贅沢な日常
「へえ、チェルちゃんていうんですか。その子」
「うん。俺に憧れてモデルになったらしいんだけど……なんか深い理由がありそうでさ。ちょっと気になっちゃって」
仕事も終わり、自宅へと帰ってきた俺は婚約者のエチェットに今日起きた出来事を話した。
もちろんピィニアの件は伏せてある。あくまで気になる後輩ができた、といった内容にしたのだが……意図的に隠しているというのはどうにも歯がゆいものだ。話してしまいたくて堪らない。
特に彼女には隠し事をしたくなくて、リビングに行く合間に盗み見るようにして、こっそりとエチェットの顔を窺ってみた。
いつも通りの、秘密を抱えているだなんて微塵も疑っていない顔だ。さりげなく荷物と上着を持って、「お疲れさま」なんて声を掛けてくれる。
新婚というより、なんだか熟年夫婦の妻みたいだ……なんて以前言ってみたら、顔面を真っ赤にしながらバシバシ叩いてきたっけ。
「どうしました?」
ジッと眺めているのを不思議に思ったのだろう。わずかに足が止まり、若葉色の瞳がこちらへと移る。
背の中ほどまで垂れた栗色のストレートヘアが揺れ、動きに合わせて花の澄んだ香りがふんわりと広がった。
「ううん。何でもない」
衝動的に鼻腔を満たしてみたくなり、正面から抱きついてみる。
背丈の関係でお腹あたりに顔を埋める形になり、恥ずかしさからかエチェットは身をよじった。それでも頑として動かないでいると、今度は仕返しとばかりに抱えられる。
「わっ!? ちょ、それやめ……」
「問答無用ですっ!」
言葉のとおりにぎゅうっと羽交い絞めにされてしまい、いよいよ抜け出せない状況になってしまった。そういえば、帰ってきてからまだ着替えを済ませていなかった。
ボリュームのあるフリルが特徴の、淡いミント色のドレス。いかにも彼女が好みそうなデザインを堪能するように、間近でじっくりと眺められる。ドレスのままだと、こうして着せ替え人形のごとく好き勝手されるのだ。
「着替えるから離してくれ! はーなーせ!」
ジタバタしてみても、体格差では敵わない。そのままエチェットの部屋まで連れ込まれ、一緒にソファーへと座らされてしまった。むぎゅむぎゅと当たってくる圧と、彼女の伏せた顔が肩口に当たるくすぐったさ。安心感より恥ずかしさのほうが上回ってしまい、堪らず大声をあげる。
「くっ、首筋がムズムズするんだけど! さっきからなんか吸ってないか!?」
「気のせいです」
「いや吸ってる! スーハースーハー聞こえる!」
「私も疲れを癒したいんです。少し我慢してて下さい」
やたらと呼吸音が聞こえるなと思っていたら、肩に顔をうずめた姿勢で何やら深呼吸をしていた。
こんな奇行をする子だったろうか……なんて社会の恐ろしさを垣間見た気分でいたが、そういえば元々こんな子だったとエピソードの数々が蘇ってきた。そうだった。間違いなくいつも通りのエチェットだ。
「そういえば成哉くんと同い年の子って、今まで周りにいませんでしたよね?」
顔を伏せたままで、何事もなかったように会話が再開された。
あ、そのまま話すんだ……なんて思いつつ、意識を引き戻す。
「言われてみれば。精神年齢だと、エチェットやカルムと近いけど……肉体年齢だと、同い年の子は知り合いにはいないな」
ふと旅のなかでのやり取りを思い出し、懐かしさから俺は頬を弛めた。
目の前にいる彼女――エチェットと、今は隣町で暮らしている、相棒として一緒に戦ってくれた青年、カルム。ふたりとのやり取りの中で、頑なだった俺は少しずつ変わっていけた。
今の自分があるのは、間違いなく彼らのおかげだ。
前世の俺――御崎成哉はかつて、ゾンビと呼ばれる化け物と戦いながら生きている孤独な男だった。
唯一の肉親だった母には先立たれ、友人も、頼れる者も身近にはいない。
当時はそんな人がそこらじゅうにいるようなご時世で、当然ファッションにも縁遠く、服といえば「死なないために着るもの」ぐらいの認識だった。それが今じゃモデルなんてやっているんだから、人生ってやつは何が起こるか分からないものだ。
「一緒に遊んだり、同じ目線で話したりとか……そういうの、昔から憧れててさ。もしかしたら、俺の潜在的な願いを神様が汲み取ってくれたのかもしれないな」
言う間にふと、髪を切るシャキシャキという音と、優しい笑い声を思い起こしたけれど――どれだけ会いたいと願っても、きっと彼にはもう出会えないだろう。
「神様じゃなくても、あなたの願いを叶えてくれる人はいますよ。……とても、とても身近に」
寂しさから表情を硬くする俺を見て、エチェットは慰めるようにもう一度強く抱きしめた。
じんわりとした温かさを全身で感じつつ、窓の外を見る。陽はもう完全に落ちていて、空はすでに薄暗くなっていた。
「父さんとユエリス、遅いな」
気を紛らわせるために呟く。
エチェットは少し笑って答えた。
「最近忙しいみたいですから。夕食の準備をして、待っててあげましょう」
「そうだな」
手近にある皿を並べながら、俺はまた別のことを考えはじめていた。
明日チェルと会った時、何を話そう――なんて、前の自分にはなかった、当たり前で贅沢な悩みを楽しみながら。
* * *
「反神託者組織?」
「ああ。ここのところ、そう名乗る連中が目立つ動きを見せていやがってな。オレらを襲おうだなんて、今までには考えられない事件だが……良くも悪くも、あの一件から一部の信仰心が薄れてきちまったみてーだな」
イオニアは大きなため息をつき、対面に立つ長身の男性を見あげる。
「そういう事件は、今はあいつ……ウェスティンの耳には入れたくないんだろ? 父親として」
「まあな」
問いかけに対し、男は控えめに頷いた。
黄色みがかった肌に、黒髪と濃いブラウンの瞳。この世界では珍しい目鼻立ちも、転生者同士ならば日本人特有のものだと一発で分かる。
「自分が勇者の仕事を肩代わりするから、ウェスに別の仕事を与えてやってくれだなんて。相変わらず親バカというか、心配性だなアンタ」
呆れ気味にいわれた言葉に対し、彼は少しばかり苦々しい顔をした。
「私としては、あの子にはなるべく傷付くような場所にはいて欲しくないからな。何だかんだ言いながらモデルとしての仕事を楽しんでいるみたいだし、出来るならこのまま、平穏な時間を楽しませてやりたい」
「……ったく、親子そろってオレに相談してくるんだもんなぁ」
ガシガシと頭を掻いて、やり切れない気持ちを逃がすように大げさに伸びをするイオニア。
「世間が慌ただしくなってきてるってーのに。まーたアイツの目を誤魔化すつもりかよ? 御崎雄大」
名を呼ばれた男は、不服そうに零す。
「誤魔化すとかそういうつもりはない。……ただ、逸らしてやりたいだけだ。あの子には長いこと、辛い思いをさせてしまっていたから」
「そういうのを誤魔化してるっていうんだよ」
反論を吐き出して、イオニアはポケットから懐中時計を取り出した。
「そろそろユエリスを迎えに行ってやらないとじゃねえか?」
「ああ。急ぐからこれで失礼する」
「ウェスにもよろしくな」
軽く挨拶をかわし、二人の男は互いに背を向ける。
頭上にのぼった月は、厚ぼったい雲の隙間から彼らを照らしていた。