こころのすきま
そして、翌日の朝。
いつもより三十分ほど早くに起きた俺は、父さんの自室を開け放った瞬間に叫んだ。
「……って、いねーしッ!!」
昨晩の様子からしてまだ布団に包まっているものと思っていたが、ベッドはすでにもぬけの殻となっていた。
ぶ厚い書籍が並べられた棚、タンス。そんな家具ばかりの平凡な室内を異質なものにしている、贔屓の鍛冶屋ドワーフに無理を言って作らせたというダンベルと懸垂機。持ち主の性格を如実に表している部屋は、誰もいない今、いつもよりいっそう素っ気なく見えた。
「むー……」
……まさか、いないとは思わなかった。
いざ詰め寄ってやろうとしたらこれだ。早く起きる予定があって、たまたますれ違ってしまっただけなのかもしれないが……今の俺には、昨日の考えを読まれていた気すらしていた。
「ううん……?」
思わず出た大声に、隣室から身じろぎをする物音が聞こえる。
やがて衣擦れの音とともに、扉がゆっくりと開かれた。
「せーや、くん? どうしましたぁ?」
覗いたのは、ぼんやりとした黄緑色の瞳を眠そうに擦っているエチェットだ。まだボーッとしているのか、長い髪は寝ぐせが放置されているままで、寝間着の上に羽織っているカーディガンも片方がちゃんと袖を通されていない。
慌てて自分の部屋を窺ってみたが、さっきまで俺の隣で寝ていたユエリスが起き出してくる事はなかった。……良かった。さすがに三十分も早くに起こしてしまうのは可哀想だ。
「や、その……父さん起こそうとしたんだけど、いなくてさ。エチェットがここにいるって事は、冒険者の仕事じゃないんだよな? 地球に行ってるのかな?」
「さぁ~?」
表情通りの、いかにも「眠いです」といわんばかりのフニャフニャした返答だ。こりゃあマトモに訊けないなと思っていると、少しばかり明瞭になった口調でエチェットが続ける。
「最近の雄大さん、私にもククリアにも、なにかを隠しているみたいで。あの人の事ですし、何事かに巻き込まれていて、家族に迷惑を掛けないように動いているのかもしれませんねぇ」
すべてを背負い込み、家族には心配を掛けまいとする。いかにも父さんらしい行動だ。
「ほんっと変わってないな、父さん」
「ですねえ」
あの三年前の出来事だって、もともと一人で片付けようとしていたみたいだし。今もむかしも堅物で、色々と融通が利かない。
もちろん知り合いや仲間を頼りにしていた部分もあったが、最終的には相打ち覚悟で、親友であるエルディオ――魔王と戦おうとしていた。
それは、『初代伝説の勇者』というふたつ名を持つ者としては、勇敢でふさわしい行動だろう。
愛する妻と、生まれ変わった事で血の繋がりを失った息子。死なせてしまったかつての家族を守るため、その未練を晴らすために。父さんは、己の身を犠牲にしてまで不始末を片付けようとしていた。
けれどもう、あの時とは違う。
父さんは一人なんかじゃない。新しい家族がいる。俺だって成哉の体は無いけれど、魂はこうして確かに引き継いでいる。そんな俺たちの気持ちを無視してまで、命を張るような真似はさすがに……。
「……しない、よな……?」
「成哉くん?」
「ん。何でもない」
小首をかしげてから、寝ぼけ眼のまま頼りない足取りでリビングへと歩いていくエチェット。
俺の歩みが止まったのに気付いていない彼女は、あくびをしながら朝食の準備へと取り掛かりはじめた。キッチン内にある小さな食糧庫を開け、幾つかの食材を掴み出す。
それを廊下側から見つめながら、俺は聞こえない声量でぽつりと呟いた。
「今さら迷惑もねーだろ、バカ……」
あれだけ叱ってやったのに。まだそんな考えで体を酷使しているんだったら、またグーパンチしてやる。今度はとびっきり痛くしてやるんだからな。
手のひらに拳を軽く打ち付けながら、俺はエチェットの手伝いをするために、リビングへと足を踏み入れたのだった。
◆ ◆ ◆
仕事場に行ってからも、俺のモヤモヤが晴れる事はなかった。
「むうううぅぅ……」
用意されていた衣装に着替え、メイクさんが現れるまで休憩室で待つのがいつもの日課だ。唯一違う点があるとするなら、今日は笑顔ではなく、しかめっ面という事ぐらい。
「セーアちゃん、どうしたんですの?」
さっき出勤してきたばかりのチェルが、テーブルに肘をついて唸り続ける俺を不思議そうに覗き込んでくる。
間近にある好奇心旺盛な瞳は透き通った紫色に輝き、とても無視できるもんじゃなかった。
