第二話 『今の現(おつつ)』1
第二話 『今の現』1
大学は高台にあり、周囲を深い緑に囲まれていた。
緑で外界の喧騒と隔絶されているせいか、せわしない現代には珍しく、その校風は至ってのんびりとしている。
入学試験の厳しさ自体は他の有名大学に決して劣らぬが、学生の気質は全般的におっとりと穏やかで、経済界や政界を牛耳ろうという覇気にはいささか乏しい。
だがその分、合理性や経済性よりも真理を探究しようという空気をまだ色濃く残していた。
その大学の一隅で香川瑞穂は耳を澄ませた。
風の音を聞いたような気がしたのだ。だが、今日は朝から初夏を思わせる好天で、開け放たれた教室の窓からはカーテンを揺らす微風すら入ってこない。
奈良で生まれ奈良で育った瑞穂だが、大学は東京を選んだ。学部卒業後は大学院に進み、東京生活もすでに七年目を迎えている。
しかしその間、故郷にはほとんど足を向けていない。今年の春休みも帰らず仕舞いだったし、今週末に迫ったゴールデンウィークにも帰郷の予定はない。
だから、昨晩久しぶりに故郷の祖母から電話があった時は、さすがに気が咎めて常になく近況報告が饒舌になった。が、それを受ける祖母の声はいつも通り静かで、その内心を感じ取ることは微塵もできなかった。
ただひとつだけ違っていたのは、電話が切れる直前の祖母の言葉だ。健康を気遣ういつもの別れの言葉の代わりに、祖母は秘め事を囁くように瑞穂に告げた。
「風が山を降りた」と。
瑞穂が問い直す暇もなく、その言葉ひとつを置き去りにして電話は切れた。
今のは確かに風の音だった――それまで授業に集中していた瑞穂の意識がふと弛み、視線が宙に浮く。昨晩の電話のせいで聞こえた空耳だろうか。
思わず澄ました耳にまた風が囁きかける。
その風音にかすかに別の音が混じった。声のような音がきれぎれに聞こえて来る。途端、瑞穂の表情が、厳しい拒絶の色で引き締まった。
――聞かない。聞こえない。
瑞穂が凛とした瞳を正面へと戻したその時、隣席から小さな吐息が聞こえた。今度は間違いなく、現実の人間の洩らした吐息だった。
隣席にいる富岡美樹だ。瑞穂と同じ日本文学科の大学院生で、瑞穂とは学部に入学した時からの友人である。
瑞穂は美樹の横顔を窺い見た。かれこれ七年も日常的に見ている顔だが、それでも女性の瑞穂が見ても感嘆するほどに美樹は美しかった。
長い睫毛に囲まれた大きな瞳、形良くすっきり通った鼻筋、陶器のように滑らかな色白の小顔。それを栗色のロングヘアでふんわり包んでいる。
富岡美樹は本当にとてつもなく綺麗で愛らしい――ただし黙ってさえいれば。
授業に聴き入る美樹の薔薇の花びらのような唇が、何かを言いたげに小さく開く。男子学生の絶賛と妄想を誘うその唇から、またうっとりとした吐息が漏れた。その吐息に気付いた近くの席の男子学生が頬を赤く染める。
美樹の吐息の理由と熱い視線の対象を知る瑞穂は、思わずくすりと笑む。
そして、美樹とは対照的にごく短くカットした黒髪を、何かを払いのけるように一振りすると、瑞穂の意識もまた授業へと戻っていった。
教壇上で講義しているのは女性の講師だ。名前を牧村永遠子という。昨年この大学に着任したばかりの専任講師である。
専門は日本上代文学。その上代文学の中でも、今講義中の万葉集が牧村の専門分野だ。
童顔のせいか三十九歳と言う年齢よりだいぶ若く見える。醸し出す雰囲気も、大学の先生と言うよりも幼稚園の先生と言ったほうが似合っているが、学会では新進気鋭と呼ばれる期待の若手であった。
折しも講義は終了間際のまとめに入る頃合いで、牧村は外見に似合わぬ力強い声を豊かに響かせながら、身振り手振りを交えて教壇の端から端を往復している。この精力的な講義スタイルも牧村の特徴のひとつだった。
「最初にも言ったように、万葉集が編纂された奈良時代は一夫多妻制だったの。そのうえ、正妻であっても夫と妻は別々の家で暮らしていたのよ」
教壇を右から正面に向かってせかせかと横切りながら、目だけを学生たちにむけたまま牧村は続けた。
「夫も妻も、昼間はそれぞれの家で生活していて、夫婦が一緒にいられるのは夜だけだったの――太陽が沈んで夜が始まる。この夜の一番始まりの時間を『ゆふべ』と呼んだ。夫婦の時間の始まりよ」
表情豊かに牧村は続ける。この淀みない語り口と、授業とは思えぬほどドラマチックな構成力が牧村の最大の魅力であった。
瑞穂の専攻は万葉集ではなく神話であったが、それでも牧村の講義を受けるたびに万葉集の奥深さに改めて感じ入る。ましてや万葉集専攻である美樹は、去年の春に初めて牧村の講義を聞いて以来、牧村の熱狂的信奉者を声高に公表していた。
「『ゆふべ』に身支度を整えているうちに、周囲が暗さを増してくる。この時間が『宵』よ――『宵』を迎えると、男性は自分の家を出て女性の家へと向かう。これが『通い婚』という当時の結婚形態ね」
牧村のこの授業は日文科の三年生以上と大学院生のための選択科目だったので、このあたりの知識はみな了解済みのはずだ。それを確認するように教室を見渡す。
「『宵』のあとに続く『夜中』が夫婦の時間。そして夜明け前の一番暗い時間に男性は女性の家を後にする。これが『あかとき』と呼ばれる時間で、現代語の『あかつき』とは意味が随分違っているわ」
教壇を左へと移動した牧村の口調が少ししんみりと変化する。
「『通い婚』の時代は、正式な夫婦でさえ同じ家で一緒に暮らせるわけではない。だからなおさらに相手を求めて、その思いが歌となって迸ったのでしょうね。しかも一夫多妻の時代だから、夫が来てくれないのは他の女性の許へ行ってしまったからかと疑い悩む――辛いでしょうね。どんな時代であっても夫や恋人を独り占めしたい、他の人に盗られたくないと思うのは当然ですものね」
その言葉に何人かの女子学生が真剣な顔で肯いた。
「今日の授業で取り上げた歌はどれも、配偶者や恋人に逢えない切なさを歌ったものだったけれど、どの歌にも『恋』という言葉が使われているでしょう」
一様に肯く学生たちに牧村は向き直る。
「万葉集の時代の『恋』は現代とはちょっと意味が違うのよ。万葉の時代は、何らかの事情で二人の間に物理的な距離がある時に『人を恋ふ』と言うの。互いが別々の場所にいて一緒にいられない時、そういう時に相手を想い慕う気持ちが『恋』なのよ」