第三話 『今の現(おつつ)』2
第三話 『今の現』2
午後の陽が教室の窓から斜めに差し込んで、学生たちの横顔を照らす。そのきらきらとした暖かな輝きの中で牧村はさらに言葉を重ねた。
「だから、万葉の時代は好きな人と一緒にいるときは『恋』とは言わない。現代みたいに、相手に面と向かって『あなたに恋している』とは言わないのよ」
自分を見詰める若い学生たちに微笑んでから、牧村は言葉を継ぐ。
「『恋』という言葉を万葉仮名で書くと、『古非』と書く例が圧倒的に多いわ。でも、言葉の意味を込めてこんな書き方をすることもあるのよ」
牧村は黒板に大きく「孤悲」と書いた。
「一人きりで相手を想ってその不在を悲しむ――『孤悲』」
黒板に書かれたそのふた文字の余韻が消えたのを見計らうと、牧村はその日の教壇往復旅行を終えて正面に向き直った。少し目尻の下がった、それだけに愛嬌のある顔で教室内を見回してから、大きな笑みを浮かべる。
「ついでに言うと『孤』は『コの甲類』、『悲』は『ヒの乙類』よ。こんなことは、ここにおいでの皆さまは先刻ご承知でしょうけどね」
牧村が言うと、皮肉もほがらかなジョークに聞こえてしまう。教室内に起こった笑いに重なって、終了時間を告げるウェストミンスターの鐘が鳴った。
「あー疲れたぁ」
教室を出るやいなや戸田航は大きく伸びをした。
明るい色をした柔らかな長髪をかきあげながら、戸田は隣に立つ友人を見遣る。戸田の横には、瑞穂たちと同じ日本文学科の大学院生である佐竹明彦が立っていたが、佐竹の方は今の講義のノートチェックに余念がなく、少なくとも戸田には注意が向いていない。
戸田も佐竹に向かってというより誰に言うともなく言葉を続けた。
「牧村先生の授業ってすごく面白いんだけど、終わるとどっと疲れが来るんだよね」
あたりをはばからぬ戸田の大声に、教室から出てきた学部生らしい女子学生たちが忍び笑いをもらした。
「あきれた。なんてこと言うのよ」
振り向くと、富岡美樹がきれいな顔を思い切りしかめている。
「だって美樹ちゃん、すっごくおいしい料理だけど、もうお腹いっぱいですって感じになるんだもん」
言い訳めいた口調で言うと、戸田は美樹の表情をうかがうようにその顔を覗き込んだ。
「これ、別にけなしてるんじゃないよ」
「戸田君は牧村先生の授業がどれほど得難いものなのかわかってないのよ。他の先生たちをごらんなさいよ。学生の顔なんか見もしないでボソボソ話すだけだったり、十年一日まったく同じ内容でジョークさえ同じ。もっとひどいのは自分が書いた研究書を棒読みするだけっていうのさえ。これって授業だと言える?」
見かけの愛らしさとかけ離れた、美樹のこの歯に衣着せぬ物言いが下級生、殊に女子学生の間でまことに受けが良い。
大学一の美女との呼び声が高い美樹であるが、この毒舌のせいか、美樹の周りを囲むのは男子学生より女子学生が圧倒的に多かった。
加えて美樹といつも一緒にいる同期の香川瑞穂が、ほっそりとした長身に切れ長の目という涼やかな風貌をしているものだから、男子は二次元に限ると思っている系の女子がさらに集まってくる。
頬を紅潮させて言い募る美樹に対して、戸田はあくまでもにこやかだった。
「それは僕も同感だね。学生に教えようという気組みが牧村先生と他の先生とでは全然違う。牧村先生は最新の研究もわかりやすく噛み砕いてくれるし、授業ごとにひとつのテーマが貫かれていて学生を飽きさせないものね」
急に真面目になった戸田の言葉に、美樹は勢いを削がれて口をつぐんだ。
「だけど、集中して聞いているだけに、お腹いっぱいになっちゃうのも事実なんだよ、美樹ちゃん」
その言葉に再び勢いを盛り返した美樹が、戸田をにらみつけた。
「戸田君に美樹ちゃん呼ばわりされる筋合いはないわよ。富岡さんと名字で呼んでちょうだい」
戸田を一蹴すると、美樹はちょうど教室から出てきた牧村に駆けよっていく。その後ろ姿を見送る戸田に瑞穂が微笑んで言った。
「だめよ、戸田君。牧村先生は美樹のあこがれの君なんだから。今日だって授業中何度もうっとりとため息ついてたわ」
「そりゃわかってるけどさ」
小学生のように唇をとがらせた戸田だが、思い出したように瑞穂に問いかけてきた。
「ところでさ、最後に先生が言ってた『甲類』だの『乙類』だのってなんのこと?」
その言葉に、周りにいた学部生たちが驚いた表情で一斉に戸田を見上げた。
「あれ、みんなが驚くくらい日文科にとっては常識だってこと?」
悪びれた様子もなく言う戸田に、学部三年生と思しき女子が目を丸くしたまま聞く。
「戸田先輩、ほんとにご存知ないんですか」
「うん。だって僕、理学部だもん」
周り中から歓声とも嬌声ともつかない声があがる。先ほどの女子学生の目がこれ以上は無理という程丸くなる。
「戸田先輩、日文の大学院生じゃなかったんですか。いつも佐竹先輩たちとご一緒だから、てっきり日文の先輩だと」
周りの学生たちが一様に肯く。女子学生は周囲の無言の応援に押されるように代表質問を買って出た。
「じゃあどうして、理学部なのにこの授業をとってらっしゃるんですか」
「そりゃあ美樹ちゃんがいるからさ」
戸田は、本人はけっして爆弾だと思っていない発言を、あっさりと蜂の巣の中に投げ入れた。周囲の歓声が悲鳴に変わった。その喧騒をものともせず戸田は嬉しげに続ける。
「美樹ちゃんがいるところなら、日本文学科の授業だろうとタガログ文学科の授業だろうと――」
「迷惑だわ」
厳しい声が割って入った。
「そんな気持ちで授業を受けるなんて、牧村先生に失礼極まりないわ」
目に炎を燃やした美樹が氷の女王のような表情で立っていた。ちょうど戻ってきたところに戸田の不穏な発言が耳に飛び込んできたらしい。
「それにさっきも富岡さんと呼べって言ったばかりでしょ」
「お望みとあらばそうするけど――でも、美樹ちゃん怒ってもきれいだね」
美樹が大きな目をぐるりと回して天を仰いだのと、皆の集まっている場に近付いてきた人物が吹き出したのとほとんど同時だった。
周囲の視線を一斉に浴びたその人物は下がった目尻を一層下げたまま取り囲む学生たちを見上げた。
「ごめんなさい。あんまり戸田君が正直なものだから笑っちゃった」
「先生、正直なんかじゃないですよ」
牧村の笑い顔に向かって美樹が大真面目に抗議する。
「デリカシーがないんです、デリカシーが」
「富岡さんでも振り回されることがあるのね」
その言葉に、白い頬を紅く染めて美樹はむきになった。
「そんな、先生。戸田君なんかに振り回されていません」
「ごめん、ごめん。悪かったわ」
まだ笑みを残したまま詫びる牧村に、表情を改めた美樹が尋ねた。
「それより先生、何かご用だったんじゃないですか?」
「そうそう、また忘れるところだったわ」
牧村は照れたような顔で周りの学生たちを見上げた。