえも知っている。
恋愛結婚など幻想に近い代物だということを。
それでも叶うと信じていた。
あの人となら。
絶望しかない転生先の、たったひとつの希望なんだと、信じて疑わなかった。
笑顔で会話する父と姉の姿が、遠ざかって暗転した。
意識を閉じなければ、身体も心も崩れてしまいそうだった。
その日、午後の予定を全てキャンセルして、私は部屋で泣き続けた。
「私の侍女も貸してあげてるんだから、早く準備なさいね」
人の部屋で優雅に座ってそう言うのは、朝から完璧に身なりを整えている姉だ。
好色男爵との結婚が決まってから二日、大急ぎで嫁ぐ準備に追われる家の使用人たちと私。
侯爵家令嬢の本人までも駆り出されて働かされるなんて、前代未聞だろう。
この空間で動いていないのは、姉ひとりだ。
「あなたがいなくなると思うと寂しいけれど、清々するわ。少し出来がいいからって、澄ました顔して病弱な私を見下していたものね」
「顔の作りが地味だから、男爵に目一杯媚びてお洒落をさせてもらうことね。まぁ、どんなに頑張っても私レベルにはなれないでしょうけど」
「この部屋は私の衣裳部屋として使ってあげるわ。お父様がドレスを沢山買ってくださるから、少し手狭になってしまって……ヴァネッサ、あなたのドレスはそれしかないの?」
姉はか弱い設定と縁を切ったのだろうか?
咳込みもせず酸欠も起こさずに、延々と止まないお喋りを続けている。
よく回る口から吐き出されるのは、大部分が私への悪口だ。
あの偽物ブルーサファイア発覚の夜から、姉の人格は化けの皮が剥がれたように思う。
自分至上主義で自分第一主義だったけれど、その心の奥底には私への侮辱が澱となって溜まっていたのだろう。
離れるとなったいま、それが噴き出して止まないらしい。
着飾った罵詈雑言が、耳元をつんざく。
何とかやり過ごしながら小物をトランクに詰めていると、俄かに下の階が騒がしくなる。
「サミュエル・ヴェリガルド様がお越しです。旦那様がヴァネッサ様をお呼びです」
扉の外で連絡を受けたハンナに囁かれる。
狭い部屋だ、それは女神の耳にもかろうじて届いたようだ。
「まぁ、まぁまぁまぁ! 私に会いにきてくださったのね!」
フリルの重なるドレスを翻しながら一目散に飛び立って行った。
やはり姉は、病弱設定を放棄したようだ。
私は、飾り気のないワンピースの裾を持ち上げて階段を下りる。
ノックをして応接室の扉を開けた瞬間、激怒そのものの形相をした姉とすれ違った。
睨まれる。
どうやら閉め出されたらしい。
ソファには、父と想い人の姿。
とても会いたかったけれど、今となっては会うのがつらい人。
お別れするのが、つらい。
「ごきげん麗しゅうございます、サミュエル様」
「ごきげんよう、ヴァネッサ嬢。遅くなってすまない」
「……いいえ? はい?」
遅くなってすまない、の意味が分からない。
私は父に促されるまま、サミュエルの対面に腰を下ろした。
「サミュエル・ヴェリガルド卿、本日我が家にお立ち寄りいただいたのはどういったご用件でしょうか?」
「単刀直入に申し上げます。ヴァネッサ嬢との結婚をお認めいただきたく参上しました」
そうはっきりと告げた彼に、父も私も執事も止まる。
ただ瞬きを繰り返すのみだ。
「それは一歩遅かったですな。ヴァネッサはジダンフィ男爵との結婚が決まりまして、嫁ぐ準備に取りかかっております」
誰よりも早く復活したのは父だった。
その尊大な顔つきは、公爵家子息といえども若輩だと侮っているかのよう。
「戸籍管理局からの連絡は受け取っておられませんか? ジダンフィ男爵は先代の南方辺境伯の落とし胤として、生後間もなく養子に出されました。仮親を転々として最終的には男爵家の跡継ぎとなったようですが、ヴァネッサ嬢の実家とは血縁関係にあります」
「……そんなまさか」
「戸籍からは外れていますが、叔父と姪の関係だそうで。三親等以内となるので、この結婚は認可されません」
言い切ったタイミングで扉がノックされ、主の返事を待たずして開かれる。
