父の願い・前編
「今はセーアで、そういうことしないってだけ! さっきの言葉も……ウェスティンじゃなく、セーアだからああ言ったってだけだから! 気にすんなっ!」
「成――」
「いってきますっ!!」
ぴしゃりと音を立てて閉じられてしまった扉を前にして、ひとり取り残された雄大は途方に暮れていた。
「……成、哉……?」
さっきまであんなに嬉しそうに、仕事でできた友達のことや、これからの目標をキラキラとした目で語っていたのに。急に顔を曇らせたかと思えば、逃げるようにして家を飛び出して行ってしまった。
……自分は何か、悪いことをしたのだろうか。
不安になり、手元の写真に目を落とす。周りには昔から『お前は人の気持ちに無頓着だ』と言われていたし、自覚がないわけでもなかった。とにかく目的優先になるあまり、前しか見えなくなってしまう節がある。
それでも二児の父親になってからは、子供たちに寄り添いながら、自分なりに精いっぱい彼らの心に耳を傾けてきたつもりだ。
さっきのやり取りだって、特に傷つける物言いや配慮に欠けた言動なんかはしていなかったはずだ。現に写真を見せてからの彼は、肩にしがみ付いてくるほどに興奮していた。
『えっと、えっとな! こっちの黒髪の子がチェルで、魚人の子がフィノ! ふたりとも俺のっ……ああいや、セーアのだけど…………友達なんだ!』
弾んだ声で説明をしながら、肩越しに腕を伸ばして右と左の子をそれぞれに指さしてみせるウェスティン。その積極的な言動に、ずっと紹介したかった気持ちを我慢していたのだと察せた。
『そうか。友達と一緒だったら、仕事も楽しくやれていそうだな』
『うん! 前までは、ちょっと嫌々だったけど……今はすごく楽しいんだ。だから、だから俺さっ……!』
やや早口でまくし立てながら、彼は肩から降りて雄大の真正面へと立った。そうすることで、間近から顔がはっきりと窺えるようになる。
こうして改めて見てみると、なるほど確かに、今の彼は美少女そのものだ。きめ細かく色白な肌に、昂ぶった感情で染まった頬は熟した林檎のごとく真っ赤になっている。見上げる瞳も潤んでいて、きゅっとすぼめられた唇も、口紅でも塗っているのかやたらと血色が良かった。
これが世間を虜にさせているという、今の彼――……いや、セーアとしての『彼女』の姿なのか。
イオニアに仕事を斡旋してやってくれと頼んだ時には、ほぼ裏方業で、あってもたまに男児モデルを頼まれる程度だろうと思っていたのに。
まさか美少女モデルとしてデビューし、今ではアイドルという肩書きまで増えて三人グループとして華々しく活動しているなんて。
(……もう顔にキズなんて付けられないな、成哉)
心のうちで語りかけながら、雄大はじっと次の言葉を待つ。
ウェスティンは軽く深呼吸をしてから、こちらを見据えて決意した面持ちで言い放った。
『俺っ、恥ずかしいけどいっぱい声に出して、みんなの応援に応えるから! この世界ごと盛り上げてみせるから、だからっ……!』
肺に溜まった空気をすべて吐き出さんばかりに叫んでいた彼は、そこでようやくヒュッと息を吸い込んだ。
というよりも、『呑んだ』ように雄大には思えた。見開かれた目の端にほんのわずかな涙が溜まり、小刻みに震えだした唇が強く噛みしめられる。
『とう、さんも……疲れなんかに負けちゃ、ダメだからな……?』
ワンピースの裾をぎゅっと握りしめ、何かを堪えるように押し殺した声を漏らすウェスティン。
先ほどからはまるで考えられない態度の変化に、雄大は内心で困惑していた。一体どうしたというんだ。この子はなぜ泣きそうになっている? 私が何かしたのか?
