〔9〕
飼育箱を乗せたガラステーブル前に座り、浩人はロックを外して蓋を開けた。お気に入りの枝に逆さでぶら下がった愛しい『彼女』が、警戒して少しカマを持ち上げる。透子は浩人と顔を並べ、飼育箱の中を覗き込んだ。息が掛かるほど近くに透子の唇がある。
「ほんと……大きいね。じゃあ後ろに入れるから、少し気をそらせてくれる?」
「あ、うん」
透子は『彼女』の注意を餌でそらせ、少し離れた場所に雄カマキリを入れて様子を見るつもりだ。このまま一緒にカマキリを見ていたかったが、透子の目線に促された浩人は仕方なく餌用のコオロギを取りに立ち上がった。
透子が『彼女』から三〇センチほど離れたところに、そっと雄カマキリを置いた。二匹の様子をしばらく観察したが動きはない。浩人は『彼女』が雄カマキリの前を横切って歩くように、生け贄として処理されたコオロギをケージの隅に置く。すると間もなく、好物の動きに反応して『彼女』が歩き出した。正面二〇センチほど離れた位置を通り過ぎた時、雄カマキリが、そろりと動いた。
『彼女』が歩けば歩き、止まれば止まる。動きに合わせ少しずつ間合いを詰めた雄カマキリは、『彼女』が前足のカマでコオロギを捕らえた瞬間、後ろから背中に飛び乗った。
「第一段階、成功ね」
息を詰めカマキリ達を見つめていた透子が、ふっと安堵を洩らし微笑んだ。頭を振りながら餌にかじり付く『彼女』は、雄カマキリには目もくれない。どうやら交尾は、安全に済みそうだ。
「時間、どのくらい掛かるかな」
浩人が呟くと、透子が意味ありげな視線を向けた。
カマキリの交尾は時間が長い。雄が雌の背に乗って二十分から三十分で離れることもあるが、大抵は数時間、時には丸一日離れないこともある。他の雄を近づけないためとか、雌の出すフェロモンに麻痺して動けなくなるなど数々の説があるが、どの説も確証には至っていなかった。だか長い時間離れないことが、雄が雌の餌になる可能性を高めているらしい。
「そうね……うちの子を『彼女』が食べないように気を付けた方が良いけど、ずっと見張ってる必要は無いかな?」
「じゃあ飲み物と、お菓子持ってくるよ。温かいものならコーヒーか紅茶、冷たいものなら炭酸飲料しかないけど」
「……木曜の夜、ママが来たでしょう?」
透子の返事を待ちながらドアノブに手を掛けた浩人の身体が、凍り付いたように固まった。
「なん……で?」
「知ってるよ。私の病気のこと、わざわざ教えに来たって」
覚悟して、浩人は大きく息を吸った。とぼけても無駄だ、変に同情したり憐れんだりせず、普通に接すれば大丈夫だ。
「あまり詳しい話、聞いてないよ……カマキリの飼育のことで、色々相談に乗ってあげてと頼まれただけだし」
浩人はドアから離れ、ガラステーブルを挟んだ正面に座り直した。
瞬きもせず、表情のないビスクドールのように真っ直ぐ浩人を見つめる透子から感情は読み取れなかった。怒っているのだろうか? 誰に? 母親に? 浩人に?
まともに顔を見ることが出来なかった。何を話せばいいのか解らず、気まずい空気と共に時間が流れる。
ケージの中では『彼女』が食事を終えようとしていた。だが、雄カマキリの離れる気配はない。もう一匹、与えた方が良いと判断して透子に目を向けると、瞳の動きで了解の意志が読み取れた。場の空気が変わることを期待し、浩人はガラステーブル下にあるコオロギの瓶を手に取り蓋を開けた。
「あっ、しまっ……」
必要以上の力で蓋を回し、瓶が手からそれてしまった。急いで拾い上げたが既に遅く、数匹のコオロギが部屋に飛び出していた。蓋を閉め瓶の中の個体数を確認すると、逃げ出したのは三匹。浩人の目の前にいた一匹は、速攻で捕まえた。高く跳ねた二匹目は、テーブルの上に着地する前に空中キャッチ。三匹目は……。
「これが最後でしょう?」
透子の右手親指と人差し指が、最後の逃亡者をしっかり捕らえていた。
「あ、ありがとう、慌てちゃったよ。部屋のどこかに逃げ込まれたら一晩中煩く鳴かれて、寝不足になるところだった」
受け取ろうとして浩人は手を出した。だが透子は、その手を無視してコオロギの羽と後ろ足を左手の指で摘み、ゆっくりと引きちぎった。ガラス玉の瞳は陰を帯び、口元は冷笑を含んでいる。
一瞬、浩人の背に悪寒が走った。しかしすぐに、餌にするための処理だと思い直す。透子は自分で餌を与えるつもりなのだろう。気を利かせて浩人が、ピンセットを渡そうとした時だった。
「かり……かりっ……しゃりっ」
「えっ……?」
透子の手の中に、もう、コオロギはない。
まさか、食べた?
