辺境領地に放逐された救世主の話
吹き付ける冷たい風に身を縮こませて、カレンは地下鉄の階段を足早に駆け下りた。
大学の編入手続きを終えて、その帰り道だった。
黒地に白のロゴが入ったカードを改札に押し当てて、銀色のバーを押し下げる。なんてことのない動作の、その次の瞬間、まばゆい光が目を刺して、カレンは小さく悲鳴を上げた。
たたらを踏んで後退った踵が、かつん、と高い音を立てる。ついさっきまで歩いていた床タイルのそれとは異なる音に、カレンは思わず背後を振り返った。
「……え?」
広い、広い部屋だった。壁も床も天井すら真っ白で、それ以外はなにも無い。周囲を見回してみても灯りすらなくて、それなのに部屋の中は眩しいくらいに明るかった。
まるでSF映画の中に迷い込んだかのようだ。
そう、自分が生まれるよりずっと前の映画で、確かこんなシーンを観たことがある。宇宙飛行士が白い部屋に囚われて、その中で静かに老いていくのだ。
まさか自分も彼と同じように囚われてしまったのだろうか。カレンは自身の想像にぞっとしながら、恐る恐る足を踏み出した。
ヒールの音が、閉ざされた部屋に反響する。その音に呼応するかのように、正面の壁に細く亀裂が入った。
亀裂はよくよく見れば光の筋で、カレンが見ている前で徐々に太く広がっていく。正面の壁が扉であると分かったのは、それが完全に開いてからだった。
大きく開いたそこから、どっと人が雪崩れこんでくる。その誰もがフード付きのローブを身につけていて、人相も性別すらも判然としなかった。
その中で先頭に立っていたひとりが、その場で膝を突いた。驚きすぎて言葉もないカレンの前で、その人物が――どうやら男性だ――床に額が触れそうなくらいに頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました、救世主さま。我らの召喚に応えてくださいましたこと、心より御礼申し上げます。救世主さまにおかれましては、王宮にて何不自由なく遇させていただきたく存じます」
「は? え……なに、なにを言ってるの。召喚って、なに? それより、あなたたち誰なの……?」
異様な風体の者たちに傅かれ、慇懃な態度を取られても、不気味以外の感想がない。
そもそも意味の分からないことだらけだ。
ついさっきまで地下鉄にいたはずなのに、気づけば訳の分からない場所にいて、訳の分からない者たちに囲まれている。
言葉は通じているし、話している意味も分かるの。だが、言われていることがまるで理解できない。
カレンは怯えて後退り、周囲を見回して逃げ道を探したが、その動きに気付いたフードの男性が慌てたふうに面を上げた。
フード被ったその人は、老齢の男性だった。目尻や口元には深い皺が刻まれていて、フードから溢れる髪には白いものが混じっている。
老齢の男性は温和そうな顔に、気遣わしげな色を浮かべて言った。
「お待ちください、救世主さま。いきなりのことに、さぞ戸惑っておられることでしょう。なればこそ、どうか落ち着いてください。我々は、あなたに危害を加えるつもりはありません。尊き御身をお守りしたいのです」
「い、意味が分からないのだけど。そもそも、ここはどこなの? あなたたちは、いったいなんなの?」
「我らは救世教会の神官でございます」
にこりと微笑んだフードの男は、舞台俳優のような整った所作で立ち上がった。周囲にいる者に視線を向け、居丈高な声の響きで言った。
「さあ、おまえたち。救世主さまをお連れしろ。くれぐれも御身を損なうことのないように」
その言葉で周囲の者たちが立ち上がり、カレンに近づいてくる。いきなり腕を掴まれて、カレンは怯え混じりの声を上げた。
「ちょ、ちょっと……! 嫌っ、放して! なんなの、やめてってば……!」
慌てて振り解こうとするが、思いの外強い力で掴まれていて、腕を捻ってみてもびくともしない。それどころか肩を押さえられ、半ば引きずるように白い部屋から連れ出された。
結論から言えば、フードの男性の言葉は嘘と偽りばかりだった。
カレンが連れられたのは煌びやかな王宮で、対応こそ丁寧だったが実際の扱いは虜囚のそれでしかなかった。
救世主には類い稀なる力があるはずだ、と言って譲らなかった彼らは、カレンにありとあらゆる検査を施した。
さすがに肌を暴くようなことはされなかったが、それでも奇妙な道具を身体に当てられたり、冷たい水に沈められたり、と決して気分の良いものではなかった。
その嫌がらせじみた検査の挙句に出た結論はと言えば、カレンは救世主ではなかった、というふざけた事実だった。
どれだけ調べてみても、カレンには救世主として相応しい力などなにひとつ存在しなかったのだ。
当然だろう。カレンはただの学生で、特別な力など持っていないのだから。
だがカレンを召喚したこの世界の者たちにとっては、それは受け入れ難いことであったらしい。
かくしてカレンの処遇をどうすべきか話し合いが繰り返され、その結果カレンは無かったことになった。
召喚された事実に始まり、救世主という立場、なにひとつ不自由させないという約束、そしてこれからの全てが失われた。
そもそもなぜカレンが喚び出されたのかと言えば、この国のありとあらゆる預言者に、託宣が下されたからだった。
国に恐ろしい危機が迫っていて、それを回避するには異世界から喚び出した救世主が必要である、と国内にいる何人もの預言者が口を揃えて言ったのだそうだ。
曰く救世主はこの国に無垢で、知る者も知られる者もない、外つ国の者でなくてはならないらしい。
救世主の召喚は国家事業として行われ、だからこそ失敗は許されなかったのだろう。無能のカレンを救世主ではないと定めることで、彼らは失敗の事実すら無かったことにしたのだった。
かくして救世主ではなくなったカレンは、ただの無能な異邦人と成り果てた。
役に立たない異邦人など、国庫に負担を掛けて養う義理はない。彼らはそう言って、あっさりカレンの放逐を決めた。
冗談ではない、と思った。見ず知らずの世界に放り出すくらいなら、元の世界に帰して欲しい。
カレンは必死でそう訴えたが、それは出来ないとすげなく一蹴された。
なんでも異世界からの召喚は一方通行で、元の世界に戻す術はないのだそうだ。
絶望するしかないカレンを置いて、次々と物ごとが決まっていく。
異邦人など不要だから追い出せと言う人がいて、それはさすがに外聞が悪いと言う人がいて、どうせ不要ならなにかに利用すればいいと言う人がいた。採用されたのは最後の人の意見で、それでカレンは辺境の土地、竜人が多く住まう土地、アシェルド領主との婚姻が決まったのだった。
抵抗も文句もなにもかもが無意味だったし、竜人がどういう存在であるのかすら分からなかった。それに救世主ではなくなり、ただの異邦人でしかないカレンに、竜人がどのような存在であるのか説明をしてくれる親切な者はいなかったのだ。
ただ聞こえよがしに噂話をする者がいて、それらの話をまとめてみるに、どうやら竜人とは人によく似た姿をした、とても長生きをする種族であるらしい。ただし御伽話にあるような、竜の姿に変身するということはなく、角が頭に生えていたり、鋭い牙が生えていたり、ということはないそうだ。ただ瞳孔が縦に長く、それが蜥蜴のようで不気味なのだという。
竜に嫁がされるなんてお可哀想に、と侍女たちに嘲笑されながら王宮を追い出されたカレンは、アシェルドへ向かう馬車に押し込まれたのだった。
馬車に揺られること五日、ようやく辿り着いたアシェルドは、山間にある霧深い土地だった。
王宮の気候と違って空気がひんやりしているのは、ここが標高が高い場所だからだろう。
心なしか空気も薄い気がする。
慣れない馬車の旅に疲れ切っていたカレンはまともに歩けず、半ば引きずられるようにして、アシェルド領主セオドア・ファーブニルに引き渡された。
呆れたことにカレンの嫁入りについて、アシェルド領主は何一つ知らされていないようだった。
アシェルド領主セオドアは淡い金の髪に緑色の目をした美丈夫で、彼は困惑した顔で使者とカレンを見てから、眉間に深く皺を寄せた。
「異邦人だという彼女に、庇護は確かに必要だろう。彼女の事情は同情に値する。だが……こちらで彼女の受け入れはいたしかねる。我々が必要としているのは、次代の領主の後ろ盾となれる貴族女性だ。そのことを理解し、かつ私の妻となれることを了承できるなら、寡婦でも未亡人でも構わないと考えている。だが、彼女はそのどれでもないだろう?」
「ええ、ええ、そのご懸念はもっともです。しかし、その点については問題ありません。彼女は異邦人ではありますが、さまざまな事情を鑑みて男爵位を授けてございます。貴殿がお望みの、れっきとした貴族女性ですよ」
使者はにこやかにそう言うと、これで話は済んだとばかりに席を立った。そして月並みな言い回しで暇を告げて、引き留める間もなく出て行ってしまう。
後に残されたカレンは言葉もなく、一方セオドアは深々と溜め息を吐いた。
「……我々の事情に巻き込まれたきみには、申し訳ないし気の毒だと思う。だが、先ほども言ったとおり、私が欲しているのは、次代のアシェルド領主である甥の後ろ盾になれる人物だ」
「つまり……私は、王宮追い出されたのと同じように、ここでも邪魔者なのね」
カレンは移動の疲れでぐったりしながら、そう吐き捨てるように言う。疲れのあまり態度を繕えず自然声が尖ったが、セオドアはそれを気にするふうもなく言った。
「心配せずとも、異邦人であるきみを見捨てるような真似はしない。行き場を失くした者を追い出すなど、人道に悖る振る舞いだろう。しかし先ほども言った通り、我々にも事情がある。なにせアシェルドは今は、平穏とは言い難い状況にあるのだ」
「ふうん。……戦争? それとも内乱の類?」
ぞんざいな口調で問いかけたカレンに、セオドアが意外なことを聞いたというふうに目を丸くした。
「後者だ。……もしや、きみは教育を受けたことがあるのか?」
「一応は。と言っても、こっちの世界とは常識が違うみたいだから、なんの役にも立たないと思うけど」
ここは異世界から人を召喚する魔法があって、不可思議な力を持つ英雄を求めていて、人以外の種が存在する世界だ。物理法則ですら異なるかもしれないのに、元いた世界の知識をそのまま利用できるとは考えにくい。
カレンがそう溜め息混じりに零すと、セオドアがちらと苦笑を浮かべてみせた。
「客人であるきみに、なにかを求めるつもりはない。ただ、アシェルドは荒れている。領主である私は、それを早急に平定せねばならない」
なんでもアシェルドには彼と意見を異にする一族がいて、武力蜂起の動きを見せているそうだ。本来であれば既に部隊を率いて現地に向かっていたはずが、国から唐突にカレンを押し付けられたことで、出立を遅らせざるを得なかったらしい。
「私はしばらく屋敷を空けることになる。ゆえにきみを妻として受け入れることは不可能だ。きみの処遇が決まるまでは、客分としての預かりになる、ということは理解してもらいたい」
「要するに、私に穀潰しになれってことね」
「それが嫌なら、きみに仕事を与えても良い。ちょうど甥の子守りをしていた者がひとり辞めて、次を探していたところだ。両親を亡くしたばかりの哀れな子だが、竜の血が濃いせいで気難しく、疳の虫が強い。だから無理にやれと言うつもりはないし、試して無理なら辞めても構わない。もちろん、子守りを辞めたからと言って、追い出すことはない。客人としての扱いに変更はないから安心してくれ」
苦笑する口調だったが、カレンを侮っているふうには聞こえなかった。セオドアの声には、ただカレンに対する同情の響きだけがある。
異世界召喚などという訳の分からないことに巻き込まれ、馴染みのない世界で多くの人と顔を合わせたが、シンプルな哀れみの感情を向けられたのは、考えてみると初めてのことかもしれない。なんだか、ここにきて、ようやく人間扱いされたような気がする。
最悪なことばかり起きているせいで、色々な感覚が麻痺しているのは分かっている。選択肢を与えられているようで、決してそうではないと気づいていたが、まともに人として扱われたことに絆されて、カレンはセオドアの提案を受け入れることを決めた。
かくしてカレンはアシェルド領主、ファーブニル家の客人兼使用人となった。
仕事はセオドアに提案された子守りだ。
しかし子守りとひと口に言っても、そう簡単にはことは進まなかった。
なにせこの世界は、カレンが生まれ育った世界とはなにもかもが違っているのだ。その最たるものはインフラなどの文化レベルだった。
水は蛇口を捻るのではなく、井戸から滑車と木桶で汲まなくてはならず、煮炊きをするのは薪の火で、灯りは蝋燭か酷い臭いと黒い煤の出るランプのみだ。
子守りをする以前に暮らしていくだけで精一杯で、つまりカレンはまったくの役立たずだった。
任された仕事をするどころではないカレンの様子に、アシェルドの竜人たちは呆れ果てているようだった。
ひそひそと陰口を叩かれ、遠巻きにされるのは王宮と一緒だが、向けられる感情の中には人に対する悪意も含まれていた。王宮の侍女たちがそうであったように、どうやらアシェルドの竜人たちも余所者である人を疎んでいるらしい。そんな彼らがカレンへ向ける悪意が、害意へと変わるのはあっという間のことだった。
(……よくもまあ、次から次へと思いつくものよね。子供の頃に受けたいじめだって、ここまで酷くなかったのに。竜人って見た目は綺麗なのに、中身は性悪ばかりなの?)
