オオカミさんとお人形
「はっ、はぁっ……!」
そばにある角を曲がり、ひと気のない道を選びながら、待ち合わせ場所であるピュティシュ・アルマの店へと急ぐ。
父さんの送り迎えがなくなってからは、毎朝ひとりで歩いている道のりだ。当然慣れているはずなのに、どうしてか心細い。足に何かがすがり付いているかのように重たく感じる。ゴトゴトと鳴る靴音が妙にうるさい。
どうして走るのに不向きな靴で、俺はこんなに全力疾走しているんだろう。
ふと我にかえって、スピードをゆるやかに落としながら足もとに目をやる。
今日の服装に合わせた、足の甲にベルトがあるタイプの濃いブラウンの靴――イオニアさんいわく、メリージェーンシューズというらしい――は、良質な革であるのを誇っているように、つやつやと陽の光を照り返している。
その眩しさに、ほんの少し目を細めた瞬間。
「――――あっ!」
石畳のすき間に靴が引っ掛かり、傾いだ体が勢いのまま前方へと倒れ込んだ。
弾みで手から荷物が投げ出される。セーア用の着替えと、女の子が持ち歩くであろう物をそれらしく詰め込んでみた革製のトランク。地面にぶつかった際に金具の部分が壊れてしまったのか、その中身が盛大にバラ撒かれる。
化粧品が入ったポーチや愛読書、みんなで食べようと用意していたクッキー、遊ぶためのボードゲームなど。そのうちのウサギをかたどったぬいぐるみを手にした女性が、こちらへと歩いて来る。
「大丈夫?」
たまたま通りかかった人だろう。拾った物を差し出され、視線を上げた際に映った顔は覚えのないものだった。
裏路地のどこかにあるサービス業の店員だろうか、化粧が濃く、濃い金髪を派手めに巻いている。年齢は見たところ、三十代から四十代ぐらい。体のラインがはっきりと分かるぴったりとした漆黒のドレスを着ている。
つやつやした素材なのもあって、その艶めかしいほどの肉体美が強調されていた。
「あ、ありがと、ございます……。……痛ッ……!」
拾ってくれた礼を口にしながら立ち上がろうとすると、膝のあたりがじくりと痛んだ。
上半身を起こして確認してみると、ハイソックスの一部が破けて擦り傷が覗いていた。薄手の生地だから簡単に破けてしまったのだろう。仕方ない、あとで着替えの靴下を履いておこう。
「あら、怪我をしてしまったのね」
女の人は傍へとしゃがみ込むと、立てている俺の膝へとそっと触れた。傷の周辺を、まるでガラスでも扱っているかのように繊細な動きで撫で続けている。
相手が子供だからかもしれないが、それにしても積極的なボディータッチだ。この界隈の人ならではなんだろうか――と思っていると、続きの言葉が耳に入った。
「モデルさんなのに。傷モノになってしまったわ」
その発言から今の行動が心配によるものだと分かって、俺は彼女を安心させてあげようと、両手を振りながらあえて明るい口調で返した。
「いえそんな! このぐらいの傷だったら、痕も残さずに治せますから」
言いながら、出かけるまぎわに見た父さんの傷痕を思い出す。首を振って追い出し、
「そんなことより、モデルだって知って――」
と、気さくに言いかけた直後だった。
膝に触れていた手が急に足首へと移り、それこそ痕が付くんじゃないかというほどの強い力でぐっと握られた。もう片方の足を動かそうとするが固定されてしまい、逃げ出そうにも敵わない。
とっさの出来事で反応できない俺を、彼女は楽しげに見つめている。
「大丈夫。傷モノになっても、あたしがセーアちゃんを受け入れてあげるわ。だから安心して?」
「やっ……!」
やめろ、そう言おうとしたはずだった。
けれど喉からは、引き絞られた声しか出てこなかった。執念を思わせるあまりにも強い力を前に、怒りよりも先に恐怖が湧きだしてくる。それは、舐め回すような女の視線も関係していた。
「今日のセーアちゃんの服、薄手でシンプルなのはプライベートだからかしら? ベージュのワンピース、ミルクティーみたいな色合いで可愛いわね。白くて小さなリボンもセーアちゃんっぽいし、とても似合ってるわ」
状況に反してやわらかで親しみのある口調が、今はただ無機質でおぞましい。
「でもねぇ、あたしもうちょっとフリフリなほうが好みなの。だってそっちのほうが、お人形さんらしいじゃない?」