従者から書類一枚を受け取った父の顔は、みるみるうちに青褪めていった。
「婚約者のないヴァネッサ嬢には、誰が求婚しても構いませんね? これは私とヴァネッサ嬢の結婚許可証です」
サミュエルのジャケットから取り出された長方形の封筒、表面には王国の紋章が入っている。
それを受け取った父は動揺のあまり、ペーパーナイフではなく、テーブルの上に置かれていた果物ナイフで封を開けた。
指先が小刻みに震えている。
「なぜこんなに早く許可が下りるんだ……? どんなに最短で急かしたとしても一か月はかかるというのに……」
「我が家は公爵家だということをお忘れでしょうか。大臣の協力を得ることは、手強いことではありません」
微笑んでいるけれど、全然笑っていない。
初めて見るサミュエルのその顔は、庭園でふたり過ごした時には見せなかった寒々しさがある。
碧眼の瞳は、今は凍てつくようだ。
「私はヴァネッサ嬢が欲しい。それを父も認め、国も認めました。そして彼女も、私との将来を望んでくれています。そうだね?」
「はい。サミュエル様のお申し出を、喜んでお受けしたいと思います」
「駄目だ!」
見つめ合った私たちを切り裂く、父の怒声。
「私の娘にマリアーネというのがおります。社交界でも器量よしと評判の娘です。サミュエル・ヴェリガルド卿、あなたの相手はマリアーネが相応しい」
「その方については存じています。器量はよくとも教養はなく、淑女として求められる最低ラインにも達していないと聞き及んでいます。私の妻となる人には到底相応しくないでしょう」
「そうではありますが、それは嫁いでから勉強し直させます。こちらで講師も用意しましょう。今一度お考え直しを」
父は、何がなんでも姉をサミュエルの妻としたいようだ。
きっと知っているのだ。
貴族の夫人となれば、夫のサポートにパーティーの主催、誰彼ともつつがない社交を行い、家の統率も取らなければならない。
そんなこと姉に出来るわけがないと。
そして、聞かされているのだろう。
姉の中身のなさに薄々周りは気づき始めているということを。
姉を訪ねて来る貴族男性の数が、日に日に減っているということを。
「持参金も上乗せしましょう。何なら、正妻という立場でなくとも結構です。マリアーネを娶ってはいただけませんか」
必死な父の姿は、滑稽の一言に尽きる。
私を好色男爵の元に放り投げて姉をサミュエルに嫁がせるという美しい絵画が破れ去ったいま、形勢を均等にするためには手段を選んではいられないのだろう。
姉を好色男爵に捧げ、私をこのまま公爵家次男の元に嫁がせた方が丸く収まるはずなのに、父の頭にはそんな考えはないらしい。
最初から最後まで、その頭は可愛い可愛い女神のことでいっぱいだ。
「心変わりはありません。侯爵には失礼ですが、マリアーネ嬢などこちらから願い下げです。私の唯一はヴァネッサ嬢だけです」
この殺伐とした空気を読まずに、うっとりしてしまう。
こんなにも誰かに求められたことなんてなかった。
こんなにも誰かに味方されることなんてなかった。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。
唇を噛みながら零れる笑顔を堪えていると、応接室の扉が突如開いた。
「私を馬鹿にしないで!」
入って来たのは、髪型を崩した姉だった。
いつもはひとつの綻びもなく編まれているその色素の薄い髪は、今は見るも無残に散らばっている。
聞き耳を立てながら掻き毟ったようだ。
純白の頬は赤く染まり、目にはありえないほどに大きく見開かれている。
その尋常ではない姿に、怖さで身体が強張る。
「あんたがいなければ、あんたさえいなければ! 醜いくせに出しゃばって公爵家の次男を手玉に取って、何様のつもりなの?!」
「いたっ! お姉様、痛いです……!」
鬼の顔をした姉は、容赦のない力で私の髪を掴んだ。
そのまま前後に揺さぶられる。
痛くて抵抗が出来ない。
「やめなさい。彼女を傷つけることは許さない」
助けてくれたのは、サミュエルだった。