そう愚痴りたくなるくらい、カレンは様々な嫌がらせを受けていた。
例えば苦労して洗った洗濯物を泥に落とされたり、食事の皿をわざとひっくり返されたり、と数え上げれば枚挙にいとまがない。いくら領主がカレンを客人として扱うと言っても、不在で目が届かなければこんなものだ。
そしてセオドアが仕事で遠方に出ている今、カレンに対する侍女たちの嫌がらせは質が悪くなるばかりだった。
今朝はベッドに鼠の死体が入れられていて、その片付けに奔走したせいで仮眠すら取れなかった。
この世界のどこにいても、結局のところカレンは余所者で厄介者なのだ。
来たくて来た訳でもないのに、この居心地の悪さには、まったく辟易させられる。鬱々とするばかりカレンだったが、そんな苦い日々の中で数少ない癒やしとなったのは、セオドアの甥であり次期領主であるフレッドの存在だった。
セオドアは甥を気難しいと言ったが、ところが彼は大人しくよく笑う可愛い赤子だった。
叔父であるセオドアと同じ金の髪に、月のような金色の瞳。縦に長い瞳孔は物珍しいと思ったが、愛らしさが先に来るからか、王宮の侍女たちが言うような不気味さは感じなかった。
ふくふくの手足を元気いっぱいにばたつかせる様子や、ご機嫌に笑う顔と声はひたすらに可愛いばかりだ。
ただひとつ困ったことがあるとすれば、それは彼の夜泣きの酷さだった。
柵に囲われたベビーベッドに、ひとり置いていかれるのが嫌なのか、それとも親を亡くしたことが影響しているのか、ひとたび目を覚ますと火がついたように泣き出してしまう。そうなると宥めてもあやしてもまるきり無駄で、フレッドが疲れて眠るまで抱き続けるしかなかった。そのうえ夜泣きは一度だけでなく、酷いと三十分ごとということもあった。
フレッドを世話する子守りは何人かいるのだが、この夜泣きのせいで侍女たちの誰も不寝番をしたがらない。それで役立たず扱いされているカレンが、その役目を一手に引き受ける羽目になっていた。
慣れない土地に、慣れない食事、慣れない文化。不寝番が続くのに、日々の家事もあるせいでろくに眠ることができない。精神的にタフという自負があったカレンだったが、さすがに限界と言わざるを得なかった。
「いいこ。いいこだから、泣かないで……」
顔を真っ赤にして泣くフレッドを抱き上げて、カレンは泣きたくなる気持ちで寝室をうろうろと歩き回る。
今晩は普段よりも輪をかけて夜泣きが酷かった。ベビーベッドの横でうとうとしては起こされ、寝かしつけてはまた起こされるの繰り返しだ。泣きすぎて体温の上がったフレッドをあやしながら、ふと窓の外に視線を向ける。
気づけばいつの間にか、東の空がうっすら明るくなっていた。
そろそろ使用人たちが起きだす時間だ。それなら庭に出ても迷惑にならないだろう。
そう思ってカレンは掃き出し窓を開けると、フレッドを抱いたまま薄暗い庭に出た。
明け方の澄んだ空気が心地良い。少し肌寒いくらいだったが、泣いていたフレッドには心地良かったのだろう。
甲高かった泣き声が、ふにゃふにゃと柔らかなそれに変わっている。そのことにほっとして、それと同時にどっと疲れが身体に伸し掛かってくる。カレンは不意に歩みを止めると、その場にしゃがみ込んだ。
寝不足と疲れとストレスのせいで、上手く頭が働かない。ふと口をついて出たのは、小さな呟きだった。
「帰りたい……」
浮かんだその言葉を口にした途端、眦から涙がぽろりと零れ落ちた。
――帰りたい。
それが叶わない願いだと分かっているから、余計に帰りたくてたまらない。
どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろう。
見知らぬ世界に喚び出され、要らないからと言って見捨てられて、その捨てられた先でも邪魔もの扱いだ。
どこにも行く宛などないのに、それでもどこかへ逃げ出したい。こんな嫌な世界、これ以上は一秒だっていたくなかった。
フレッドの小さな身体を抱きしめながら、カレンは零れる涙を拭いもしないで泣き続ける。
泣いて、泣いて、大きくしゃくりあげた時、近くの茂みががさりと音を立てた。
「――ふうむ。どうにも騒がしいと思ったら、坊ちゃんの夜泣きだったか。竜の子は利かん気が強いから、子守りをするのも大変だろうな」
おっとり労るような口調に驚いて、カレンは面を上げる。声のした方に顔を向けると、すぐそばに鳥の羽のついた中折れ帽子が見えた。
ずいぶんと低い位置にあるそれに戸惑いながら、カレンはさらに視線を下げる。そしてそこにいた姿に、思わず大きく目を瞠ってしまった。
(……妖精?)
子どものような小さな背丈に、髭もじゃの顔、大きなスコップを担ぐ姿は絵本に出てくるブラウニーのようだった。
異世界と言っても、今まで人と似たような姿の者しか見てこなかったのだが、どうやら妖精も存在するらしい。
カレンは驚きつつ袖口で涙を拭って、泣き濡れた声で言った。
「あの……騒がしくして、ごめんなさい。まさか庭に誰かいるとは思わなくて……」
「なんのなんの、儂らはこれから眠るところだから構わんよ。別に起こされた訳じゃあないから、おまえさんが謝る必要もない。それに子どもは泣くのが仕事だ。付き合わされる子守りは大変だろうがな」
「それは……でも、私の仕事だから」
「ほうほう、そうかい。けど泣くほど辛いのに、そう言えるおまえさんは偉い子だ。子、と言うにはちいとばかし歳がいってるようだが、まあ、儂らから見たら、坊ちゃんもあんたも子どもみたいなもんさな」
言って妖精ブラウニーに似た彼は、小さな手を伸ばしてフレッドの背を撫でた。
「その子は儂らの大事な坊ちゃんだ。かぞいろを亡くした可哀想な坊ちゃんを、おまえさんは大事にしてくれてるだろ? だから優しくて親切で、耳の良いおまえさんに、ひとつ良いことを教えてやろう」
言って彼はフレッドを撫でる手を止めて、灌木の向こうに生える背の高い木を指差した。
「あっこの木の裏には、白い小さな花がたくさん生えとる。それを摘んで坊ちゃんの枕元に置いてやるといい。どこにでも咲いている花だが、あれは竜人の夜泣きを抑える効果がある」
「……花が? 夜泣きに?」
「ああ、覿面に効果がある。竜人という種が好む香りなんだろう。昔は子どもが生まれた家に、ポプリを作って贈るのがご婦人らの習いだったんだがな。近ごろはめっきり子どもが減って、その風習も絶えてしまった。それに今じゃあ、儂らと話をする人も見かけんようになったからなぁ」
そう寂しげに言った彼は、ふとなにかに気づいたふうに空を見上げた。大きなスコップを肩に担ぎ直し、カレンに向かって言った。
「そろそろ儂らは戻らにゃならん。時間だからな。おまえさんも明るくなる前に戻った方がいい。部屋に坊ちゃんがいなかったら、騒ぎになるだろう」
それはもっともである。
カレンは小さな姿が去って行くのを見送ると、教えて貰った花を何輪か摘んでから、自身もフレッドの寝室へ引き返した。
いつの間にか眠っていたフレッドをベッドに戻して、しばらくすると昼間の子守り担当がやってくる。話しかけても返事すらしない彼女に引き継ぎをして、それでカレンの今日の仕事は終わりだ。
今すぐにでもベッドに飛び込みたいが、その前に食事と雑事を済ませなくてはならない。
味気ない食事を終え、部屋の掃除と洗濯を済ませると、そろそろ日が暮れようという時刻だった。
今からベッドに入っても、眠れるのはほんの数時間しかないだろう。それなら、とカレンは裁縫道具に手を伸ばした。
夜明け前に会った、親切な妖精が教えてくれたことを試そうと思ったのだ。
手先が器用とは言い難いカレンだが、簡単な繕いものくらいはできる。それで余り布を小さな袋にして、中に白い花を入れてサシェを作った。
そして夕食を終えた晩、いつものように不寝番を押し付けられたカレンは、フレッドのベッド脇で佇んでいた。
さっき作ったばかりのサシェは、フレッドの枕の下に忍ばせてある。妖精の彼が言ったことを信じていない訳ではないが、フレッドが花の匂いを嫌がる可能性もある。そう思って注意深く見守っていたのだが、拍子抜けするくらいにフレッドは気にしていないようだった。
どころかすやすやと眠っていて、むずかる様子もない。おしめを替えるときですら目を覚まさず、おかげでカレンは短い時間ではあったが仮眠を取ることもできたのだ。
そもそもフレッドはとても良い子だ。酷い夜泣きさえなくなれば、夜の世話はほとんど手がかからなくなる。館中に響き渡るような泣き声が聞こえなくなれば、フレッドの夜泣きが収まったことはすぐに知れ渡った。するとカレンは当たり前のように、不寝番から外されるようになった。
だがフレッドの夜泣きが治ったのは、白い花で作ったサシェのおかげだ。それが無くなれば当然、フレッドはまた夜泣きするようになる。使用人たちは自分たちの手に負えなくなると、ふたたびカレンに不寝番を押し付けたのだった。
この身勝手さにはカレンも心底呆れ果てて、白い花について口を噤むことを堅く心に決めた。
かくしてカレンは完全に昼夜が逆転することになったのだが、ひと月もすればそんな暮らしにも慣れてくる。日常の家事もなんとかこなせるようになったし、食事での嫌がらせも回避できるようになった。
周囲の状況に意識を向けられるようになって、あちらこちらで囁かれる噂話に耳を澄ます余裕もできた。
噂話など正直どうでもいいのだが、情報はひとつでも多く持っておくに越したことはない。もし今後なにか悪いことが起こったとして、身の安全を確保するには情報がなによりも重要だからだ。
それにカレンはある程度の給金が貯まれば、いずれどこか遠くで暮らすことを考えていた。住むならアシェルドと王都以外の場所で、ある程度の治安の良さと仕事がある街がいい。
だが土地鑑のないカレンに、そんな場所の心当たりなどあるはずもない。元の世界であればネットひとつで解決するが、不便なこの世界では人を介してしか情報収集する術がないのだ。しかしここで誰かと話す気にはなれず、それでカレンは素知らぬ顔の裏で噂話に耳を傾けていた。
今日の夕食の席では、領主の活躍の話題で持ちきりだった。
アシェルド領内の揉め事を八面六臂の活躍で平定した領主セオドアは、どうやらもうじき館に戻ってくるらしい。
セオドアに対しては思うところはあるものの、領主館の使用人たちに抱いているような悪感情は持っていない。たった一度顔を合わせただけの人物であるし、その一度も色々あったせいで記憶が薄れかけていた。
直接的な危害を加えられていない相手にはなんの感情も抱けないし、可愛いフレッドの叔父だから、できれば悪人でないと良いなと思う程度である。
(あ……そういえば、私の処遇について改めて話し合いをするんだっけ。さすがに前言撤回して追い出される、ということはないと思うけど、心構えだけはしておいた方がいいかな……)
味気ない夕食を終えて食堂を後にしたカレンは、いつものようにフレッドの元へと向かった。部屋に入ると夜番の侍女がいそいそと退がり、カレンはフレッドとふたりきりになる。
カレンはベビーベッドにいたフレッドを抱き上げると、窓際に置かれた安楽椅子に腰を下ろした。
ミルクをたっぷり飲んで、おしめを替えたばかりのフレッドは上機嫌だった。カレンにしがみついて、わぁわぁと楽しげに声を上げている。可愛いそれに釣られたように、カレンは唇の端でひっそりと微笑んだ。
柔らかく温かなフレッドの背中を撫でながら、ふと口をついたのは幼いころに母と歌った子守唄だった。
(大学の編入試験まで、歌わない日などなかったくらいなのにね。好きで好きでたまらなかった歌を忘れてしまうほど、ここでの暮らしに打ちのめされていたのかもしれないな……)
そう苦笑して、だがひとたび歌いだせば、心が浮き立つのを感じる。子守唄だから声を張り上げることはできないが、それでもカレンは朗々と歌い上げた。
膝に抱いたフレッドが、楽しげに身体を弾ませている。
どうやらお気に召してくれたらしい。
カレンはくすくすと笑って、フレッドの顔を覗き込んだ。
「すてきでしょ? これはね、私の思い出の歌なの。母と一緒に歌っていたら、ピアノの先生に声を褒められて――」
かたん、と扉になにかがぶつかる音がして、カレンは、はっとして面をあげた。音のした方に顔を向けて、目を瞬かせる。
「…………あ」
そこに立っていたのは、アシェルド領主セオドアだった。
カレンがここに来た時に会ったきりだから、顔を合わせたのはおよそひと月ぶりくらいだろうか。
正直彼の顔も印象も忘れかけていたが、淡い金髪に緑の瞳、整った顔貌には確かに見覚えがあった。叔父甥だから当然なのだろうが、こうして改めて見ると、フレッドと面差しに似通ったところがある。
このまま順調に育てば、フレッドの将来は安泰だろう。そう益体もないことを考えていたカレンだったが、セオドアがすぐ目の前に来たことに気づいて、戸惑いの表情を浮かべた。
「え、あの……?」
「きみは――」
セオドアは上擦った声で言ってから、それを誤魔化すように咳払いする。それから彼は、カレンの前で膝を突いた。
「……今の歌は、きみが?」
そう問いかけられて、カレンは思わず眉間に皺を寄せる。