女は少し不満そうに言いながらも、笑顔を浮かべたまま依然として左右の足首をきつく掴んでいる。
抵抗できないようにするためか、そのまま足を持ち上げられ、奇しくも昨日ソファーから転がり落ちた時と同じ格好になった。しかし、あの時とは真逆の感情が俺を支配していた。
……怖い。今すぐ逃げ出したい。
けれど支えにしている両手のせいで、無理やり引き剥がす事もできない。
「はな、せぇッ!」
蹴る動作で必死に暴れている俺を見下ろしながら、それでも女は鼻歌でも歌いそうに機嫌よくしている。
「そんな険しい顔に乱暴な言葉、セーアちゃんらしくないわ。やっぱりあなたは綺麗なままにしてあげなきゃダメねぇ。そのうち汚れてきちゃうもの」
「――――いッ……!」
いきなり屈んだかと思えばべろりと傷口を舐められ、『こいつは危険だ』と脳の片隅が最大音量の警告を鳴らす。
傷口にツバをつけるという昔ながらの療法があるが、こいつがやってるのはそんなもんじゃない、ただの快楽に基づいた行動だ。相手を思ってやっているわけじゃない。
「痛い?」
わざと傷口を刺激するように舌先で舐めながら、女はにんまりと嗤った。
「でも平気よ、そのうち何も感じなくなるから。あたし、少しばかり闇魔法をかじっていてね。最近ようやく『石化の魔法』を覚えたの。もちろん、あなたのために」
「……へ……?」
石化というのは、闇魔法が得意とする状態異常のひとつ。
毒や眠り、麻痺といった代表的なものから、凍結、暗闇、魔法が使えなくなる沈黙なんかもある。そのうちの石化は、陣から放たれた光が体の表面に石状の膜を作りだし、相手を物理的に動けなくするというもの。
解除の詠唱がないと解く事ができず、その危険性から過去に何度も悪用されていたと聞く。それを止めるために魔法協会とともに動いたのが、神託者たちだ。
現代では石化を含む一部の魔法が資格取得者にしか使えなくなり、人間相手には発動してはいけないという決まりも存在している。……はず、なのに。
あっけに取られる俺の前で、彼女はなおもペラペラと続ける。
「だってあなた、本当に設定ってだけじゃ勿体ないぐらい、人形みたく美しくて可愛いんだもの。その儚さを永遠にするために、綺麗に保存してあげないと。外になんて出したら、こうして壊れちゃったりするものね」
血がにじむ右膝へと目をやりながら、まるでこちらをいたわるような口ぶりで言う女。
その身勝手な価値観に、怪我を『壊れる』と表現することに――ひどく歪んだものを感じ、ぞわりと怖気が立つ。
いつもガラスの中から見ていた、外で声を張りながら応援してくれていたみんなの視線。そんな中に、こんな目もあったのかと思うと……今までの自分がどれだけ能天気だったのか、よくよく理解した。
『すまないな、最近ずっとこんな調子で。お前も売れっ子だし、なおさら護衛が必要になってくるだろうに』
真に気遣うあたたかな言葉と、頭を優しく包み込んでくる大きな手の感触が蘇る。
それを掻き消すように、女の声が耳に飛び込んできた。
「でもその魔法だと石像になっちゃうから、応用で『人形化の魔法』なんてのも独自に作ってみてはいるんだけど。陣の命令式がゴチャついているのか、なかなかうまくいかなくて。そんな時にセーアちゃんと出会えたんだから、きっとこれは神様のおぼし召しね」
「――ふざッ……!」
神様という言葉を使われたことに、俺の頭は瞬時にカッとなった。
「ふざけんなっ、なにが神様だ! あいつらはな、命をかけて必死に願った人たちの想いを受け取ってくれる存在なんだ! 祈りも覚悟も信念もなしに、他人を平気で穢そうとするような人間に、応えてくれる奴らじゃねぇんだよッ!!」
ククリア、イルマニ、そしてククリアの後任で今は地球とこの世界、ヴァルアネスの管理を担当している六十一番目。
彼女たちと触れあいがある今、先ほどの女の言葉は俺には冒涜にすら聞こえた。信仰心なんて関係ない。ただその存在を、身近に感じているからこそ。
「……セーアちゃん?」
さすがに違和感を覚えたのか、両足首を掴んだままで女が不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「あなたセーアちゃんじゃないわね。偽物でしょ。本物はどこ? 出しなさいよ」
「知るか、離せッ!!」