視界を邪魔する髪を避けて見えたのは、姉の腕を掴んでいる想い人だった。
その手を、姉は乱暴に振りほどいた。
「うるさい! 私に指図しないで! ヴァネッサなんかに騙された、程度の低い男のくせに!」
その豹変ぶりに驚く。
一時は自ら婚約したいと言っていた相手を、こうまで貶すことが出来るなんて。
最近の情緒不安定ぶりは際立っていたが、それでも自制心を放棄してしまうまでになるなんて。
手に入らないものがあるというのは。そんなにも我慢ならないことなのだろうか。
それを私が持っているというのは、そんなにも受け入れがたいことなのだろうか。
「私のことはどう侮辱してもらっても構わない。けれど、ヴァネッサ嬢の悪口は聞き捨てならないな」
「ヴァネッサ、ヴァネッサ、ヴァネッサ! 嫌い嫌い嫌い! あんたなんて大っ嫌い! いなくなってしまえばいい!」
テーブルの上に使ったままにしてあったナイフを掴み取った姉は、私目がけて突進した。
頭上高くに上げた両腕、その間で光る刃。
振り下ろされる。
襲いくる衝撃に耐えようと身体を縮こまらせたけれど、それは一向に現われなかった。
むしろ何かに覆いかぶさられ、身動きが取れなかった。
静寂。
上に乗っていた重さが横にズレたのを機に、私は恐る恐る目を開けた。
そこには息を乱したサミュエルの、血の気の引いた顔があった。
「マリアーネ、なんてことを! おい、早く医者を呼べ! 救急セットを持ってこい!」
父の叫び声が遠く聞こえる。
「あ……あ、……うそ、うそ……」
サミュエルの首筋からは、鮮血が次から次に流れ落ちていく。
訳も分からず押さえようとした私の腕も、真っ赤に汚していく。
脂汗を額にびっしりと掻きながら、力なく沈む大きな身体を精一杯支えた。
碧眼は、優しく笑った。
「……今度こそ、お前を……救えた、かな……」
事切れる前、彼は確かにそう言った。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
いくつもの叫び声が木霊した。
サミュエル・ヴェリガルドは息を引き取った。
この大事件は国を大いに揺るがし、姉は投獄され、シェインズ侯爵家は爵位剥奪となった。
使用人たちは去り、金目のものもそれ以外も持ち出されて空っぽの邸のなか、私は三日三晩考えに耽った。
あらゆる可能性が巡った。
分かったことも、分からないことも多々あった。
三日目にして初めて声を出した。
手は未だに赤く染まっていた。
「ハンナ」
「お呼びでしょうか」
「あなたは一体何者なの?」
どこからともなく現れた相手と真正面から対峙する。
私の専属侍女は次の瞬間、共犯者の顔で笑った。
「真にお目醒めですね、ヴァネッサ様」
その返答に、薄く笑みが零れる。
「この世界は、誰かの故意によって創られた世界ね? 自然体を装っているけれど、不可解なことが沢山ある。例えば、あなたの存在とか」
「私によって創られたとお思いですか?」
「いいえ、それは別にいるはず。あなたはきっと案内役か何かね」
「その根拠は?」
「マリアーネに私が襲われる未来を予知していたでしょう? だから貴族令嬢には決して必要のない護身術や剣術を習得させようとした。もしあなたがこの世界の創造者ならば、そんな回りくどいやり方はしないはず」
「ご名答です」
ハンナはその右手を眼前で大きく振った。
途端、自室は消え、辺り一面が真っ白に変わる。
何もない、無の空間。
「え、魔法使いだったの?」
「いえ、神の使いです。神々は直接人間と接触できないので、私が代わりに現場監督として見守り役を仰せつかっています」
「私を異世界転生させたのも、その神々だと?」
「半分正解です。あなたを異世界転生させた大元は、前世の元婚約者です」
思いがけない人物の登場に、顔が自然としかめっ面になる。
どうしてここで、その存在が出てくるのか。
「元婚約者はあなたの死後、猛烈に自分を責めました。婚約を解消したことが、あなたが自ら命を絶つことに繋がったかもしれない、と。どうしてもっとあなたに寄り添わなかったんだ、と過ちを反省する日々でした」