まさか子守唄を歌ったことで、文句でも言われるのだろうか。
この世界はカレンのいたところと違いすぎて、なにが良くてなにが駄目なのか判断するのが難しい。とはいえ、知らなかったことで咎められるのは理不尽だ。そう内心で反発を覚えながらも、カレンはこくりと頷いてみせた。
「私の故郷では、子どもを寝かしつける歌があるから。……ここでは違うの?」
「違わない。あ、いや、そうではなくて……」
口ごもったセオドアは、困惑したような顔で視線をうろうろと彷徨わせている。
なにかを躊躇うような間があって、セオドアが口を開け閉めする。だが彼はなにかを言うことはなく、じっとカレンに視線を当てた。
その見つめる緑色の瞳に、妙な熱を感じるのは気のせいだろうか。カレンは思わず身を引いてしまったが、セオドアはその距離を詰めるように前のめりになった。
「カレン、すまないが……もういちど、歌ってくれないだろうか」
「……は、え、もう一度……って歌? ……私が?」
「ああ、頼む。ほんの一小節だけでいい」
なぜそんなことを頼まれるのか訳がわからない。だが妙な圧をかけられ、切羽詰まったような表情で言われると、嫌ですとは言い難い。ましてやセオドアはアシェルドのご領主様だ。居候兼使用人の立ち場では、彼の頼みは断れなかった。
それでカレンは言われたとおり、子守唄の一節を口ずさんだ。歌うとフレッドが楽しそうに笑って可愛いが、セオドアにじっと見つめながらでは非常に居心地が悪い。それでもなんとか頼みどおり一節歌いきって、ほっと息を吐いたときだった。
フレッドの背を撫でていたカレンの手に、いつの間にかセオドアの指が絡みついている。その上ぎゅっときつく握られて、カレンは狼狽えた声を上げた。
「え、なに、なにを……」
「やはり間違いない。その声を聴いて確信した。きみは、きみの歌声は私の宝、唯一だ」
「は……? あの、ちょっと、言っている意味が分からないのだけれど……」
「分からない? ――ああ、そうか。人には理解できないのだったか……」
そう独り言のように零したセオドアは、カレンを見つめてにこりと微笑んだ。
顔貌の整った彼がそうすると、有無を言わさないような迫力というか、圧のようなものを感じてしまう。思わず顔を引き攣らせたカレンだったが、セオドアはそれに構うふうもなく後を続けた。
「竜が巣に集めた財宝を守り執着するように、竜から派生した我々竜人も宝を慈しむ性質がある。だが我々は竜であり、人でもある。だからひと口に宝と言っても、その対象は多岐に渡る。――そう、例えば美しい絵画であったり、芳しい香りのお茶であったり、過去には一地方の景観まるごとを愛して、その保存に一生を費やした竜人もいる。そして……どうやら私の場合は、きみの歌声であったようだ。それにしても宝というものが、こんなにも素晴らしいものだとは思いもしなかった……」
「…………」
「竜人の宝は、一生かけたからといって得られるものではない。どころか宝を得ないまま一生を終える竜人ばかりだ。つまり私は類稀なる幸運を得た竜人で、宝であるきみは私が大事に慈しむ存在である、ということなんだ」
だからどうした、という言葉が喉元まで出かかったが、カレンはそれをすんでのところで飲み込んだ。
片手とは言え、拘束されている状況で、その相手を刺激するような言動は控えるべきだろう。それでカレンはさりげなさを装って、掴まれた手から逃れようと試みてみる。
だがセオドアの手の力は思いの外強くて、そのくせ痛くはない絶妙な加減でカレンの手に絡みついている。思い切り振り解けばなんとかなりそうではあるのだが、フレッドを抱いたままではそれも難しい。腕がぶつかりでもしたら一大事だ。
一方フレッドはと言えば、カレンの戸惑いをよそに、楽しそうな声を上げていた。
天真爛漫で愛らしいが、そろそろベッドに向かわなければならない頃合いである。きちんと睡眠を取らせないと、叱責を受けるのはカレンなのだ。そう思って視線を下げたカレンになにを思ったのか、セオドアが流れるような動作でフレッドを抱き上げた。
そのままベビーベッドに連れて行ってしまう。マットの上に下ろされたフレッドは不満そうな声を上げていたが、セオドアが額の辺りを指で撫でると、魔法のように大人しくなった。
シーツの端を握って指しゃぶりをしているから、しばらくすれば眠ってしまうだろう。これは寝かしつけが上手い、というレベルではない。カレンが唖然としていると、セオドアは微苦笑を浮かべて言った。
「人には知らされていないことだが、竜人の額には竜玉と呼ばれる宝石が埋まっていると言われている。力量差がある相手に限られるが、そこに魔力を流されると竜人は抵抗できなくなる。大人しくしろと命じられれば従わざるを得ないし、眠れと命じられれば目を閉じずにはいられなくなる。強者と認めた相手に従順になってしまうのは、我々が竜だったころの名残りだろうな」
「……そんな便利な方法があるのに、ただの人間に私に子守りをさせたの?」
ぼそり、とカレンの口から暗い呟きが漏れる。その声には少なくない苛立ちが篭っていたが、カレンから少し離れた位置にいたセオドアには聞こえなかったらしい。
彼は不思議そうに、それでいて緑色の瞳に親愛を込めてカレンを見つめていた。
分かりやすいくらいにまっすぐ好意を向けられて、だがカレンは無性に腹が立って仕方がなかった。できることなら、ふざけるな、と言って胸ぐらを掴んで力一杯に揺すぶってやりたいくらいだった。
なにせあの親切で優しいブラウニーに、夜泣きに効果のある花のことを教えて貰えるまで、カレンはまともに眠ることもできなかったのだ。疲れ果てて心は擦り切れていたし、故郷に帰りたくても帰れないことに絶望もしていた。それでもこの世界で生きるために、砂を噛むような思いで努力していたのだ。
それなのにたった指一本で寝かしつけをされてしまえば、今までの苦労が全部無意味に思えてくる。いや、実際なにもかもが無駄だったのだ。遣る瀬無さに腹が立って仕方がなかった。これが八つ当たりだとは分かっていたが、カレンはそれをうまく飲み込むことができなかった。
むっつりと黙り込んだカレンに、セオドアは穏やかな宥める口調で言った。
「フレッドの子守りは大変だっただろう。だが心配は要らない。きみが私の宝と判ったからには、きみに使用人の真似ごとをさせるつもりはない。むしろきみには、専属の使用人が必要だな」
「…………」
もしやここは、それは素晴らしい提案ですね、と喜んでみせる場面なのだろうか。
セオドアは一地方を治める領主さまだ。貴族社会に馴染みのないカレンだったが、それでも領主という地位の意味することは理解している。つまり彼の庇護を得たならば、なんの取り柄のないカレンでも、しばらくはこの世界で安泰に暮らせる、ということだ。
冷静な頭の一部が、セオドアの申し出を受け入れたほうがいい、と囁いている。だが胸の中では怒りと苛立ちが炎のように渦巻いていて、とても頷くことはできなかった。どころか感情を面に出さないようにするので精一杯だった。
むっつりと黙り込んでしまったカレンを気にするふうもなく、セオドアは機嫌良さげに続ける。
「部屋も新しく用意しよう。――ああ、身の回りのものも必要だな。アシェルドには王都にあるような流行りの店はないが、それでも携わる職人の腕は確かだ。衣服も装飾品も、きみに相応しい一流のもので揃えなくては」
浮き立った様子で言ったセオドアが、思い出したようにベビーベッド横のテーブルに手を伸ばした。
そこに置かれていた小さなベルを、ちりんと鳴らす。
ベルは使用人を呼び出すためのもので、当然、カレンには触れることは許されていない。だから本来であれば鳴らないはずで、それなのに響いた音に、部屋の外が俄かに騒がしくなった。
ぱたぱたと軽い足音がして扉が開く。やってきたのはカレンと同じお仕着せ姿の使用人で、目鼻立ちの整った、華やかな印象をした彼女は、今は見るからに不機嫌そうな顔をしていた。
館の主人を前にした態度ではないと思うのだが、どうやら開いた扉が死角になっていて、セオドアの存在に気づいていないらしい。
彼女はわざとらしく溜め息を吐いてから、うんざりとしていると言わんばかりに口を開いた。
「ねえ、あなた。そのベルを絶対に鳴らすな、と言っておいたでしょう。それはあなたが触って良いものではないのよ。まったく、どうして人間はこんな簡単なことも理解できないのかしら。これだから人間は嫌なのよ。無能なのに厚かましくて、本当に呆れるわ」
「――そうか、それはすまなかった。だがこのベルは、おまえたち使用人を呼ぶためのものだと思っていたのだがな」
穏やかな物言いとは裏腹の、冷え切った声音だった。
不機嫌な顔をしていた使用人の、整った顔がざっと音を立てる勢いで青くなる。彼女は慌てたふぜいで室内を見まわし、ベビーベッド脇に立っているセオドアに気づいて小さく悲鳴を上げた。
慌てて謝罪と言い訳を口にする彼女に、セオドアはにべもなく言い放った。
「すまないが、黙ってくれ。とても不愉快だ。今の態度で、きみが――いや、きみたちが、だろうか。ともかく私が不在にしている間、きみたちが私の宝をどのように扱っていたかは容易く想像がつく。詳しくは後で聞かせてもらうが、まずは客室を急ぎ整えてくれ。それとジョージにここへ来るよう伝言を頼む」
「は、はい、ただちに……っ」
悲鳴の手前ぐらいの声でそう応じた使用人は、脱兎もかくやという勢いで部屋を後にした。
部屋がしんと静まりかえる。セオドアはひとつ溜め息を吐いてから、浮かべる表情に苦いものを滲ませた。
「……どうやら私は、取り返しのつかない失態をしでかしていたらしい。きみは国から預かった客人だ。それを粗末に扱うなど、本来であればあってはならないことだ。使用人にそれを許した私の責任は重いな。……謝って済むことではないだろうが……本当に、すまなかった」
そう真摯に謝罪して頭を下げたセオドアに、カレンはどういう表情を浮かべて良いのか分からなかった。
貴族社会に馴染まないカレンでも、このひと月あまりで身分差がどういうものであるかは理解している。領主がこんなふうに頭を下げるなど、まず有り得ない事態だ。
一般庶民としては、いえいえそんな気にしないでください、などと言うべき場面なのだろう。だがカレンが味わった苦難を考えてしまうと、どうしたって謝罪ひとつで許してやるものかと思ってしまう。
さりとて怒りをぶつける訳にもいかず、それでカレンは代わりにひとつ疑問を口にした。
「……私は、これからどうなるの?」
「どうもしない、というより君の好きなようにして構わない。アシェルド内に留まり、私の手と目の届く範囲にいてくれるなら、という前提条件はつけさせて貰うが、その範囲であればどこへ行くのもきみの自由だ。もしこの館が気に食わないと言うなら、街に住まいと世話をする者を用意しよう。私はきみを宝として大事にするが、そのことできみを損ねたくはないんだ」
セオドアの言葉は一点を除けば、あまりにカレンに都合がよくて、だからこそ余計に不信感がつのった。なぜなら竜が宝を大事にすると聞いて、真っ先に思い浮かんだのが、何年か前に観たファンタジー映画だったからだ。
その映画で竜は自分の宝に固執して、莫大な量のたったひとつが盗まれたときでさえ、そのことに気がついたのだ。
創作の竜と、現実の竜人とが同じとは思っていないが、それでもセオドアの言動にはカレンに対する執着の気配がする。もしここで返答を間違えれば、なにか取り返しのつかない事態になりそうな予感がしてならない。
カレンは考え込む表情の裏で、打算と保身に思考を巡らせると、慎重に口を開いた。
「……あなたの考えは分かった。でも私がこれからどうするかは、少し考えさせて欲しい」
もちろん、とセオドアが頷いたところでノックの音が響く。扉を開けて現れたのは三十まわりの男性で、使用人たちを統括する家令だった。
なるほどセオドアが先ほど呼ぶよう命じたジョージとは、彼のことだったらしい。
使用人たちの顔はなんとなく把握しているが、それと名前とが一致しているのはごく一部の者だけだ。自己紹介されたことは一度もなかったし、そもそもろくに会話もしたことがないのに、名前を覚えてやる義理はない。役職名さえ分かれば十分で、家令などはその筆頭だった。
ジョージ、と呼ばれた家令の彼は、セオドアに向かって言った。
「お待たせして、大変申し訳ありません。お呼びと伺いましたが、なにか問題でもございましたか?」
そう言いながら、ジョージは訝るような眼差しをカレンへ向ける。なにか問題を起こしたのか、と言わんばかりのその表情を見るに、どうやら先ほど逃げ出した使用人は、ジョージを呼び出すだけで詳細は語らなかったらしい。
それでセオドアは宝がどうの、カレンの歌声がどうのと再び語り、それを聞いてジョージは目を丸くした。
「……は? セオドアさまの宝、でございますか……? その人間の娘が? はは、まさか、そんな馬鹿な……」
薄笑いを浮かべたジョージは、だがセオドアの纏う空気が凍ったのに気づいて、慌てて表情と態度を取り繕った。
きりりとした顔で言う。