俺の感情と叫びに呼応した精霊たちが、ざわざわと集まりだす。属性も関係なく、引き寄せられては無限に増殖して女を取り囲んでいく。
少しでも魔法を嗜んでいる者なら気付く、精霊たちの怒り。
いっときは仲間だった者を、今は『視る』ことが出来る友達として認識している俺を傷付けようとしているのを、彼らが見過ごすはずがない。
「な、なに……?」
さすがに気付いたのか、女が顔をあげてキョロキョロとしはじめた。
「なんか、ゾクゾクする気が……」
「お前が怒らせたんだよ。精霊たちを」
答えてやると、ヤツは眉をひそめて俺を見た。やっぱりセーアちゃんじゃない――口には出さなかったが、顔がそう言っている。
「…………セーア、ちゃんを…………」
女は呟くと同時、握っていた俺の両足首をぐいと持ち上げると、互いの顔がくっつくんじゃないかという距離で吠えだした。
「今すぐ出しなさいよォォッ!! あたしが、あたしが完璧にしてあげるの!! 放っておいたら汚れちゃうでしょ、老いと死があの子を捕まえてしまうの!! 今のうちに早く、早くうゥゥッ!!」
「ひっ……!」
あまりの気迫に、一瞬だけ感情の乱れが生じて精霊たちとのリンクが途切れた。まずいと思って繋げ直すも、そのあいだに人間とは思えない素早い動きで首へと手が移り、締め上げられる。
「どこよォッ!! どこに隠したの、吐きなさいってばああぁぁっ!!」
「――か、ハッ……!!」
遠慮もない力に、意識が遠のきかけた時。
「「セーアちゃんっ!!」」
「セーアッ!!」
走馬灯のたぐいか、チェルとフィノと、それからなぜか父さんの声が同時に聞こえた。
俺、いよいよヤバいんだろうか……なんて片隅で思っていると、全身をふんわりと何かが包み込む感触があった。と同時に、すでに聴き慣れたフィノの歌声が裏路地に響き渡る。
「……ぐぅっ、う……?!」
女は俺の首から手を離すと、頭を抱え込み、そのままどうっと横倒しに地面へと崩れ落ちた。
「セーアちゃんッ!!」
せき込みながら体を起こすと、真っ先に駆け寄ってきたチェルにぎゅっと抱き締められた。襲われたのが自分のことのように、ボロボロと涙をこぼしている。
「おっ、お店の前で待ってたら、セーアちゃんの叫び声が聞こえて……。フィノと一緒に捜していましたの。そしたらセーアちゃん、こわい人に首、しめられ……ひっ、う、うぅぅ……!」
「も、もう平気だよ。ふたりが来てくれたから。それより、さっきの歌って……」
こちらに歩いてきたフィノに訊いてみると、彼女はこくりと頷いた。
「魚人族につたわる伝統の歌。聴いた者をしばらく昏倒させる力があるから、護衛に使いなさいってママに教わった」
「とぅ……パパも、なんでここに……」
女を俺たちから離れた場所へと引きずり、色々と調べ始めている父さんへと問いかける。作業の合間、ごく短い答えが返ってきた。
「勘だ」
……野生動物か何かだろうか。
「というのは嘘で、お前の態度がおかしかったから気になってしまってな。泣いてやしないかと、あとで様子を見に来たんだ。もう集合場所にいると思ったんだが姿が見えないし、彼女たちに声を掛けたんだが、その時にお前の叫び声が聞こえて。一緒に捜していた、というわけだ」
チェルたちのほうにチラッと視線を移し、俺を安心させるようにほんの少し笑ってみせる父さん。
その容姿はセーアの父親として送り迎えをするために、幻覚によって変えているものだ。初代勇者としての精悍な姿とは違う、眼鏡をかけて新聞でも読んでいそうな、そんな父親らしい平凡な雰囲気と顔つき。
「セーアちゃんのパパ、恰好良いですわよね」
抱きついたままのチェルが、耳元でこっそりと囁いてくる。
「娘のピンチに駆け付けてきてくれるだなんて。まるでヒーローみたいですわ」
父さんの視線が改めて女に移ったのを確認してから、俺は口を開く。
「でしょ。結構そういうトコロあって」
「……セーア」
「なっ、なななな何ッ!!?」
思ってもいなかったタイミングで名を呼ばれ、声があからさまに裏返ってしまった。
「私はこの女を、アーセナル・クルセイダーズに引き渡してくるから。今度こそ気をつけて、お泊り会楽しんでくるんだぞ」
「う、うん。わかった」
「チェルちゃん、フィノちゃん。危なっかしいやつだが、どうかセーアをよろしく頼む」
ふたりは顔を見合わせてから、満面の笑みで「はいっ!」と返した。