頭の中では軽くパニックを起こしていたが、こういう時こそ堂々と受け止めてやれるのが父親だ。そう自分に言い聞かせ、なるべく平静を保ちながら顔を覗き込む。
『なんだ、らしくもない。いつも私の扱いだけ雑なくせに。普段の暴力的な態度はどうしたんだ?』
こうしていつも通りにからかってやれば、怒って言い返してくるはずだと読んでいた。まあしばらくはプリプリしているだろうが、好きな菓子でも買ってやるか、それでもダメならエチェットくんが慰めてくれればすぐに機嫌を取り戻すだろう。
下手したら暴力が出てくるかもしれないが、泣かれるよりはよっぽどマシだ。
この子の涙は胸を抉ってくる。泣けずにいた前世と、感情を失っていた時期があったと知っているから。
けれど雄大の思惑とは反対に、ウェスティンは顔を背けながら離れていく。革の旅行カバンを持ち直し、玄関扉に急いで手を掛けて。
『いってきますっ!!』
まるでこれ以上の接触を拒むように、彼は雄大のほうを見ずに家を出て行ってしまった。
セーアだから、なんて見え透いた嘘だ。
いくら鈍いことに定評のある雄大でも、それぐらいは分かる。だってセーアとして振る舞っている時の彼はプロそのものだ。仕草や口調、声さえも少女然としたものに変化する。普段の父さん呼びだって『パパ』になるので、さすがに気づかないはずがない。
あの時の彼は間違いなく、彼自身だった。
断言はできるが、じゃあどうしてそんな言い訳を並べ立てるのか、なんで泣きそうになっていたのかが分からない。
「もう二度とあの子を泣かせないと、笑顔でいさせてやろうと誓ったんじゃなかったのか……?」
呟き、汗ばんだ手のひらをぐっと握りしめる。
次の瞬間、気付けば雄大は外へと駆け出していた。どうしていいかなんて頭には無かった。掛けてやれる言葉も浮かばない。
ただ思い出すのは、今日と同じ、何気なく買ったプレゼントを渡した日の出来事。
『――ほら。お前に似合いそうな服が売ってたから、買ってきてやったぞ』
気恥ずかしさも相まってポンとぞんざいに投げ渡してしまったのは、今考えてもさすがに良くなかったと思う。
通りを歩いていてたまたま見つけた、幼い子供向けの服屋。いつもなら素通りするのだが、ショーウィンドウに飾られていた服に思わず目が吸い寄せられてしまった。
色味を落とした水色と青の、片側だけストライプになっているツートンカラーのシャツ。着ているのが想像できてしまうほど、あつらえたようにウェスティンにぴったりと似合っている。
……着ているところを見てみたい。
たったそれだけの理由で、雄大は初めて子供に服を買ってみた。らしくないと思いながらも、たまにはこういう気まぐれを起こしてみたっていいじゃないか――なんて、言い訳じみたことを頭の中で呟きながら。
案の定、渡された服を手にウェスティンはポカンとしていた。
ユエリスならここで『パパありがと! だーいすきっ!』と抱きついてきてくれるのだが、この子はそうもいかない。きっと趣味じゃないとか、父さんやっぱセンス悪いとかボロクソに言ってくれるんだろう。
ああ、分かっててなんで私は服なんて買ったんだ。
いっそ能力を使って一分前に戻すか? いや、あれは寿命を縮めるんだった。黒歴史を消すためだけにわざわざ使うのは勿体ない。
『なんだ。違う服が良かったか?』
頭の中ではのたうち回りながらも、口ではクールさを維持できるのが自身が誇れる数少ない長所だった。内心では『うん』とか返ってきたらどうしようかと、バクバクする心臓をなだめていたが。
けれど彼の反応は、予想とはまるで違っていて。
『ううん。……ありがと、父さん』
消え入りそうなほど小さな声でお礼を言った彼は、受け取った服をぎゅっと抱き締めたのだった。
下を向いたままで、長い前髪に見え隠れしている口元がゆっくりと動く。