「失礼、驚きのあまり失言をいたしました。――それにしても、アシェルド当主が宝を得るのは、何百年ぶりのことでしょうか。はるか以前に宝を得たかつての領主は、精神の安定を得て長く善政を敷いたと言われております。我ら竜人にとって、宝とは恩寵。セオドアさまがそれを得られたことは、なによりの幸いでございます」
「だが私は彼女が自分の宝だと気づかず、相応しくない環境に置いてしまった。すぐに待遇を改善を図りたい」
「ええ、もちろんでございます。まずは急いで部屋を整えさせましょう」
「いや、それなら既に別の者に命じてある。ジョージ、おまえにはそれ以外のことを頼みたい。身の回りを整えるための手配と、彼女に付ける使用人の選定が必要だ」
「でしたら商人も新たに選ぶ必要がありますね。彼らの取り扱い品には、ご婦人向きのものは少ないですから。ひとまず、先代の頃に付き合いがあったところに声をかけるので構いませんか?」
「ああ、頼む。それと使用人だが、人となりをよくよく確かめてくれ。私の宝に対して、妙な害意を持つものでは困るからな」
セオドアが不在の間、カレンがどのような扱いを受けていたのか、家令であるジョージはもちろん把握している。
彼は微妙な表情でカレンをちらと見て、それから神妙な様子で口を開いた。
「承知いたしました。……選定から弾かれた者については、いかがなさいますか?」
「それは後で考えよう。もちろん、既になにかやらかしている者は処罰する。そちらも調べておいてくれ」
はい、と頷いたジョージは、カレンに目礼してから部屋を出て行った。そしてそれと入れ違いにひとりの使用人が現れて、客室の用意が整ったことをどこかびくびくした様子で告げた。
先ほどセオドアの不興を買っていた女性とは別人で、カレンとはあまり関わりがなかった使用人だ。だからこそ伝言役を押し付けられたのだろう。
表情に怯えが見える彼女に案内されて、カレンは客室に足を踏み入れた。
客室があるのは主寝室があるのと同一のフロアで、つまり上等の客人が通される部屋である。
実際部屋は、スイートルームもかくやという豪華さだった。
真っ先に目に入ったのは、布張りのソファに象嵌細工の美しいテーブル、そして淡いグリーンのカーテンが掛けられた大きな掃き出し窓だ。格子窓はバルコニーに続いていて、中庭が見渡せるようになっている。寝室は続き部屋の向こうにあって、開かれた扉から天蓋付きのベッドが見えた。
ほんの少し前まで使用人棟の、狭くて暗い部屋で暮らしてた身からすると、信じられないくらいの高待遇だ。この世界に喚び出される前、家族と行った旅先ですらこんな豪華な部屋に泊まったことはなかった。
もしこの部屋に案内されたのがアシェルドに来たばかりの頃であれば、役立たずという烙印を押され王宮から叩き出された直後であれば、カレンは深く考えずに喜んでしまったかもしれない。だがこのひと月あまり辛酸を舐め続けていたせいで、カレンに動く心の素直さは欠片も残っていなかった。
これは良いお部屋ですね、くらいの感想しか抱けず、むしろ広すぎて使い勝手が悪そうだ、などと意地悪く考えてしまう。
使用人が入浴のお手伝いをします、と震えながらの申し出を断って、カレンはようやく部屋にひとりきりになった。
広い部屋をしばらくうろうろと彷徨ってから、迷った末にソファの端に腰を下ろす。
カレンは深く溜め息を吐いて、前髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。思わず零れたのは、低くて暗い呟きだった。
「……最低。なんなのよ、これ」
この世界の身勝手に振り回されるのは、これで何度目だろうか。
最初は有無を言わさず喚び出され、英雄だと持て囃したと思えば、こんな役立たずは不要だと追い出された。そしてアシェルドに花嫁として送られて、だがここでも要らないと言われて子守りになった。
なんとか仕事と住まいは得たが、竜人たちは人間であるカレンを疎んでいた。
日々の暮らしは苦しいばかりで、心は擦り切れてずたぼろだ。
いつかここを出られたら、という微かな希望を頼りに暮らしていたのに、歌声が領主の宝であるから領地を離れるな、と言う。
なるほど。この世界ではものごとのなにもかもが、カレンの意思を無視して進んでいくらしい。
(馬鹿みたい。こんな最低で最悪な世界、もう、うんざりだわ)
カレンは内心でそう吐き捨ててから立ち上がり、室内をぐるりと見渡した。
つかつかと歩いて、バルコニーに続く大きな窓を開ける。夜の冷たい風が吹き込んできたが、それに構わず外に出た。
すぐ眼の前にあった石製の手すりから、大きく身を乗り出してみる。すると常夜灯に灯された地面が、思いの外遠い距離に見えた。
カレンに用意された客室は二階だ。ここから中庭に降りるには、いささか勇気の要る高さだろう。どころか下手をすれば、怪我をしかねない。
カレンは冷静な頭の隅でそう考えながら、だが無謀を承知で手すりを乗り越えた。
石壁の出っ張りに足をかけ、指でもしがみつきながら慎重に下へ下へと降りていく。幸いにも途中で足を踏み外すことはなく、カレンは芝の生えた地面に怪我ひとつなく降り立った。
そのまま中庭を突っ切って、灌木で区切られただけの敷地を抜ける。
真夜中を過ぎた刻限、周囲はすっかり闇夜に沈んでいたが、カレンは構わず領主館の敷地の外へ出た。
最初は物音を立てないよう慎重な足取りで、だが徐々に早足になって、気づけば森の中を駆けていた。
息が上がってもう限界、というところまで走って、目の前にあった大木によろよろとすがりつく。荒い木の肌に凭れて息を整えていると、少し離れた位置から下草を踏み荒らす足音が聞こえてくるのに気がついた。
(まさか、もう追っ手が来たの……?)
突発的な逃走だ。セオドアがそれを予想できたとは思えないが、相手は人とは種を別にする竜人だ。超感覚的ななにかでカレンの不在を察した可能性もある。
カレンは弾む呼吸を抑えながら、音がする方にそっと耳をそばだてた。すると聞こえてきたのは、思ったのとは違う声だった。
「たいへんだ。たいへんだ。わざわいがくる」
「くろいわざわいだよ。あれがきたら、もりがだめになっちゃう」
「にげよう。にげよう。わざわいにのみこまれるのはいやだ」
獣が唸るのに似た低く籠った声なのに、話す言葉がまるで幼子のようだ。
不思議に思って木の幹から身を乗り出すと、月明かりの下に三匹の狼が、大きな円を描くようにうろうろと彷徨っていた。狼たちはそうして彷徨う間も、災いとやらに対する怯えた声が聞こえてくる。
(……狼が、喋ってる??)
驚きである。
竜人という種族を知り、これぞ妖精ブラウニーという姿した者と出会い、もしやこの世界は思っていたよりも不可思議なのかもしれない、と思っていたが、まさか狼が喋るとは思ってもみなかった。
狼たちは月明かりでも分かるくらいの、灰色の素晴らしい毛皮をしていて、これが自分ごととして目の前で起こっているのでなければ、カレンは大喜びしていたかもしれない。
かつて家族の一員に大型犬がいたカレンは、犬科の生き物を心から愛している。狼たちは喋る幼さも相まって愛くるしく、それで自分が逃走中の身であることを一瞬忘れてしまった。
思わず彼らに近づいてしまって、その拍子に踏みれた小枝がぱきりと音を立てた。
狼たちが驚いたように毛を逆立てる。月明かりを反射する金色の目が、カレンをひたと捉えた。
「わあ、ひとだ! ひとがいる!」
「ひと? ひとがいるの?」
「たいへんだ。ひとにつかまったら、ぼくらけがわにされちゃう!」
わあわあと声を上げた狼たちは、ぴょんと飛び跳ねてから一目散に逃げ出してしまう。
残されたカレンは唖然とそれを見送り、はたと我に返って頭を振った。
狼たちが言っていたことはよく分からなかったが、とにかくカレンもこの場を離れた方がいい。狼たちが言っていた災いとやらも気になるし、なにより竜人たちに連れ戻されるのはごめんだった。
カレンは領主館とは逆の方向に足を踏み出して、だが周囲が不自然に翳っていることに気づいて辺りを見回した。
足元を照らしてくれていた月明かりが消えて、夜の闇とは肌触りのことなる暗さが森を包み込んでいる。凍えるような寒さが足元から這い上り、同時に漂ってきた凄まじい臭気に、カレンは思わず顔をしかめてしまった。
血と肉の腐った臭いに、繁華街の裏道に漂うよう饐えた臭いが入り混じっている。はったと鼻を手で押さえたところで、狼たちが去ったのとは逆方向から、みしみしとなにかが軋むような音が響いた。
目を向けた先、夜よりも深い暗闇の中に、いっそう昏くて大きな塊がある。それは黒い影のようにしか見えないのに、まるで生き物のように蠢いていた。
そしてその影は周囲の木々や緑を押しつぶすようにして、カレンのいる方へと近づいてくる。
今すぐに逃げなければ、と思うのに、足は竦んだように動かなかった。
『う……あ、ぁ……うぅ……あ……』
呻きのような、嘆きのような、暗くて掠れた声が聞こえてくる。声は明瞭とせず、なにを言っているのかさっぱり分からない。ただ澱のようなものが、肌を刺す鋭さで伝わってくる。
――苦しい、悲しい、痛い、たすけて、たすけて、たすけて。
言葉ではなく感覚でそれと理解した途端、全身の肌が粟立った。どっと押し寄せてきた感情の波に飲み込まれて、心まで真っ黒に染まるのが分かった。
まるで自分が自分でなくなるかのようだった。悲しくて苦しくて、いても立ってもいられなくて、いっそこのまま死んでしまいたいとすら思ってしまう。
もういやだ。こんな世界に一秒だっていたくない。家に帰りたい。それが無理なら――あの黒いのに飲み込まれてしまえば、いっそ楽になれるだろうか。
カレンは引き寄せられるように足を踏み出し、だが腕を強く引かれてはたと我に返った。
掴まれた腕を視線で辿れば、カレンを引き止めていたのはセオドアだった。
「あ……」
よほど焦っていたのか、乱れた金褐色の髪が汗で頬に額に貼り付いている。彼は弾む呼吸を整えることもせず、正面を見据えたまま言った。
「気をしっかり持つんだ。あれに飲み込まれると、正気を失ったまま戻れなくなる」
「あれは……あれは、いったいなに……?」
「森の災いものだ。呪い、穢れ、ただ怪物と呼ばれることもある。人の負の感情が集まり凝った存在で、我々竜人がこの地を治める理由でもある。自然災害のようなもので、対処はできるが、発生を防ぐことはできない」
淡々とした声で言ったセオドアは、カレンを庇うようにして黒い影との間に立った。おかげで肌を刺すような感覚が遮られて、それでようやく息を吐くことができた。
安堵して初めて、先ほどの状況の異様さを自覚する。
そもそも自由に生きたいと思いつめたからこそ、カレンは領主館から脱走してきたのだ。その方法に死を選ぶなんて有り得ない話で、どうやら森の災いもの、とやらに感情を引き摺られてしまったらしい。
あまりのことに立ち竦むしかないカレンの前で、セオドアが少しも気負わない口調で言った。
「発生したばかりで助かったな。あれならば、私ひとりでもなんとかなるだろう。――カレン、きみは下がっていてくれ」
その後に起こったのは、理解の範疇を超えるものごとばかりだった。
瞬きの間に竜に姿を変えたセオドアは、その重たげな躯体をものともせずに跳躍した。
長く太い尻尾がうねり、一対の羽がしなるように空を叩く。闇を裂くような咆哮が響き渡り、間髪を挟まずにくぐもった悲鳴が上がった。
目の前でなにが起こっているのか、目に見えてはいても、まるで理解できなかった。
人が竜に変わるその瞬間を間近で見ていたのに、カレンの中でセオドアと竜とが結びつかない。そもそも質量が異なるものに変化するなんて、いったいどんなメカニズムなのだろう。いやそれよりも竜人は竜とは違う、竜になる訳ではない、と王都の人間が言っていたのはなんだったのか。
(な、なにこれ。信じられない……)
カレンが呆然とへたり込んでいる間に、セオドアは森の災いものをどうにかしてしまったようだった。
彼が人の姿に戻ったときには、あの黒い影は跡形もなく消え去っていた。セオドアは動けないでいるカレンに手を差し出して、先ほどの暴れる巨躯からは考えられない、紳士的な態度で言った。
「あれは消してしまったから、もう心配は不要だ。……カレン、怪我はないか?」
「……え、ええ。大丈夫。少し、驚いただけだから」
あなたに、とは言えずにそっと視線をそらす。
セオドアはカレンに怪我や災いものの影響がないか確かめていたが、ひととおり調べて納得したのか、安堵したふうの息を吐いた。
「きみが無事で、本当に良かった。……それにしても、なぜこんな危険なことをしたんだ。真夜中に館を出て森に入るなど、無謀にもほどがある。私が間に合わなければ、万が一のことも有り得たのだぞ」
彼の言葉はおそらく、カレンの身を案じてのものなのだろう。だがそうと分かっていても、苛立ちで心がざわめくのを抑えられなかった。
逃げる最中に起こったあれこれのせいで、すっかり忘れかけていたが、カレンが館を抜け出したのは猛烈に腹を立てていたからだ。
そう、カレンは眩暈がするくらい怒っていた。この世界に喚び出された理不尽に、置かれる立ち場がころころと変わることへの苛立ち。それらを知りもしないで自身の都合を押し付けてくるセオドアに、腹が立って立って仕方がなかった。
