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プロローグ 第一話 時の向こう

大伴坂上郎女作歌一首

吉隠の 猪養の山に 伏す鹿の 妻呼ぶ声を 聞くが羨しさ     

万葉集巻第八 1561番歌


   プロローグ


その神社は里山の頂近く、年を経た杉の林の中でも、ひときわ古い大木を背にしてひっそりと佇んでいた。


時の流れの底で、今なおしのびやかに囁かれる、古い言い伝えを秘めたこの社の名を葉月神社という。


季節は既に卯月も末、里山の麓では遅咲きの桜が、群青色の闇の中でしらじらと花びらを散らし続けている。命あるものすべてが眠りに落ちたような静寂の中、微かな月明かりに照らされて花びらだけが地上に白く降り積もっていった。


いつに変わらぬ夜。長い年月、一夜一夜を紡ぎながらはるかに続いてきた変わらぬ時の流れ。


深い眠りに麓が沈んでいた頃、里山の奥で大地が低く鳴動した。地のうねりに大気が身震いしたかのように、一陣の風が社の中を吹き抜けて山肌を里へと降りて行く。降り積もった桜の花びらが、幾重にも重なり合いながら空へと舞い上がって消えていった。


花を追って天を仰げばそこには月の舟。向かいに瞬く小さな星の光が刹那輝きを増した。


その光に行き先を問うように、真っ直ぐに流れていた『時』の流れの先端が微かに震えて向きを変えた。夜空に浮かぶ弓張り月の弧のように、流れを撓めて『時』がゆっくりと大きな曲線を描いていく。


緩やかな『時』の弧が、やがて輪となって行き着く『時の向こう』では、一人の男が死にかけていた。






   第一話 『時の向こう』


 大和三山のひとつ耳梨山の麓にある飛鳥藤原の地から、都がその北方に位置する奈良へと移ったのはもう五年も前のことになる。


 最初こそ寒々しかった新都の大路も、次々に貴族の屋敷が建ちそろい、大寺・小寺の移築も完了していまや咲く花の匂うがごとき隆盛を迎えている。

 そんな活気に満ちた新都の一隅で、ひときわ壮麗な佇まいを誇るひとつの屋敷だけが陰鬱な重苦しさの中に沈んでいた。病が屋敷の主人を襲ったのである。



 それは最初、軽い夏風邪のような顔をしてやってきた。しかし秋の気配が立ち込める頃には性悪の本性を現わして、主人の身内や周囲の者を暗澹の沼へとたたき落とした。

 広い屋敷内の至る所、下役の使人や奴婢の詰める小部屋にまで薬湯の匂いが沁み込み、祈祷や誦経の声が日に夜を継いで聞こえているが、主人に回復の気配はない。

 今日も唐渡りの新しい薬草が大量に運び込まれたが、屋敷に腰を据えた沈痛な空気がそれで払われるはずもなかった。



 遠く誦経の声が聞こえる病室で何種類もの薬草を煎じていた年老いた医師は、薄く目を開けたまま力なく横たわる主人に向かって独り言のように呟いた。

 「先年にお貰いになった、新しいお妃さまがお見舞いにいらしていましたよ」

 古くから屋敷に出入りしている医師ではあったが、この頃は寄る年並みのせいか弟子が代わって診察に来ることが多くなっていた。今日は癒えぬ主人を案じて杖と弟子とにすがりながら、久方ぶりに屋敷を訪れたのである。


 年寄っても腕の方はまだ確かだという話だが、診察の合間に今のような独り言を呟くことが増えた。

両手もかすかに震えるようで、今も壮年の弟子が二人、食い入るように薬剤を調合する師の手元を見つめている。その凝視は、師の手際から何かを学び取ろうとする熱心さであるのか、或いは万が一にも失態を犯させまいとする懸念の表れなのか、判別がつき難かった。


 「もう何日も、眠る間も惜しんでお祈りをしていらっしゃるとか――わたくしは今日、初めてお目にかかりましたが、お美しい方でございますな」

 医師がそう独りごちた後、再び沈黙が部屋を包んだ。


 沸々とたぎる薬湯の音だけがその場に満ちていく。甕の中を杓子でかき回しながら、医師がまたぽつりと言葉を漏らした。

 「あの御方に似ていらっしゃる。そう申し上げたら大層驚かれたようでした」


 半ば眠るように熱に浮かされてはいても、その言葉は主人である男の心に鋭く突き刺さった。

 何を話した――そう問い返そうとしたが、身体が重く思うように言葉が出てこない。気持ちばかりが焦りを募らせ、混濁した脳裏には愛しい者の面影だけが渦を巻くように見え隠れする。


 違う――男は残された力を振り絞って、愛しい者に呼び掛けようとした。だが起き上がろうと試みても、逆に地中に引きずり込まれるような感覚に囚われるだけで、身体は少しも動こうとしない。


 病の苦しみよりも辛い痛みが、男の萎えた身体を苛んだ。

 そうだ、話さなければいけないとずっと考えてはいたのだ。ただ、どう受け取られるか、それが怖くて一日延ばしにしているうちに、もう三年近くが経ってしまった。

 穏やかな日々にわざわざ波紋を広げる必要があるのか、そう考えたこともあった。


 だが日々を重ね、互いに心通じ合ったと信じられればこそ、他から聞かされるその前に自分の口から正直に一切を話すべきだと心は決まっていた。

 その矢先に、まさかこんな病に憑りつかれようとは――男の喉に苦いものがこみ上げ、ひび割れた唇が声にならない声で愛する者の名を呼んだ。


 このまま逝くわけにはいかない。こんな非道い思い違いを遺したまま逝くわけにはいかないのだ。

 しかし、病は確実に勝利を収めつつあり、もはや男には為す術のひとつとて残されてはいない。

その時、男に古い記憶が蘇った。遠い若い時分に、異母弟に誘われて分け入った杉林の奥の小さな社――その社の前に静かに立っていた巫女の姿。あの時、巫女から教えられた祈りの言の葉は何と言ったか。


 唇からしわがれた声が絞り出された。男はその生命のすべてをかけて、己れの最期の言の葉を、遠い昔に覚えた祈りの言葉に託した。


 「皇子様?何かおっしゃいましたか」

 薬湯を手にした医師が男の病床に身体を寄せた時、男は既にそのすべての力を使い果たしていた。


 細く開いた窓から、秋の風がしのびやかに男の枕辺を訪い、汗に乱れた鬢の毛を慰めるように撫でて吹き過ぎた。

 その風の女神の鮮やかな裳裾が、男の目に映った最後の光景であった。




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