『俺さ。前はずっと、誰かから貰ったお下がりだとか、朽ちた店や空き家から服を盗んで着てたんだ。だから全然似合ってなくても、上下が違ってても。気候に合ってればいいや、ぐらいに思ってた』
前というのが、前世の頃を指しているというのはさすがに分かった。
こういう話をする時の彼は、普段とはまるで違った表情を見せる。人間の奥底に眠る醜悪さ、社会として成り立たなくなった世界の暗部。日々生まれる諍いも、それによって起きた幾つもの犠牲だって目の当たりにしてきて、それでもなお自我を保ってきたのだと感じさせる達観した眼差し。
『だからいまだにオシャレとか分かんないし、ほとんどエチェットに任せきりなんだけどさ。……その、えっと』
手元を見つめていた瞳が揺らぎだし、唇の先端がほんのわずかに尖る。
強がる時に出るいつもの癖だ。やっぱりこうなるかと身構える雄大の前で、成哉はもう一度服を抱え直し、目の前に立つ父を見あげ。
『この服、すごい好き。買ってきてくれて嬉しい』
――屈託なく、笑ったのだった。
そんな息子の顔を間近で見た雄大は思った。この子が未来を見据えていくにつれ、前世で経験できなかった何かをさせてやりたい。仕事に出かけていく姿を、親として当たり前に見送ってやりたいと。
それはきっと、互いに望んでいた〝幸せ〟だろうから。
「……私はまた、何かを間違えているのか?」
答えの返ってこない無意味な問いかけを口にしながら、角を曲がる。
途中で鉢合わせるのを願っていたが、出会えることなく大通りに出てしまった。辺りを見渡してみても、それらしき姿は見当たらない。
「待ち合わせ場所は……たぶん、店の近くだよな」
まずはここを捜すかと、息子の勤め先である女性向けブランドショップ『ピュティシュ・アルマ』の前へと立つ。
なにより目を引くのは、壁の大部分を占める巨大なショーウィンドウだ。三人並んで立てるほどのスペースが確保されているそこには、ウサギ、ネコ、クマのぬいぐるみが置かれていて、それぞれに『ごめんね』『きょうは』『おやすみ』と書かれたハート型のプレートを抱えていた。
「……さすがにこっちでは待ち合わせられないか」
関係者用の出入口に回ってみるか――そう思い、身をひるがえした時だった。
「え~、今日セーアちゃんたちお休みなの?」
「なんか、会えないと調子出ないなぁ」
ディスプレイを覗き込んでいる女性二人組の会話が耳に入ってきた。
彼女たちのカバンには店内で売られているピィニア公式グッズがこれでもかと付けられているが、雄大には分からない世界だ。
「だよね。ちゃんとみんなに目を合わせて、一人ひとりに手を振ってくれるもん。買ったグッズにもすぐに気付いてくれるし、これ買ったよー! って見せると三人で手叩いて喜んでくれるし」
「そのせいでたくさん貢いじゃうけど、おかげで元気貰えてるから全っ然安いっていうか!」
きゃあきゃあと楽しそうに話している彼女たちの横で、ひとり、またひとりとショーウィンドウを覗き込んでは寂しげに帰っていく。
途絶えたと思えばまた列ができていたりして、彼女たち目当てにこの通りへ来る人も多そうだ。
「成……セーア。みんなお前に、元気を貰ってるみたいだぞ」
なんだかこちらまで嬉しくなってきて、つい口に出してしまった。
それだけに先ほどの表情がどうしても脳裏によぎる。友達の前で泣いてやしないだろうか。まさか、誰にも見せまいと陰でこっそり涙を拭っているんじゃ――次々と悪い想像が湧きだしてきて、自然と足が速まってくる。
建物の関係者以外立ち入り禁止になっているエリアへと急いだ雄大は、以前イオニアから受け取った関係者証を警備員にかざしながら出入口へと回った。
「セーアッ!!」
そこで目にしたのは、家の玄関で見たばかりのワンピースを着た息子の姿ではなく。
「だっ、誰ですの……?!」
「通報案件?」
さっき息子がはしゃぎながら紹介していた、仕事仲間で友達だという、ふたりの女の子だった。