カレンの荒れ狂う内心に気づきもせずに、セオドアが溜め息混じりに続ける。
「カレン、いったいなにが不満だったんだ。きみを虐げていた使用人は排除して、居心地の良い部屋も用意した。暮らしていくのに必要なものも、きみが欲しいと願えば服でも宝飾品でも、どんなものでも取り揃えるつもだ。きみの願いは全て叶える。だから、なにも言わずに逃げだすような真似はやめてくれ」
まるで聞き分けのない子どもを叱るような物言いだった。
彼がカレンを心配していることも、助けてくれてことも分かっていたが、どうしようもなくカチンときてしまう。そうしていちど切れてしまった忍耐の緒は、どうやら繕っても元の強度には戻らないようだった。
カレンは眦を鋭くすると、腕を掴んでいたセオドアの手を振り払った。足元がふらついたが、構わず鼻で笑って言った。
「私の願い? 出来もしないことを言うのはやめて。私は豪華な部屋も、服も宝飾品だって望んでない。私の欲しいものはひとつだけ、元の世界に帰ることよ」
「それは……」
「ほら、みなさいよ。やっぱり無理なんじゃない。でもね、そんなことくらいとっくに知ってる。だって、さんざん聞かされたもの。私はね、救世主が必要だからって喚び出されたのに、その力がないからって不用品扱いされてたのよ。それなら元の世界に返してくれればいいのに、召喚は一方通行で帰れないんですって。――冗談じゃない。こんな身勝手で馬鹿げた世界なんて、予言どおりに滅んでしまえばいいのよ」
昏い声で言ったカレンに、セオドアは闇夜の森でもそうと分かる緑の目を大きく瞠った。縦長の瞳孔がいっそう細くなった。
「……救世主?」
驚いたように呟くセオドアに、カレンは白々とした目を向ける。
「呆れた。花嫁として押し付けられたのが、どんな人物かも知らなかったのね。それとも、敢えて伏せてたのかしら。本当に馬鹿みたい。……私はね、予言によるとこの国の救世主なんですって。なにをどう救うのか知らないし、そんな大層な力なんて持ってないし、この国がどうなろうと興味すらないけど」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、カレン。きみは……きみは、この世界に偶然迷い込んだ異邦人ではなく、召喚されたのか? それなのに、花嫁としてアシェルドに送られた?」
「ええ、そうみたい。救世主らしい能力も持たない、役立たずの有効利用だそうよ」
セオドアが小さく唸る。
「なんてことを……。界を越える召喚自体が禁忌に等しいと言うのに、その結果であるきみを蔑ろにしたというのか。しかも予言だと? 信じられん、あまりに愚かだ」
苦り切った声で言ったセオドアは、深い溜め息を吐いてから、誰に言うでもない口調で呟いた。
「この愚行を止める者がいなかったのであれば、中枢の腐敗は相当に進んでいる、ということなのだろうな。そして……予言と魔術の因果を無視したこの国は、遠からず滅ぶことになる……」
なんとも深刻そうな声だが、カレンにはその言っている内容の半分も理解できなかった。うっすら意味を拾えたのは、魔術的によろしくない、ということぐらいだろうか。とは言えそのことが原因で国が滅ぶとして、カレンとして願ったり叶ったりである。
この世界に喚び出されてからというもの、嫌なことばかりでいい思い出などひとつもなかった。出会ったのも腹立たしい者ばかりで、もしあの連中が滅んでしまっても、カレンの胸は僅かも傷まないだろう。むしろぼろぼろになった有り様を見て、ざまぁみろ、と笑ってやりたいくらいだ。
そんな荒み切ったカレンの胸中を察したのか、セオドアが慎重な口調で言った。
「……カレン、きみの怒りはもっともだ。きみは彼らに、いや……この世界に対して復讐する権利がある。そして……愚かだった私が、きみを宝などと言う資格がないことも理解した。だが……ここに長居するのは危険だ。森の災いの影響が残っているとも限らない。ひとまず館に戻ろう」
「ふうん。そうやって、館に閉じ込めるつもり?」
「――まさか、そんなことはしない。私はただ……きみには安全な場所にいて欲しいだけなんだ。それが叶うのであれば、そしてきみが望むなら……アシェルドを出て行ってもかまわない。側にいて欲しいとは思っているが、それが私のエゴであることは、もう十分に理解している」
そう今にも死にそうな顔色の悪さで言う。まるで獲物を目の前で取り上げられた犬のようだ、と思って、すぐに似たようなものか、と思い直した。
家令のジョージ曰く、竜人は宝の存在によって精神の安定を得るのだという。であれば宝を失った竜人がどうなるのかは想像に難くなかった。
癇癪を起こして暴れるのか、はたまた沈み込むのかは分からないが、ともかく荒れるなら自分とは無関係のところでやってほしいものである。
そう捨て鉢気味に思考を巡らせていたカレンだったが、足元がぐらりと揺れたように感じて目を瞬かせた。
なにかが変だ、と思った次の瞬間には、地面が目の前に迫っていた。
「――カレン!!」
セオドアの悲鳴のような声が聞こえる。先ほどから感じていた眩暈と吐き気は、どうやら怒りによるものではなかったらしい。
こんなふうに気を失うなんて初めてだ。そう呑気なことを考えたカレンが意識を失う直前に見たのは、泣きそうな顔のセオドアと、その背後に広がる満天の星空だった。
領主館の客室、その豪奢なベッドの上で目を覚ましたカレンは、気づけば見覚えのない使用人から甲斐甲斐しく世話を受けていた。
熱い湯を絞ったタオルで顔を拭われ、髪を丁寧に梳られ、起こした身体の背にふかふかのクッションを差し込まれる。薬湯の入った優美なカップをカレンの手に持たせながら、その使用人、マチルダと名乗った黒髪の女性は、榛色の瞳に穏やかなものを滲ませて微笑んだ。
「ご無事でようございました。それにしても、カレンさまは繊細な外見をなさっているのに、ずいぶんと頑健でいらっしゃるのですね。森の災いものに近づくと、身体だけでなく心まで損ねてしまう者もいるのですよ」
落ち着いた喋り方をするので年嵩のように感じるが、見た目の印象ではカレンとさほど年齢が変わらないように見える。そして不思議なことに、彼女の目には他の竜人にあるカレンへの嫌悪が感じられなかった。
なぜだろう、と内心で首を捻るカレンに、マチルダがしかつめらしく言う。
「とは言え、気を失ったのですから無傷とはいきません。さあ、その薬湯をすべて、残さず飲んでくださいまし。それには身の内の損傷を癒す効果がございます」
「……これを、全部?」
思わず訊いてしまったのは、カップの中身が枯れ草色をしたどろどろの液体で、とても人の口に入れて良いようには見えなかったからだ。
マチルダは榛色の瞳を軽く瞠ってから、にこりと微笑んだ。
「ええ、それをすべてです。味は見た目どおり酷いものですけれど、毒など入っておりませんから、どうぞご心配ならず。もしお疑いでしたら、私が毒味をいたしましょう」
「……その必要はないわ。わざわざ助けた相手を損ねるほど、あの人も間抜けではないだろうし」
「それはもちろんでございます。カレンさまは、旦那さまの宝でございますからね。末永く健やかでいただかなくては困ります」
正確にはセオドアの宝はカレンの歌声なのだが、どうやら明確な線引きはしないらしい。
カレン自体が損なわれれば歌声も損なわれるのだから、本体も大切に扱ってやろう、ということなのかもしれない。そう適当に考えながら、カレンは手の中のカップを覗き込んだ。
そこにある枯れ草色の液体に、ものすごく嫌な顔になる。
出来れば飲みたくない。だが、マチルダから妙な圧のようなものを感じるし、身の内の損傷という言葉も引っかかる。
森の災いものと対峙した時、昏いところへ引きずられるような肌触りがしたのだ。そして悪夢から覚めたような今でも、心の深いところにそれが引っ掛かっているような不快感がある。
それを損傷と言うなら、そして治癒することができるのなら、この枯れ草色をした液体を飲むこともやぶさかではない。
カレンは半ば自分に言い聞かせるように胸中で呟いてから、カップを煽ってひと息に液体を喉に流し込んだ。
(……あれ?)
草そのままという匂いの割に、味は意外と悪くない。むしろ薬湯というイメージからは遠い爽やかさだった。
ただ喉越しは最悪で、飲み込むのに苦労する。それでもなんとかカップを空にすると、マチルダが水の入ったグラスを差し出してくれた。
喉に引っ掛かるそれを水で流していると、マチルダが気の毒がる口調で言う。
「損傷が癒えるまで、一日に一度は必ずそれを飲んでくださいまし。それと損傷が原因で、熱が出たり眩暈が起きたりすることがございます。しばらくはベッドから離れてはなりませんよ。部屋から逃げ出すような無茶は、決してなさいませんように」
朝食の時間にまた参ります。そう言い置いて、マチルダは部屋を出て行ってしまった。
広々とした部屋にひとり残されたカレンは、溜め息を吐くと背中で積み重なっていたクッションに倒れ込んだ。
状況的に仕方がないことではあるのだが、これ以上は耐えられないと思い詰めて逃走したのに、こうもあっけなく連れ戻されたことが情けなくて腹立たしくて仕方がなかった。まるで自分が癇癪を起こした子供のようで、それがあながち間違っていないだけに、なにかに八つ当たりしてしまいたくなる。
だが倒れたばかりのせいか身体が怠く、ほんの少しだが熱っぽいような気もする。
(……もういいや。疲れたし、今夜はこのまま眠ってしまおう……)
溜め息を吐いたカレンは毛布を引き上げると、頭まで包まって眠りについた。
翌朝、目覚めてみれば体調はすっかり良くなっていた。
とは言え災いものから受けた損傷は容易く癒えるものではないらしく、カレンは引き続きマチルダの世話になることになった。
マチルダは別段口数が多いわけではなかったが、カレンの問いかけを厭うことなく答えてくれた。
聞けば彼女は竜人と他種族とのハーフで、それで人に対してさほど悪感情を持っていなかったらしい。ましてやカレンは領主の宝なのだから、誠心誠意お仕えするのが当然、であるそうだ。
そもそも領主であるセオドアが客人として預かった時点で、カレンを使用人棟に送るのは論外だ、と彼女は言う。
セオドアに対して内心なんてことを、と思っていたそうだが、彼女の身分では領主や家令に直談判はできなかったらしい。
マチルダはカレンがアシェルドで初めて出会った、心ばえの素晴らしい女性だった。細かいところに気がつくところを見るに、とても仕事の出来る人物なのだと思う。それなのに次期領主であるフレッドの側仕えでなかったのは、やはりその出自に原因があったようだ。
他種族との混血だから、と能力に見合わない閑職に追いやられて、だがカレンの使用人を選出するにあたって抜擢されたのだという。
「家令のジョージは有能ですけれど、考え方に固いところが多々ございます。おそらくは旦那さまも、その影響を少なからず受けていらっしゃるのでしょう。ですから、旦那さまのそういうよろしくない所は、カレンさまに叩き直していただければと存じます」
「……それは無理じゃないかしら。私は竜人ではないし、宝がどういうものなのか分からないもの」
マチルダがくすりと笑う。
「私の母も、似たようなことをよく申しておりますよ。竜人の父は母の毛皮を宝としたのですが、母としては他のものを宝として欲しかったそうですから。父が毛皮を褒めるたびに、微妙な表情をしております」
「……毛皮?」
「ええ。母は人狼ですので、満月の夜だけ狼の姿になるのです。満月に照らされた灰色の毛並みに、父は恋をしたようですよ」
人狼、とカレンは口の中で呟く。
セオドアが森で竜になるのを見た以上、人が狼になると言われても今更驚くことはない。だが毛並みに恋をする、というのはさすがに意味が分からなかった。
思わず首を傾げていると、マチルダが浮かべていた笑いを深くする。
「父が申しますに、宝とはその相手の一番優れたものごとであるのだとか。そして庇護し愛する範囲はそれのみに止まりません。実際、過去にバイオリンを宝とした竜人は、その弾き手を伴侶としたそうですし、絵画を宝にした竜人は、作者である画家を伴侶にしたと聞いております。旦那さまがカレンさまの歌声を宝としたなら、当然カレンさま自身も寵愛なさることでしょう」
なるほど、とカレンは頷く。
竜人にとっての宝がどういうものか、なんとなく納得はいったが、とは言えカレンがそれを受け入れるかどうかは別の話だった。
セオドアには森の災いものから助けてもらった恩があるし、行く宛のなかったカレンを受け入れてもらった恩もある。放置と処遇に腹は立てているが、これでも一応は感謝はしているのだ。しかしだからといって、それで自分の人生を差し出すことはしたくなかった。
ともあれ使用人であるマチルダの前で、きっぱりと否定するのは悪いような気がする。それでむっつり黙り込んでしまったカレンに、だが聡いマチルダは深追いするような真似はしなかった。
