俺は彼女を忘れる事など出来ないので②
「報告とはクラリス様についてです」
「へぇ?」
俺は一瞬期待に心が沸くが、すぐにそれは裏切られた。
「……クラリス様の不在について、病気にて療養していると表向きは発表しているでしょう? その事について怪しむ者達が出てきました」
「……は?」
思いがけず低い声が出た。
オルトはビクリと飛び上がり、ブルブルと体を震えあがらせた。
「どういう事だろう? 具体的に説明してもらえないかな?」
俺はそんなオルトの怯えた様子を無視し、話すよう急かす。
「何でもクラリス様がすこぶる健康優良児である事を知っている者達が「あの方が一年経っても治らないような難病になっている筈がない」と騒ぎたて、それを本気にした者達が現れているようで……」
「何だ、そんな証拠もないような、下らないものか。でも、念のため、もみ消しておかないとね。私が処理しておこう」
人脈を使い、話を上書きすればいい。
誰を動かすか、思案にふけっていた俺にマトマはどこか覚悟を秘めた様子で話しかけてきた。
「すみません、クラリス様について私から進言があります。オルトには部屋から出ていってもらっていいですか?」
「……構わないよ?オルト、出ていってもらえる?」
何となく面倒な予感がしたが、どんな話をされるのか聞いてもいないのに、断る訳にはいかない。
「かしこまりました」
オルトは礼をすると、部屋を出ていった。
それを確認したマトマは俺を真剣な眼差しで見据えつつ、口を開いた。
「クラリス様について、皆思う所があっても、誰も意見できる者はいません。なので私が申し上げます」
「何?」
「クラリス様を探すのをもうやめ、世間にはクラリス様は闘病の末、亡くなったと発表しませんか。そして、あなたは新しい奥方を娶るべきです」
そういうマトマの顔は真剣そのものだった。
いくら長年我が家に仕えてきたとはいえ、マトマの立場で俺にこんな事を言うなんて、勇気がいっただろう。
姫様がいなくなってから、もう1年はたった。もうそろそろ彼女を忘れ、前を向くべきだとマトマは思っているのだろう。姫様が逃げた事はこの屋敷の人間しか知らないが、他にもそう思っている人間はいるかもしれない。
俺はマトマは善意で言ってるのだろうと、なるべく優しく言葉をかける。
「ふぅん、提案ありがとう。私の為を思って言ってくれたんだろう? 嬉しいよ」
マトマはほっとした顔をする。
「タナト様、差し出がましい事を言ったのに、ありがとうございます。私の意見を聞き届けて頂けますか?」
「それは出来ないな」
俺がさらりとそう言うと、マトマは辛そうに顔を歪める。
「あなたの姿が見ていられないのです。日々クラリス様を思い続け、削れていくあなたが」
「私は別に何ともないよ」
俺はそういって軽やかに笑った。
マトマが考えすぎだ、心配なんてする必要ないと言うように。
「嘘をつかれないでください。あなたが睡眠薬なしでは眠れなくなって久しい事は知っているんですよ。クラリス様の事が心労になっている証拠です」
「別にそんな事ないよ?」
俺は即座に否定しつつ、内心遂にその指摘をされたかと思った。
姫様に飲ませていた睡眠薬を飲まないと寝れなくなっている事を、周囲にバレているのは薄々察していた。
あれがないと寝つけないし、寝た後も何度も目覚めてしまう。
俺は姫様が逃げて少し経った頃ぐらいから、まともに睡眠がとれなくなっていたのだ。確かにそれは、姫様がいなくなった影響ではあるのかもしれない。
姫様がいない日々は俺にとって辛くて苦しくて仕方がなかった。
姫様の面影を思い出しては、あの方がもう俺の側にいない事を実感し、苦痛に襲われた。
ほんの一年前は当たり前にあった筈の、彼女の姿を見れず、声が聞けない毎日は俺を緩やかに壊していった。
いくら探しても姫様は見つからず、日に日に焦燥感と追いつめられていくような気持ちが増していく。
姫様にもう二度と会えないのではないかとうっすらと考えては、心は絶望に満たされた。
それらに苛まれれ続けた結果、俺の中のどこかがおかしくなってしまったようだった。
本当は今この瞬間も、ふとした拍子に心の全てが崩れていってしまいそうだ。だが、姫様を絶対に見つけ出し連れ戻すという気持ちだけが俺を支えていた。