「それは……可哀想なことをしたわ。あの人が直接の原因ではなかったのに」
「とても思いつめていました。そして、元婚約者は神に祈ることに没頭したのです」
「祈り?」
そうです、という言葉と共に、ハンナは手の平を宙にかざす。
そこには懐かしい元婚約者の映像がいくつも映し出された。
どれも、真剣に祈っている。
「日本の神仏に祈り、世界の神に祈り、お百度参りを何度もして、教会で懺悔して、嘆いて、礼拝して、祈って祈って祈って。あなたの死に罪の意識を抱いて悔い、そしてあなたの来世を祈りました。その結果……」
そこで言葉を区切ったハンナ。
この沈黙は、よくないことの前兆だ。
「結果……?」
「あまりにも熱心なその姿に心打たれた各宗教の神が、願いを叶えるのは自分だと喧嘩を始めました」
「はい?」
予想の斜め上をロケット砲で通り過ぎる結末に、素っ頓狂な声を止められない。
「何を言ってるの?」
「神々は慈愛の精神を己の中心に持ちます。元婚約者はその神々の慈しむ心を、屈託なく刺激しました。結果、彼の願いを実現しようと、いくつもの手が『魂の焼却場』にいたあなたを救い出そうとしました」
「魂の焼却場……」
「けれど、あなたの魂は頑なにそれを拒否しました。消滅だけを望んでじっと動かなかった。あなたが飛び降りた崖、あそこは異世界へと繋がるワームホールが通っているんです。様々な神がどうにか転生させようとしました。けれど、あまりにもじっと動かないものだから、何百年もかかってしまった」
それは死後の魂の話で前世の私自身には関係のないことだろうとは思うけれど、なぜだか責められている気持ちになる。
誰かに迷惑を掛けるのは心苦しい。
それが神様であっても、手間を掛けさせたなら面目ない。
私自身は全く望んでいなかった異世界転生だけれど。
「あなたの転生を待っている間に、元婚約者の生まれ変わりが決まりました」
「転生と生まれ変わりって違うの?」
「転生は誰かの身体を拝借して途中から、生まれ変わりは自分の姿で最初から、です。善行を積んだ者ほど、生まれ変わりの回数は多いのです」
納得できるような、納得できないような、よく分からないルールだ。
自ら命を絶つことは罪深いと聞く。
私が新たな命を与えられたのは奇跡に近いことで、だからこそ、それを実現させた元婚約者の所業には驚くばかりだ。
「生まれ変われば記憶は一掃されるのですが、あなたを強く想っていた彼の魂は輪廻の業火に燃え尽きず、少しだけ残ってしまいました」
「もしかして、サミュエルが優しかったのはそれが原因?」
「左様でございます。前世の記憶と贖罪の気持ちを残したまま彼は、あなたという存在だけを求めました。守って、そばにいて、逃げずに最後まで向き合うという、前世ではなれなかった自分に今度こそなろうと」
知らなかった。
そんなにも想われていたなんて。
壊れていく私、生きているのに屍のようになっていく私を、もう手に負えないと綺麗さっぱり切り捨てたんだと。
「一度は見放したそうです。変わっていくあなたの姿が怖くて、苦しむあなたに何も出来ない自分が情けなくて、献身を放棄したと嘆いていました。少し経ってそれでもあなたのことが気にかかり、会いに行こうとした矢先に訃報を聞いたそうです」
あの頃は私自身ももう訳が分からなくなっていた。
何かに憑りつかれたように食べては吐いて、最後のほうは命さえも吐き出している感覚だった。
麻痺していた、何もかも。
思い返してみても、自分自身ですら狂気の沙汰だと思う。
それは他人の立場からして見れば、底知れぬ恐怖だっただろう。
「サミュエルがこの世界に誕生して数年後、やっとあなたの転生が叶いました。行き先は同じ世界にできたけれど、神の力は往々にして大雑把で、人間の運命を一から百まで決められるわけではない。どうやら転生先はシェインズ侯爵家だろうと大方の着地点が決まった時点で、私が派遣されました」
「家族に蔑まれながらも、私が元気に生きてこられたのはあなたのおかげね」