「カレンさま。熱はすっかり下がっているようですが、念の為に今日は寝台の上でお過ごしくださいましね。災いものから受けた損傷による発熱は、一旦下がってもぶり返すことがございます。それと、もし具合が悪くなりましたら、ベルをつかって遠慮なくお申し付けください。どうかくれぐれも、無理はなさらずに」
そうさらりと言って、部屋を退がってしまう。
気配りの優れた彼女は、やはり空気を読むのも上手いようだ。押し付けがましさのないそれを有り難く受け取ったカレンは、言いつけどおりに一日をベッドの上で過ごすことにした。
幸いにも熱がぶり返すことはなく、それでも体調は万全ではなかったようで、寝たり起きたりを繰り返した。途中でセオドアが迷惑なことに見舞いに訪れたが、幸いにもカレンの顔色を読んだマチルダが追い返してくれた。
領主として尊敬し使用人として心から仕えているが、カレン付きになった以上、なによりカレンの意思が優先されるらしい。
領主に対してそれで良いのだろうかと思ったが、そもそもカレンは客人としての預かりで、であれば礼儀を尽くすのが普通なのだと言う。いくらカレン本人が望んだことであっても、使用人の立場に置くなど言語道断で、その一点においてマチルダのセオドアに対する評価は辛かった。
「いまだに家令の変更も考えておられないようですからね。内乱という理由がございましたし、ひと月の不在は已むを得ませんが、その間に領主館を任されたジョージがあの有り様でございましたでしょう? 馘首は出来ずとも、なにがしかの罰則はあってしかるべきです。だと言うのに旦那さまがそれをなさらないのは、あまり褒められた振る舞いではございません」
きっぱりと言うマチルダに、カレンは首を傾けた。
「でも家令って、使用人たちの纏め役でしょ? 急に人を代えてしまったら、色々と不便なんじゃないかしら」
「その不便をどうにかするのも領主のお役目でございます。とは言え……旦那さまは後継として育てられておらず、ご自身も中継ぎという意識が強くていらっしゃいますからね。様々なことに目が届かず、不足があるのは仕方のないことではあるのですが……」
「ろくに引き継ぎがなかった、って誰かが噂しているのを聞いたことがある。私は領主の仕事がどんなものか分からないし、興味もないけど、大変だっただろうことは想像つくかな」
カレンがぽつりと言うと、マチルダは僅かに目を伏せた。
「……旦那さまが後を継がれたのは、大変間の悪いことにアシェルドが荒れた頃でございました。急な代替わりも不安定さに拍車をかけ、騒乱は今も尾を引いております。それを抑えながら、竜人を蛮族と蔑む王都の者たちとの折衝、森の災いものへの対処、それ以外の領内の揉め事も収めなくてはなりません。私たちがお助けしようにも、手を出してはならないことは多うございます」
それは例えるなら、いきなり市長や知事になれと言われたようなものなのだろう。
カレンがもしそんな状況になったなら、まず間違いなく逃げ出している。それを正面から受け止めて領主として頑張っているのだから、セオドアは真面目で責任感が強い人物であるに違いない。
だからと言ってカレンを不遇の立場に放置したことを許す気はないが、危険な森まで助けに来てくれたのだし、彼に対する評価は改めても良いかもしれない。
もちろん、ほんの少しだけだが。
夜になって草の香りのする薬湯を飲んで、マチルダから大人しく眠るようこんこんと言い含められ、カレンは引き続きのベッドの住人となった。とはいえ丸一日ベッドの上にいて、薬湯のおかげで体調不良が改善されたこともあって、まったく少しも眠気が訪れてくれない。
意味もなく寝返りをうったり、天井の装飾を目で辿ってみたりしたが、却って目が覚めるばかりだった。
カレンは一時間ほどベッドの上でうだうだしていたが、ついには眠るのを諦めてベッドから抜け出すことにした。
(ここ最近はまともに眠れてなかったし、もしかしたら身体が不眠に慣れてしまったのかも。昨日は気にする余裕もなかったけど、柔らかいマットレスは、なんだか身体に合わない気がするし。……長椅子の方が、案外寝心地が良かったりして)
そう自嘲ぎみに考えながら、カレンは音を立てないように掃き出し窓を開けてバルコニーに出た。
ここから逃げ出すときには気づかなかったが、白い石造りのバルコニーは思いの外広さがある。隣の客室とは繋がってはいないが、反対側のバルコニーガーデンには、そのまま出られるようになっているらしい。
太くて頑丈そうな手すりには、等間隔にランタンが置かれていて、足元が危なくない程度の明るさがある。外は肌寒いというより寒いくらいだったが、カレンは構わずに手すりに凭れかかった。
ひんやりと冷たい石の感触に息を吐く。
今は熱が出ているわけではなかったが、目の覚めるような冷たさが心地良かった。
しばらくそうしていたカレンだったが、ふと聞こえてきた声にがばりと身を起こした。
風に乗って聞こえてきたそれは、多分フレッドの泣き声だ。時計がないから正確な時間は分からないが、おそらく寝入ってすぐの頃合いだろう。ひと月ほど子守りをしてきた経験から言うと、フレッドはこの時間帯に一番酷い泣き方をすることが多かった。
カレンは思わずフレッドの部屋に向かおうとして、すぐに思い直して足を止めた。
カレンは既に子守りの役目を解かれて、今はセオドアの宝であり客分という預かりだ。そんな存在がフレッドの元に駆けつけたら、却って迷惑をかけることになる。それにフレッドは次期ご領主さまで、その叔父であるセオドアもいるのだから、カレンが出向かずとも有能な使用人がどうにかしてくれるだろう。そしてそう考えたとおり、しばらくもしない内にフレッドの泣き声は聞こえなくなった。
寝かしつけの上手い使用人か、もしかしたらセオドアが泣き止ませたのかもしれない。
そうほっと安堵したのも束の間、しばらくするとまたフレッドの泣き声が聞こえてきた。火のついたような泣き方は、ひどいと明け方まで繰り返すことがあるそれだった。
世話をする者の苦労は正直どうでもいいが、泣き続けて疲弊していまうだろうフレッドが哀れだった。
カレンは寒々としたバルコニーをしばらく行ったり来たりしていたが、ついには心を決めて部屋に引き返した。
クローゼットを漁りニット地の羽織ものを拝借すると、物音を立てないよう気をつけながら部屋を後にした。
勝手知ったるなんとやら、で使用人用の通路から中庭に出る。そして向かったのは以前、妖精ブラウニーらしき彼から教えてもらった木の裏手だった。
(あった……! でも、不思議。この寒さなのに、全然枯れていないのね……)
白くて可憐な花は、以前と変わらず美しく咲いている。ほっとしながら数輪摘んでいると、ふと視界の端に過ぎるものがあった。
目を上げるとそこにいたのは妖精ブラウニーで、カレンが手を振ると担いだスコップを持ち上げて応えてくれた。そのことに小さく微笑んで、カレンは摘んだ花を持ってきたハンカチに包んだ。
細く泣き声がする方をちらと見れば、フレッドの部屋には薄く明かりがついているのが見えた。
フレッドの面倒を見ている誰かが、室内にいるのは間違いないだろう。それが見知った相手だとして、だが果たしてカレンがこの花を持っていって、夜泣きに効くと言って信じてもらえるだろうか。むしろ危害を疑われる可能性もある。
カレンは短くない間考え込んでいたが、まあ今更なにを思われようともどうでもいいか、という適当さで中庭からフレッドの部屋を覗き込んだ。
室内はほのかに明かりが灯されていて、中にいる人影が見える。背がすらりと高く、特徴的な金褐色の髪を見るにセオドアだろう。
使用人ではなかったことにほっとしていると、カレンの気配に気づいたのかセオドアが振り返った。
「カレン……?」
驚いたように目を瞠ったセオドアが、足早に近づいて窓を開けてくれる。彼は吹き込んで来た風の冷たさに顔を顰め、慌てた様子で室内に入るようカレンを促した。
暖炉の側にカレンを座らせて、セオドアは狼狽えた声で言った。
「カレン、なぜこんな時間に中庭にいたんだ。災いものに損傷を受けて、熱が出たばかりなのだろう? 安静にしていなければ身体に障る。頼むから無理をしないでくれ」
「それなら、もう平気。貰った薬湯のおかげで熱は下がったし、寝過ぎなくらいにたっぷり寝たから。それよりもフレッドが泣いてるのが聞こえてきて、余計なお世話かと思ったんだけど……どうしても気になって」
カレンが眉間に皺を寄せて言うと、セオドアは虚を突かれたような顔になった。小さく溜め息を吐く。
「……そうか。すまない、泣き声がしていては眠れなかっただろう。どうも機嫌が悪いようで、寝かしつけてもすぐ目を覚ましてしまう。使用人の手を借りられれば良かったのだが、その……色々あって人手が足りていない。フレッドに付けていた使用人は、ほとんど辞めてしまったからな」
「……それって辞めてしまった、じゃなくて辞めさせたって言うんじゃないの? そんなふうなこと、昨日家令と話してたでしょ」
「まあ、そうとも言うかもな」
苦笑して肩を竦めたセオドアに、カレンは白けた目を向ける。
カレンに使用人をつけるにあたって、セオドアが彼らを改めようとしていたことは、彼が家令と話すその場にいたから知っている。そして選定から弾かれた者が、どうなるのかもその話しぶりから容易に想像がついた。
さらに言えば、カレンに対して積極的に害意を振りまいていたのはフレッド付きの使用人たちだったのだ。その彼女たちが揃って馘首されたなら、フレッドの世話に手が回らないのも当然だろう。
とはいえこのことに関して、カレンには一切の非がない――はずだ。アシェルドに来ることになったのはこの国の人間のせいだし、それを厭ってカレンに嫌がらせをしたのは竜人たちだ。もちろん向けられた害意のいくらかは、カレンがなにも出来なかったせいもあっただろう。しかしだからと言って、他人の食事を駄目にしたり、ベッドに鼠の死体を入れて良いことにはならない。
使用人たちが馘首されたのは、彼らの自業自得である。しかしそれはカレンがアシェルドに来たから起きたものごとで、それによってフレッドに不都合が起こったと思うと、どうしたって罪悪感を覚えてしまう。
カレンは顔を顰めると、先ほど摘んだ花をハンカチごとセオドアに差し出した。セオドアが戸惑ったふうの顔になる。
「カレン、これは……?」
「少し前に、ここの庭師に教えてもらったの。この花が竜人の夜泣きに効くんですって。時間が無かったからハンカチで包んでるけど、もしサシェにするなら他の誰かに頼んでやってもらって。私はそんなに器用じゃないから」
花を渡して話を切り上げようとしたカレンだったが、セオドアは引き止めるように疑問を口にした。
「庭師? それは……フローレンスのことだろうか」
「さあ、名前は聞いてないから知らない。それに女性ではなかった――というかそもそも人じゃなかったし。私の半分もないくらい小さくて、鳥の羽が付いた中折れ帽を被ってた。私のいた世界にも、ああいう姿をした妖精がいて、ブラウニーって呼ばれてたの。その絵姿と似てたから妖精なのかな、って思ってたんだけど……」
違うのだろうか、と首を傾げたところでセオドアがカレンの肩をがっしと掴んだ。
「まさか、きみは庭妖精に会ったのか? しかも話をしただと?」
心底驚いた声で言われて、カレンは目を瞬かせた。こくりと頷く。
「あ、うん。会ったし、話もした。……もしかして、良くないことだった?」
悪い妖精が親切なふりをして人を騙して馬鹿にする、という御伽話があることはカレンも知っている。
もしや、あの妖精もその類だったのだろうか。
だが泣いていたカレンを慰めてくれて、フレッドに愛情を傾けている様子を見るに、あの彼がそんな意地悪をするとは考えたくなかった。
思わず眉根を寄せてしまったカレンに、セオドアは小さく首を横に振った。
「……いや、そうではない。むしろ良いことだ。庭妖精は家につく祝福と言われている。滅多に姿を現さず、庭に残る足跡を見た者には幸運が訪れる、と言われるほど彼らは稀な存在なんだ」
「そうなの? でも明け方ごろに良く見かけるし、さっき花を摘んでる時にも見かけたけど。フレッドの子守りをしてたら、時々様子を見に来て手を振ってくれるから、そんなに珍しい存在でもないんじゃない?」
そう返したカレンに、セオドアが驚愕の顔になる。彼は口を閉じたり開いたりを繰り返してから、慎重な口ぶりで言った。
「……カレン。きみが嘘をつくような人ではないのは分かっている。だが、もう一度聞かせてくれ。きみは庭妖精と、話をしたんだな? そして、度々その姿を目にしている、と」
「うん、話をしたし見かけてもいる。じゃなきゃ見ず知らずの土地で、夜泣きに効くっていう花のことなんて分かるわけがないでしょ。あの妖精も、花を知る竜人はいなくなった、って言ってたし。もちろん、他に知っている人がいる可能性はゼロじゃないだろうけど……」
「…………そうか。だがファーブニル家に残る記録では、庭妖精を見かけた者はいても、話をしたという者はいないんだ。そもそも彼らは気まぐれに訪れることはあっても、我々に語りかける存在ではない、と言われている。彼らは物言わぬ隣人なんだ」