「父さ……、パパがしばらく忙しいみたいで、送り迎えしてくれない」
さすがに込み入った事情を話せるわけもなく、分かりやすいようにかみ砕いて説明してみたが――図らずも、拗ねた子供らしい理由になってしまった。
チェルは呆気に取られた顔をしてから、口元に手を当てクスクスと笑いだす。
「まあ。それで機嫌悪くなるだなんて、セーアちゃんてパパっ子なんですわね?」
「そっ、そんなんじゃないよ。ただ過激なファンがいたら怖いなって、それだけで……」
今のところは出待ちされたり、あとを追い掛けられるだけだが――今後そういう人が現れないとも限らない。
言い訳しながらわざと顔を逸らしたが、チェルは回り込んで頬をつついてきた。
「ふふっ。お顔がまっ赤っかですわよ、セーアちゃん? やっぱり大好きなんですわね」
「ちがっ……チェルのいじわる!」
とっさに出た言葉もまた子供っぽいもので、いよいよ俺の顔は自分でも分かるほどに紅潮した。
これではどう頑張っても言い逃れ出来そうにない。
「違うってば! べつにそんな子供っぽい理由なんかじゃなくて、ホントは!」
「ホントは、なんですの?」
「えっと……ぱ、パパを満足させてや……あげるために……」
「素直に言っちゃえばいいですのに。『甘えたい』って」
「ちがーーうッ!!」
きゃっと声をあげ、チェルはどこか嬉しそうに俺から逃げ惑う。
「セーアちゃんが怒りましたわ~」
「こら待てぇ!」
バタバタと追いかけ回していると、廊下側にある扉がとつぜんギイッと開いた。
言い合っていて足音に気付かなかったが、そこには目を丸くしながら立っているフィノがいた。以前とは違い、お揃いで買ったクマのヘアピンで長い前髪を留めている。
フィノは真顔ながら、わずかに困惑した様子で俺とチェルとを見比べていた。そりゃあ追いかけ回していた途中の変な姿勢で止まっていれば、不審にも思われるだろう。
「どしたの?」
端的に訊いてくるので、俺はチェルのほうを指さした。
「聞いてよフィノ! チェルが……」
「セーアちゃんはパパっ子だなっていう話をしてましたのよ」
「そうなの?」
顔を向けられ、言葉の代わりに首をブンブンと振る。
その返事がよほど必死に見えたのか、チェルはいつもとは違うニヤリとした笑みを浮かべた。
「でもセーアちゃん、パパに送り迎えして欲しいんですわよね?」
「そ、それはして欲しいけどっ!」
甘えたいとかじゃない――と口にしようとして、続きが出てこない事に気付く。
本当は甘えたいんだ。俺は。チェルとフィノを紹介して、同い年の友達ができたんだと自慢して、今日はこんな出来事があったんだと話して―――そんなどこにでもある平凡な報告を、隣で聴いていて貰いたい。
笑顔になって欲しい。
……父親の顔で、いて欲しいんだ。
「セーアちゃん?」
急に黙ってしまったのを心配して、ふたりが恐るおそる覗き込んでくる。
その視線から逃れるように、俺は休憩室のテーブルに置かれている小瓶からひとつぶの飴玉を取り出した。水玉柄の包み紙をはがし、黄色くてまあるいそれをポンと口に放り込む。
甘みを足したレモンの風味が、渇いたのどを少しずつ潤していく。
「さあっ、仕事、仕事! 今日もがんばるぞー!」
腕を振り回しながら大声をあげると、驚いたフィノがビクッと肩を震わせた。ポカンとした表情でこちらを見つめてくるチェルに顔を合わせる。
「チェル、今日のスケジュールってどうなってる?」
「えっ?! えっと、午前中は合同撮影…………ごうどう?」
「お邪魔しまーーすッ!!」
とつぜん聞こえてきた、やけに聞き慣れた声に今度は俺がビクリとする番だった。
扉を開けて入ってきたのは、なんと昨晩店に行ってもいいか伺いを立ててきたエチェットだった。そのうち遊びに来るんだろうとは思っていたが、予想以上の行動力に、口をパクパクさせる事しかできない。
そんな金魚みたいな真似をしている俺に目を留めたエチェットは、両腕を広げてガバリと抱きついてきた。
「セーアちゃんっ、さっそく来ちゃいましたー!!」
「ふぐぅッ!!?」
腰ほどしかない俺の体をぎゅうと抱きしめ、いつかのように首筋に顔をうずめてスンカスンカしているエチェット。
「おまっ、ちょ、エチェッ……おねえちゃん! 人前だから! チェルとフィノが見てるからっ!!」
「ハッ!!?」
やっと気づいたらしく、俺を胸元に抱き込んだ姿勢で下を向く。
「「せ、セーアちゃん……!」」
ドン引きの二人が立っていた。