「元婚約者のおかげです。あの人は、本当に本当にあなたのために祈りました」
「そう……そうなのね……」
涙が出る。
死んだ人間に想いを寄せるのは、どれほど辛抱のいる日々だっただろう。
自分を責め続けるのは、どれほど痛い日々だっただろう。
そんなにも想われていたなんて、それを今さら知ることになるなんて。
あの人はもういないのに。
私を失った前世の彼も、こんな気持ちだったんだろうか。
悲しくて、やるせなくて、申し訳なさでいっぱいだったんだろうか。
「会いたい、もう一度。あの人にもサミュエルにも会いたい」
「会いたいですか?ヴァネッサ様」
「会えるの?」
「それは、あなたの運次第です」
ハンナは右手を宙に翳した。
指先に力を込めると、白の景色がまるで布のように手繰り寄せられ、一思いに剥がされた。
「っ……! これって……」
現れたのは、崖だった。
忘れることなんてない、ここは前世の私が飛び降りた場所。
曇天、無作為にノミで削り取ったような荒々しい岩肌、白波が打ち砕かれる淀んだ色の海。
私はあの日と同じ、崖の先端に立っていた。
恐怖で足が竦む。
身体が戦慄く。
「ヴァネッサ様、運命はこの下にございます」
後ろから非情な声がする。
「下……?」
「先ほど申し上げたように、この下には異世界へのワームホールが通っています」
飛び込めと言っているのだ。
一度経験済みだから、もう一度出来ると思われているのだろうか?
「そんなに簡単なことだと思う? どれだけ怖いか、あなたには分からないでしょう?」
決死の覚悟は二度は訪れない。
ただひたすらに解放を願った私の、最後に振り絞った勇気だった。
あの時だって、何度も躊躇ったのに。
「簡単なことではないと承知しています。けれど、運命を廻すのもそう簡単なことではありません。もう一度元婚約者に会いたいならば、転生をするしか術はありません。あなたには生まれ変われる未来はないのです」
振り返る。
ハンナの表情は凪いで、だからこそ唆しているようには見えなかった。
神の使いがそう言うなら真実なのだろう。
強く拳を握る。
「あの人に会いたい。謝りたいし、お礼も言いたい。前世でもこの世界でも、伝えられなかったことが沢山あるから。もし今回みたいに記憶を宿したまま別の人生を送ってあの人に会えるなら、洗いざらい伝えたい」
「ならば、選択肢はひとつです。ヴァネッサ様」
「これしか方法はない?」
「ありません。命の引き換えになるものは、命しかありません」
俯いて、深呼吸を繰り返す。
ひたすらに死を願った時は、ひたすら自分のためだった。
楽になるためだった。
怖い。
一度経験してしまったから余計に、泣き叫びたいほどに怖い。
けれど今は、新たなる願いがある。
絶望しかなかった私が、希望を手にするために。
あの人に会う未来を手にするために。
一陣の風が吹く。
それまるで、背中を押すようで。
「私が上手く異世界転生できる確率は?」
「ゼロに近いかと。そう簡単に行くものではありません」
「もし転生した先で奇跡的に彼に再会したとして、サミュエルみたいに記憶を残している確率は?」
「それもゼロに限りなく近いかと。元婚約者の想いの強さと、ヴァネッサ様の運次第です」
あまりの前途多難に、喉から笑いが込み上げた。
上を向いて空を仰ぐ。
ひとつ、大きく息を吐き出した。
「行くわ、私。どの世界にたどり着こうと、私は私の運命を掴み取る」
「ご武運を」
前を見据えて、助走をつけて空へと飛び立った。
落ちていく瞬間、雲の隙間からかすかな光が差した。
異世界転生しました。
後悔しています。
私を愛してくれた人の祈りを、生かしてくれた人の努力を、受け止めきれなかった。
だから私は私自身の覚悟で、もう一度やり直す。
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「VWS-14, wake up. It's time to wake up.」
世界が、目を醒ます。