「そんなこと言われても、私とは普通に喋ってたもの。フレッドの事情も把握してて、家族を亡くして可哀想だ、って言ってた。その語りかける存在ではない、って言うのは単に話を聞く人がいなかっただけじゃないの? だってこの世界は森の狼だって喋るんだし、妖精が喋ったって不思議じゃないでしょ」
そう言うとセオドアは、とうとう頭を抱えてしまった。
呻くように言う。
「――待ってくれ。森狼が、喋っただと?」
「たどたどしい喋り方だったけどね。森の災いものが来る、って騒いでた。……あれ、くろいわざわい、だったかな……」
狼たちはカレンを見て逃げ出してしまったが、彼らが騒いでくれたおかげで、森の災いものに気づくことができたのだ。あと数歩でも側に寄っていたら、カレンはあれに飲み込まれていたかもしれない。
彼らも命の恩人だ。できればお礼を言いたかったが、逃げたときの様子を見るにそれは難しいだろう。
残念だな、と思っているとセオドアが苦り切った低い声で言った。
「カレン、森狼は喋らない。吠えるだけだ」
「……なによそれ。もしかして、私のことからかってる? 確かに吠えてもいたけど、ちゃんと喋ってた。それにあの子たちが教えてくれたから、私はあの災いものに近づかずに済んだのよ」
「ああ。きみがそう言うなら、そうなのだろう。……だからこそ、ひとつ確かめたいことがある。きみはついさっき庭妖精を見かけた、と言っていたな。それは、どの辺りのことだろうか」
そうセオドアに問われて、カレンは唇に指を当てて考え込んだ。
「……ええと、庭の灌木が並んだ近くに、ひときわ背の高い木があるのは分かる? 私の肩くらいの高さから枝分かれしてて、上の方の枝が細く伸びてる木」
「それならロトスだな。春になると薄紅色の花を咲かす木だ。ファーブニル家に生まれた男児は、みなあの木に登って、登りきれずに落下する。兄も私もそうだったし、父や叔父もそうだったらしい。おそらくフレッドもそうなるだろう」
それを微笑ましいと言っていいのか微妙なところだが、確かに幹が太く枝分かれの多い木は登るのに向いてそうだ。
カレンは今よりも大きくなったフレッドが、一生懸命に木登りする様子を想像してから小さく頭を振った。
話が妙な方向にずれてしまった。
「そのロトス? という木の裏に、白い花が咲いているのは知ってる? さっき渡した夜泣きに効く、っていう花がそれなんだけど、庭妖精ならその花が咲いているところで見かけたばかりよ」
「……今もそこにいるだろうか」
「それはなんとも言えないけど、可能性は高いんじゃないかな。見ていた感じ、仕事をする範囲はその日ごとに決めてる感じがしたし」
「では、カレン。庭妖精の話が聞きたい。すまないが、付き合ってもらえるだろうか」
「それは構わないけど、フレッドはどうするの?」
ようやく眠ったところなのに、抱き上げて庭に出るのは可哀想だ。かと言って、部屋にひとり置いていくわけにもいかない。
どうしたものかと悩んでいるカレンを他所に、セオドアがベルを鳴らして使用人を呼び出した。
まだ年若い少女といった見た目の彼女にフレッドを任せて、セオドアはカレンの手を引いて中庭に出る。そして件の木の側、白い花が咲いている近くで立ち止まると、セオドアは周囲を見回してから首を傾げた。
「……この辺りだろうか」
「ああ、うん。さっきこの近くで見かけて……あ、ほら、あそこに帽子が見える」
カレンが指差した先、灌木の向こうに濃緑色をした中折れ帽が見える。歩くのに合わせてひょこひょこと揺れるそれに、隣のセオドアが小さく息を呑むのが分かった。
そのまま動けないでいるセオドアを置いて、カレンは庭妖精に声をかけた。
「ねえ、親切な妖精さん。ちょっと話をしても良い?」
そう呼ぶと庭妖精が足を止めた。
彼は灌木をがさごそと掻き分けて近くまで来ると、曲がった帽子のつばを直しながらセオドアを見上げた。髭もじゃの口元をもさりとさせて言う。
「ほうほう、小さいほうの坊ちゃんが庭に来るとは珍しい。おまえさんは、なかなか面白い縁を持っとるなぁ」
「面白いかは分からないけど、奇妙な目に逢ってるのは確かかな。それよりも、この間は花のことを教えてくれてありがとう。おかげでフレッドの夜泣きがなくなったの。だからあなたにお礼を言いたかったんだけど、ちょっとタイミングが合わなくて」
「なぁに、礼なんて気にすることはない。赤ん坊の面倒を見てるんじゃあ忙しくて当然だろうからな。それに儂らの大事な坊ちゃんのためになったならなによりだ」
慈愛の籠った物言いに、カレンは思わず頬を綻ばせる。
ふと隣にいる存在を思い出して視線をやったが、彼は庭妖精との会話をカレンに任せる腹づもりらしい。
わざわざ会いにきたのだから、なにか聞きたいことでもあるかと思っていたが、そういう訳ではないようだ。
カレンはちょっと首を傾げてから、庭妖精に視線を戻した。
「でもね、出来たらあなたにお礼をさせて欲しいの。それでちょっと聞きたいことがあって。私の故郷では、あなたのような妖精にお礼をするお作法があるの。だから、もしかしたらあなたたちもそうなのかも、って思ったんだけど……。もし、そういう約束ごとがあるなら教えてもらえないかな」
カレンがそう問いかけると、庭妖精は髭もじゃの顔を嬉しそうに綻ばせた。
「おまえさんはお客人だが、なかなか物の道理を知っとるようだ。――そう、確かにお礼ひとつにもやり方がある。まず言っておくと、儂らは冷たいミルクと、バターたっぷりのパンが好物だ。だが儂らは捻くれ者だから、お礼にと言われると受け取りたくなくなる」
「――なるほど。それじゃあ、ミルクとバターたっぷりのパンは、中庭の屋根があるところに置き忘れることにする。……ところでクッキーは好き?」
「それも大好物だ」
かなり前のめりに食いつかれて、カレンは思わず笑ってしまう。
カレンの家には秘伝のレシピがあって、そのうちのひとつがバターをたっぷり使うクッキーだ。もしセオドアから調理室を使う許可がもらえたら、それを作ってお礼にするのも良いかもしれない。
仕事があるから、と言って去っていく庭妖精を見送って、カレンはずっと黙ったままだったセオドアに視線を向けた。
「彼と話さなくて良かったの?」
訊くとセオドアは眉根を寄せ、それから深く息を吐いた。
「……彼がなにを話していたのか、きみには解ったんだな」
「分かるもなにも、普通に話してたと思うけど。……もしかして、違うの?」
「違うな。私には彼の話している言葉はなにひとつ理解できなかった。きみの話していることから、どんな会話をしていたのかは予想がついたが……」
おそらく、と言ってセオドアは難しい顔で続ける。
「きみが救世主として喚ばれたのは、それのせいだろう。つまりは庭妖精を容易く見つけてしまう目と、彼らと会話をする能力だ。国難に対する備えとして託宣が下されたのなら、近いうちにきみの力が必要になる事態が起こる、ということかもしれない」
仰々しい物言いに、思わず小さく笑ってしまう。
「まさか。ただ言葉が分かる、ってだけじゃない。確かに誰と喋っても困らない言語能力があれば、便利なことも多いかもしれないけど。でも、救世主と言うにはちょっと弱くない?」
人が竜の姿になって、庭妖精がいる世界なのだ。それを救うというなら、もう少し派手な能力が必要なのではないだろうか。
例えば凄い魔法が使えたり、冒険に出て大活躍出来るような剣の腕だったり、物語の定番といえばそういうものだろう。
元の世界に戻れないようなことをされたのだから、せめてそのくらい派手な能力が欲しかった。
カレンがそう主張すると、セオドアが微苦笑を浮かべた。子どもを宥めるような口調で言った。
「そう言いたくなる気持ちは分からないではないが、ただひとりが優れた武力を持っているだけでは国を救うことは不可能だ。その点、きみのその能力は局面を大きく変えることができる。特に外交の場においては、この上ない強力な武器となるだろう」
褒める口調に反して、苦々しい声と表情だった。
なぜだろう、とカレンは不思議に思ったが、その疑問を解消する事態が起こったのは、それから間もなくのことだった。
調理場の一角を借りて、マチルダと一緒に庭妖精へのお礼づくりに勤しんでいると、ふと周囲が騒がしいことに気がついた。なにかあったのか、使用人たちが落ち着かない様子を見せている。クッキー生地を混ぜながら訝っていると、すぐにマチルダが話を集めてくれた。
曰くアシェルドに少なくない数の難民が押し寄せているらしい。その一団が町外れの集落に押しかけてきていて、どう対処すれば良いのか、集落の長が判断を仰ぎに来ているそうだ。
「難民、って……まさかどこかで戦争でも起こったの?」
天板にクッキー生地を並べていたカレンは、顔を青くして問いかける。マチルダはこくりと頷いて、手を止めてしまったカレンの代わりに、天板をオーブンに入れながら言った。
「噂を聞いただけですので、事実かどうか定かではございません。ですが、どうやらこの国の王都に襲撃があったようでございますね。逃げてきた者が言うには、人でも魔物でもない者に襲われたのだとか」
「……それって、森の災いものみたいな?」
「可能性はございます。ですが噂話を聞いた限りでは、襲撃者は知性を持った者、というような気がいたします。見識のない種族に襲われて、恐ろしいもののように見えた、ということもあり得るでしょう」
マチルダに差し出された布巾で手を拭きながら、カレンは慎重に問いかけた。
「……この世界って、人と竜人や人狼、妖精以外にもそういう種族がいるの?」
「ええ、おりますよ。魔族の一部には人語を解しますし、そもそも妖精は種族として纏めるには、姿や生態が多種多様でございますからね。カレンさまが知己を得た庭妖精は、彼らが持つ姿のほんの一部です。例えば四つ足の獣であったり、妖艶な美女であったり、ひと口で説明するのは難しゅうございます」
なるほど、と頷いたところで俄かに調理場の入り口が騒がしくなった。
そちらに視線をやると、ちょうど家令のジョージがやってくるところだった。
カレンとしてはあまり良い印象も持っていない相手だが、漏れ聞こえる噂話によると仕事は素晴らしくできるらしい。その彼は感情の読みにくい微笑みを浮かべると、恭しく頭を下げてから言った。
「カレンさま。お忙しいところ大変申し訳ないのですが、旦那さまがお呼びでございます。緊急に、見ていただきたいものがある、と」
「――私に?」
「ええ。カレンさまなら、必ずやお力添え頂けると仰せです。さあ、どうぞ。エプロン姿のままでも結構ですから、お急ぎください」
有無を言わさないその口調に、カレンは思わず渋面になる。
家令のジョージはカレンに対して、大上段からの物言いをすることが多かった。
口ではカレンを領主の宝と言いながら、内心では舌を出しているような口振りには辟易させられている。はっきり言って、気に食わない相手だ。
客人として滞在している以上、当主であるセオドアの呼び出しに応えることは吝かではない。だがジョージに命じられて、というのがどうにも釈然としなかった。それになにより、オーブンにクッキー生地を入れたばかりだ。
せっかく作ったものを焦げつかせたくない。そう思ってマチルダを見ると、彼女はにこりと微笑んでみせた。
「オーブンは料理人に任せれば、問題なく焼き上げてくれるでしょう。ここの料理人は腕が良いですからね。どうぞご心配なく。それよりもカレンさまのお手を煩わせるくせに、それを悪いとも思っていない者がいることが嘆かわしいですわね」
とても分かりやすく当てこすったそれに、今度はジョージが渋面になる。
「……マチルダ。少々言葉が過ぎるのではないか?」
「まあ。私は誰が、とは申しておりませんよ。あくまで一般論を口にしたまででございます。それともジョージは、カレンさまに対して、そのような心当たりがおありなのですか?」
「まさか、ある訳がないでしょう。カレンさまは旦那さまの宝ですよ。ですから無闇やたらと距離を近くするあなたと違い、私はきちんと身のほどを弁えております」
「身のほどを弁える? あらあら、まったく笑えない冗談でございますね」
その口調こそ穏やかで丁寧だが、ふたりの間には張り詰めて切れそうな一触即発の空気がある。
どうやらカレンは諍いの口実か材料にされているらしい。喧嘩をするのは好きにすれば良いが、巻き込まれるのはただただ迷惑なだけだ。
カレンは溜め息を吐くと、ジョージをちらと見て言った。
「ねえ。緊急に、って言ってなかった? そうじゃないなら、クッキーが焼き上がるのを待っていたいんだけど」
ジョージがはっとする。棘の含んだ目でマチルダを見て、それから丁寧な口調で言った。
「いえ、お急ぎください。旦那さまが首を長くしてお待ちです」
カレンは肩をすくめると、エプロンは外してセオドアの待つ執務室に向かった。
初めて訪れた執務室は、南向きの窓から陽の差し込む居心地の良さそうな部屋だった。
壁の一面は本棚で埋まっていて、その反対側にマントルピースの装飾が美しい暖炉がある。暖炉の上には肖像画が掛けられていて、セオドアに面差しが似た男性と、けぶる金髪の美しい女性だ。