俺がこんなに姫様を求め、苦しんでいる中、姫様はナイトとかいう男と幸せに暮らしてるのだろうなと考えては、怒りと悲しみと悔しさで震える。
俺は姫様の事を憎んでいたが、彼女への気持ちにはまだまだ底がなかった事を実感した。俺はこの一年で姫様への憎悪を深め、あの忌々しい姿を、焦がれ、求め続けた。
「きちんと寝れていない点だけではありません。あなたは仕事こそ優秀にこなされているかもしれません。ですが、もう二度と会えないかもしれないクラリス様への思いに囚われすぎている。お願いです、あなたは自分の幸せにクラリス様が不可欠だと思われてるのかもしれませんが、それは勘違いです。クラリス様以外ともあなたは幸せになれるに違いありません」
姫様がいないと幸せが得られない?幸せとは、愛する者と共にいる時に得られるものだろう。姫様と一緒にいる事に得られるものはそんなものな訳はない。
姫様以外の人間ともそんなものが得られるとは不思議と思わなかったが。それが例え、オペラ様や歴代彼女のような俺にとって好みの相手だとしても。
的はずれな事を言うマトマに苛立ちを感じる。
「心配ありがとう。でも、本当に私は大丈夫だよ? 確かに姫様の事を思うと辛い気持ちにはなるけど、君が心配している程じゃない」
俺はマトマを安心させられるように笑った。
「タナト様、誤魔化さないでくださ……」
マトマの声を遮るように、部屋の扉をコンコンと叩く音が聞こえた。
「タナト様、お茶とお菓子をお持ちしました」
「分かった、入っていいよ」
メイドのソノミが部屋に入ってきた。彼女もマトマと同様、長年我が家に仕えている者だ。
彼女は一瞬マトマと目配せした後、紅茶とクッキーののった皿を俺の机の上に置いた。
「タナト様は甘いものがお好きでしょう? 紅茶にはいっぱい砂糖をいれさせて頂きました。バランスをとろうと思い、クッキーはにんじん味にし、甘さ控えめにしました」
ソノミはそういって、部屋から去らず、マトマの隣に立った。
「クッキーは新人の料理人が作ったので、是非タナト様のご意見をお伺いしたく思います」
俺は内心厄介な事を言うとため息をつく。
昔の俺ならいざ知らず、今の俺にとっては料理の味なんてどうでもいい。腐っておらず、食べれるなら何でもよかった。
「俺はそういうのは苦手だな。美味しいものは美味しいな、ぐらいしかコメント出来ないからね。遠慮させてもらっていい?」
「そこを何とか、よろしくお願いします」
「分かった、いいよ」
ここまで強く食い下がられて、「お優しいタナト様」が断るのも違和感を覚えられてしまうかもしれない。
仕方ない、適当な事を言って誤魔化そう。
俺は紅茶を1口飲んだ。
「うん、甘くて美味しいね。私好みの味だ」
「それはよかったです。クッキーもお食べください」
「あぁ」
俺はクッキーを一枚とり、サクサクと食べる。
「うん、にんじん味のクッキーというのは初めて食べるけど、どこか懐かしい味がするね。中々悪くない、その料理人の事は褒めておいてあげてよ」
「かしこまりました、ありがとうございました」
ソノミは頷くと、部屋を出ていった。
マトマは俺をどこか悲しそうな眼差しで見つめた。
「もしかして、と思ってはいましたが、やはりでしたか」
マトマは独り言のようにそう呟いた後、こういった。
「あなたはやはりクラリス様の事は早く忘れるべきだ。あなたにとってクラリス様が何よりも大事なのは、この屋敷の者なら誰でも知っております。しかし、これ以上あの方を思い続ければ、あなたは壊れてしまう……いや、もう壊れてらっしゃるのかもしれません」
「私は壊れてなんかないさ。姫様が出ていく前の私と出ていってからの私で、特に変わった所なんてないだろう?」
「表面的には必死に取り繕ってらっしゃるのでしょう。しかし、内面は誤魔化せません……タナト様、先ほどの紅茶とクッキーですが、実は紅茶は無糖で、クッキーは塩味でした」
俺はそれを聞き、うっすらと笑った。
あぁ何だ、そこまで気づかれていたのか。
……そう、俺の味覚は今、正常に動いていなかった。
次話の投稿は5月28日14時となります。よろしくお願いいたします。