お半長さん
魚屋さんというのは、粋で良いものですね。皆様もご存じかの魚屋宗五郎や、夏祭浪花鑑の団七九郎兵衛も魚屋でございました。町の人気者ですね。
朝早く、裏長屋の前を掃除をするお婆さんがいます。早起きは三文の得、年寄りは眠りが浅いもの。町内の誰よりも朝が早い一人暮らしのお半婆さんのお出ましです。井戸端で前を通る魚屋さんを見つけました。
「あらあら、早いこと。魚屋の長さん、お稼ぎかい」
「これは、ご隠居さん。今朝もえらく、お早いことで」
長さんは三十を少し越えた男盛り。イケメンというよりは三枚目、魚を三枚におろすのもお手の物であります。
「ご隠居とは、あれまあ随分な言いぐさじゃないかい。あたし、お半と長さんの仲だと言うのに」
「へいへい、帯屋のお半お嬢様。今朝も一段とお美しゅうございます。手前、鼻垂れ丁稚の長吉でございまあす」
「へんっ。この丁稚、相変わらず口だけは達者だね。それはそうと長さんや、今朝はまた、気合いの入った出で立ちじゃないかい。上得意さんからの呼び出しかい」
長さんは頷き、ふとお半婆さんの隣の長屋を見やりました。隣は、常磐津の師匠お巻さんが住んでいます。
「嫌だねえ、長さん。お巻さんは、お伊勢参りだよ」
「お供は、津島屋の旦那あたりでしょうかね?それとも加賀屋のご隠居さんかな」
意味ありげな目配せに、長さんは頷きます。帯屋も加賀屋もお巻さんの稽古を受ける素人弟子ですが、お巻さんは二十半ばの色っぽい女師匠。恋の噂は尽きません。
「お出入り先だから言うわけじゃないけれど、津島屋さん加賀屋さんのどちらとも、師匠は特別な仲じゃないと思いますよ。あくまでも可愛がってくれるご贔屓。お巻師匠のいい人は、お武家じゃないかと睨んでいましてね」
「そうだねえ、あのお巻さんの性格から考えると通いのお弟子とは、ねえ。ところで長さんや、あたしのこといつ桂川に連れて行ってくれるんだい?」
道行朧の桂川!声なき声で長さんはつぶやきました。
「いやいや、心中ではなくてお半さんが行くのは桂川とは違う川」
「えっ。どこの川だい?」
怪訝そうに問い返すお半婆さんに、長さんは由良助の名台詞を放つのでした。
「鴨川で水雑炊を食らわせい!」
2020年に頒布された、うさうらら様主催の和綴じ本、江戸長屋アンソロ「ひとのうわさ」に投稿した短編小説です。
タイトルの「お半長さん」は、人形浄瑠璃「桂川連理柵」の登場人物から取りました。桂川連理柵は、帯屋の主人長右衛門が近所の娘・お半(十四歳)を妊娠させてしまい、結果として二人が桂川で心中に至る話です。この浄瑠璃には長右衛門の他にもう一人の長さん、丁稚の長吉が登場します。
ラストの長さんの台詞は「仮名手本忠臣蔵」から、七段目・祇園一力茶屋での大星由良助から取りました。