思わずまじまじと眺めてしまったカレンに、セオドアが絵画のふたりが先代領主夫妻、つまりフレッドの両親であると教えてくれた。そう言われてみれば、どことなくフレッドに似ている感じがする。
カレンは促されて応接椅子に腰を下ろし、テーブルを挟んだ正面に座ったセオドアに視線を向けた。
どことなく疲れた顔をしたセオドアが、溜め息混じりに言った。
「急に呼び出してすまない。迷惑をかけていることは承知の上で、きみに見てもらいたい物がある」
「王都からの避難民がいる、って聞いたけど……もしかして、その関係?」
「――耳が早いな。ああ、実はそのとおりだ。王都に襲撃が起こり、そこからアシェルドに逃げ延びた者たちがいる。きみに見てもらいたいのは、その避難民が持たされていた手紙だ。手紙――と言うよりも通告文だろうか。これを読んで、意見を聞かせて欲しい」
差し出された便箋らしき紙を受け取って、カレンは困惑に眉を下げた。
「読むのは構わないけど、私の意見は参考にはならないと思う。私は元の世界ではただの学生だったし、政治や紛争は専攻外だから、そういうことには詳しくないの」
それでも構わないから、と言うセオドアに溜め息を吐いて、カレンは手紙に視線を落とした。
手紙は強く握りしめられていたのか皺くちゃで、書かれた文字も所々が掠れてしまっている。それでも読めないほどではなく、カレンは文字を目で追った。
手紙に書かれていたのは、セオドアが言ったとおりの通告文だった。
盟約を交わした隣人であるはずの人間が、森の王である妖精の許しも得ずに木を切り倒し、森を拓いたことに対する抗議。そして森に棲む小さな者たちを手にかけたことへの怒り、それらについて復讐することへの正当性、それから反論や抗議の意思があれば膝を折って申し出るように、と古めかしい言葉で綴ってあった。
手紙の内容がすべて真実であれば、なるほど王都の人間はずいぶんと愚かな真似をしたらしい。これは言い訳のしようのない侵略行為だろう。
カレンが呆れた声でそう言うと、セオドアが苦り切った声で呻いた。
「……やはり、読めるのか」
「やはり? ……なによ、それ。まさか私を試したの?」
「そのつもりはなかったが、そうだな。結果的にそうなったことは否定しない。……その通告文は、我々には読めない文字で書かれているのだ。それを持っていた避難民もそう言っていたから、おそらく王都にも読める者はいないだろう。私はきみの翻訳能力が、文字にも適用されるか知りたかったのだ」
セオドアにそう言われて初めて、カレンは自身がすんなり文字を読めたことへの違和感に気がついた。
改めて手紙を眺めてみれば、そこに書かれているのは文字というより記号に見える。
母国語のそれとは似ても似つかない形をしているのに、だが目を滑らせれば何故か文章として理解できた。まるで誰かの目を通して物を見ているかのようで、そこに何がしかの思惑のようなものを感じてしまう。そのせいで知らない文字を読める便利さよりも、まず不気味さが先立った。
「え、なにこれ……すごく、気持ち悪い……」
思わず口元を押さえて言うと、セオドアが慌てたふうに立ち上がった。カレンの隣に腰を下ろし、手から通告文を取り上げて、視界に入らないようにテーブルの端に追いやってしまう。
彼は躊躇いがちに肩に触れ、それから気遣わしげな声で言った。
「すまない、カレン。文字を読むことで、きみに負担がかかるとは思ってもみなかったんだ。本当にすまない。具合が良くないなら、これ以上は無理をする必要はない。部屋に戻って――いや、それだと歩いて移動する必要があるな。ならば私が運ぼう。隣に仮眠用の寝台があるから、とりあえずそこに――」
なにやら大慌てで甲斐甲斐しさを発揮しているセオドアに、カレンは驚いて目を瞬かせてしまう。だが背後でマチルダが小さく咳払いをしてくれて、それではたと我に帰った。
「……ええと、あの、気を遣ってくれるのはありがたいんだけど、別に具合が悪い訳じゃないの。文字が読める理屈が分からなくて不気味、とか居心地が悪い、みたいな感じを気持ちが悪いって言っただけだから。だから、その、ちょっと落ち着いてくれるかな」
言って伸ばされた手をやんわり押し返すと、セオドアが困ったように眉を下げた。行き場の失くなってしまった手を下ろし、ほっとしたような、それでいて不安そうな複雑な声で言う。
「…………そうか。具合を悪くした訳ではないのか。それなら、良かった。以前に森の災いものに遭遇した後、きみは倒れてしまっただろう? その時のことが頭を過って、居ても立っても居られなくなってしまったんだ。……きみになにかあったらと思うだけで、みぞおちの辺りが締め付けられるような思いがする」
それとこれとは状況が違うのではないだろうか。思わず遠い目になってしまったカレンに、背後のマチルダが呆れを含んだ声で言った。
「竜人が宝に対して過保護になるのは、本能のようなものでございます。カレンさま。鬱陶しく思うかもしれませんが、どうかそういうものとしてご理解くださいませ。私の母も、父のそのような振る舞いを諌め、上手に躾けてございます」
森狼であるマチルダの母は、鬱陶しさに耐えかねると狼の姿になって夫に噛みつくらしい。カレンさまもそうなさっては、とにこやかに勧められたが、それはさすがにちょっと、と辞退しておいた。
動揺したセオドアとマチルダの軽口のおかげでその場の空気が緩んで、それを取りなすようにジョージが茶を用意してくれる。
温かいお茶でほっとひと息吐いたところで、何故か隣に座ったままのセオドアが生真面目な顔で言った。
「それで通告文の内容だが、我々に対する要求などはなかったのだろうか」
あまり距離が近いと居心地が悪いな、と思いながらカレンは首を横に振る。
「無いと思う。ただ……私は文章が読めるだけで、手紙を書いた側の文化や風習が分かるわけじゃない、ということは頭に置いておいて。庭妖精へのお礼みたいに、その種族が持つルールがあったらお手上げだから」
「なるほど。確かに、そのとおりだ。通告文の主は森の王、だったか。……マチルダ、きみのご母堂になにか伝手はないだろうか」
問われたマチルダが首を横に振る。
「大変申し訳ありませんが、母ではお力にはなれないと存じます。私の母は森の住人ではありますが、妖精とはあまり縁がございません。それにひと口に森の住人と言っても、土地を別にすれば外国のようなものです。……王都の方々が切り拓いたのは、アシェルドとは無関係の土地なのでございましょう?」
「ああ。アシェルドから見て王都の向こう側、ハダンという土地の西方に広がる深い森だ」
言ってセオドアは溜め息を落とした。
「もし新たに農地を広げようとして、森の災いものが出るアシェルド側には手を出せない。過去にそれをやらかして、手痛い目を見ているからな。おそらくは、それでハダン一帯に目をつけたのだろう。通告文を見るに、森に対する不可侵の盟約を結んでいたらしい。だが王都の人間は、それを無視したか忘れたのかもしれないな」
土地に関する取り決めには、思いもよらぬ落とし穴が隠されていることが多い、とセオドアが言う。なんの変哲もない穏やかな森に見えても、恐ろしい妖精の棲家だったり、獣人の縄張りだったりするのだそうだ。
そこに手を出せば当然、土地の占有を主張する彼らに噛みつかれることになる。だから森に手を入れる際は、彼らと意思疎通が図れる者や魔術によって、事細かな誓約を交わしておくものらしい。
「その手間を惜しんだ可能性が高い。それによって王都の人間が滅ぶのは自業自得だが、過去に交わしたらしい盟約の範囲がどこまでなのかが気になるな。アシェルドに及ばなければ良いのだが……」
そうセオドアが懸念したとおり、森の王の使者を名乗る者がアシェルドを訪れたのは、それからしばらくしてのことだった。
腰の辺りから蜻蛉に似た羽を生やした彼らは、これぞ妖精とイメージするとおりの美しい容貌をしていた。
濃い緑の瞳は森のそれで、大地のような深い土色の髪を背に流している。人ではあり得ないほど顔貌が整っていて、発する声は並の歌手では表現できない音の豊かさだった。
聴くものすべてを畏怖させて、同時に心酔させ服従させる声だ。
彼らとの通訳として会談に参加していたカレンは、真面目な顔の裏でその声に聴き惚れていた。
その美しい声が語ること曰く、彼らは国内で土地を治める者たちを訪れ、自身の行いの正当性を報せて回っているらしい。国を治める王とその一族を廃したので、今後は代わりの者を玉座に据えるか、森の王を支配者として受け入れるか、のどちらかを選ぶように、というのが彼らの主張だった。
そしてセオドアが選んだのは、そのどちらでもなかった。
セオドアは王族が斃れたことを幸いに、従属契約を破棄しアシェルドの独立を求めたのだ。
なんでもファーブニル家の始祖はかつて、宝である王族の姫を得る代わりに、アシェルドに現れる災いものを抑える役目を任じられたらしい。だがそれは廃された王族との契約であり、王族の交代がなるならそれを期に無効として、自治区としての独立を認めて貰いたい。
そもそも人が起こした今回の不調法は、竜人とはまったくの無関係である。そう堂々と主張したセオドアは、どさくさ紛れにアシェルド独立を勝ち取ったのだった。
森の王の使者は、実に興味深い交渉だった、とカレンを見て面白そうに微笑むと、蜻蛉のような羽を広げて飛び去って行った。
宿願だった独立を果たし、領主ではなく自治区の長となったセオドアは、カレンに向かって晴々とした笑みを向けた。
「なにもかも、きみのおかげだ。きみがアシェルドにいなければ、使者どのと交渉することは叶わなかっただろう。どころか、彼らの刃がアシェルドに向けられた可能性もある」
「使者に刃向かった領主とその土地は、ことごとく滅ぼした、って言ってたものね。……次の王様になれるような人材、いるのかな」
「彼らに滅ぼされず、残っていることを願うしかあるまい。もっとも、彼らがその選択肢を提示したからには、相応に見どころがある者もいたのだろう」
そうセオドアが言ったとおり、しばらくしてから国には新たな王が立ったようだった。
親書にて届けられた知らせによれば、新たな王は国王ではなく女王で、母親が妖精の取り替え子であったらしい。半分妖精の血を引いたその人は、森の王と意思疎通を図ることができて、それが選定の決め手になったようだった。
女王は即位の際に前王との繋がりや痕跡の一切を消し去り、ハダン侵攻の仕掛け人だった救世教会を潰し、最後には国名をも改めた。
これは予言を成就させることによって、新たな災いが起こるのを避けるものであるらしい。
つまり託宣の予言は過たず、救世主を失った国は滅びた、ということになるそうだ。
親書を携えてきた使者曰く、それはとても妖精らしい解決方法であるのだと言う。そして元救世主となったカレンはと言えば、自治区となったアシェルドでそれなりに健やかに暮らしている。
人に対して良い感情を持っていなかった竜人たちは、だが多くの避難民を受け入れることによって、その排他的な考え方を少しだが変えるようになった。
なんでも故郷を追われ行く宛を失くした避難民たちに、哀れみと庇護の欲求を覚えてしまったらしい。
弱いものを守ろうとするのが竜の本能で、遠い祖先が持っていたそれをいたく刺激された、というわけだ。おかげで副産物的にカレンに対する当たりも弱まって、近頃ではマチルダ以外の者とも話ができるようになった。
次期自治区長となるフレッドはすくすくと育ち、家令のジョージは相変わらず性格が悪い。そしてセオドアは、自治区となったアシェルドの統治に忙しくしている。
アシェルド独立は竜人たちの悲願で、そのこと自体は歓迎されてはいるものの、だからと言ってすべて順風満帆とはいかないようだった。
自室に戻る余裕もなく談話室でぐったりしているのが哀れで、カレンは気が向いた時に傍で歌ってやっている。
カレンの歌にセオドアが目を輝かせて喜んでいるのを見ると、元の世界に帰れないことへの怒りと悲しみが、少しずつ癒えていくような気がする。
こんなふうに暮らしていけば、いつかはこの世界で心からの幸せを感じられるかもしれない。
故郷を想うオペラを歌いながら、カレンはようやくそんなふうに思った。
妖精の由縁が深い土地の片隅には、アシェルドという名の土地がある。
竜人が治めるその土地には、中興の祖と呼ばれる長の逸話が、山のように残されている。中でも親しみを込めて語られているのは、彼の宝であり細君である夫人との逸話だろう。
なんでも細君はここではないどこかの世界から来た異邦人で、この世界のことはなにひとつ知らなかった。
竜にとっての宝がどれだけ重要なのか理解できず、そのせいで彼と歩み寄るのに長い年月を必要とした。だが様々な問題を共に乗り越え、時には派手に喧嘩をしながら徐々に互いの距離を近づけて、ついにふたりは伴侶となったのだ。彼は宝である細君を慈しみ、甥が跡を継ぐまで長く善政を敷いた。
彼が彼女のために設えた音楽演奏室には、ありし日のふたりを描いた肖像画が今も飾られているという。
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