「なぜ、そんな顔をするの? これも病気のせいだと思った? 違うわよ、イナゴと同じようにコオロギだって食べられる。外国では常食する国もあるのよ? 大好きなカマキリ達の餌だもの、ヒロだって味見は必要だと思うでしょう?」
「う……でも……」
透子は膝で、にじり寄ってきた。丈の短いスカートから露出した淡いピンク色の太腿が、床に置かれた浩人の手に触れる。
「ママが何を言いに来たか、だいたい予想がつくわ。病気で引き籠もりがちの私には、友達がいない。だからカマキリの飼育なんて、気持ちの悪いモノに夢中だって。ようやく同じ趣味を持つ友人が出来て、ママは喜んでいる? そうね……男の子だから少し心配だと言ったかも? いいえ、男の子でも関係ないから仲良くして欲しいと言ったわね、きっと」
浩人は生唾を飲み込んだ。妙な緊張感に支配され、言葉が出ない。
透子は浩人の手をとり、自らの膝に乗せた。温かく、滑らかな感触。皮膚の下に通う血脈が、生々しく掌に伝わってきた。ぐいっと身体を寄せられ、浩人の手がスカートの中に滑り込む。途端、跳ね上がった心臓が、口から飛び出しそうになった。荒い息遣いは、透子のリボンタイを揺らす。
「病気が解ったのは、中学三年生の夏だったわ。テニスの部活動で肘を壊し、手術のため精密検査をすることになったの。その時、眼球の光彩が健常者と違うことに気付いた医師が脳の検査を勧めて、腫瘍があると解ったのよ。手術で除去するのは、とても難しいらしいわ。長くは生きられない、そう言われて絶望した」
透子の濡れたように艶めく唇が、白くふくよかな胸が、目の前に迫る。
「時折、酷い頭痛に襲われるけど、通院で経過観察しながら普通の生活をしてきたわ。でも私はもう、生きる希望を失っていた。ある日、両親がカンファレンスルームで医師の説明を聞いている間に病室を抜け出し、大学病院の屋上ガーデンに出た。階下を眺めたら、七階からでもあまりに近く感じられて、柵を乗り越えても鳥のように着地できそうな気がしたわ。そして身を乗り出した時、美しい緑色の生き物が私の手に止まったのよ」
浩人は、ケージの中で繋がっているカマキリ達に目を移した。頭の中に霞が掛かって、何も考えられない。
「その生き物は小さな小さな三角形の顔を少し傾け、不思議そうに私を見つめた。そして前足のカマで、指を引っ掻いたわ。蝶のように媚びた美しさではなく、クールな美しさだと思った。たかがちっぽけな、カマキリのくせに」
透子の細くしなやかな指が浩人の項を這い、背中に回った。整った眉と長い睫毛、半分ほど伏せられた目蓋、その造形は完成された人形のように美しい。
産卵期を迎えた雌カマキリの腹のように、透子の胸は絹の手触りだろうか? 今の自分は、雌のフェロモンに五感を奪われた雄カマキリと同じだ。抗うことが出来ない。
「だから私は、思い通りにならない自分の代わりに、美しく完全な個体を創ってみたくなったの。ヒロ、あなたが一緒なら……」
桜色のつぼみが少し開き、甘い囁きを漏らす。誘う言葉は、しかし透子の思惑と逆の結果を招いた。
「うっ……あっ!」
唇の向こうに見える、真珠のように白く形の良い歯。その間から、コオロギの前足が覗いていたのだ。瞬時に呪縛が解かれた。
凄まじい嫌悪感が浩人の全身を総毛立たせ、取り込まれていた世界から我に返る。胃の辺りに湧いた不快感が、口の中に酸を満たした。
吐き気がする。
浩人の変化を見逃さず、透子は素早く身を引くと眉をひそめた。その様子に、浩人が思い出したのは透子の母親の言葉だ。
『あの子を怒らせないで』
何が、起こるというのだろう? 正体のない不安感に襲われ、浩人は小さく身震いした。
「あ、そうだ、飲み物取りに行くところだった。友達が遊びに来ると言ったら、母さんが何かお菓子も用意してくれたみたいだし」
「そうね……わたし紅茶がいいな」
「了解」
平静を装いながら部屋を出た浩人は、階段を駆け下りトイレに飛び込んだ。
「……カッハッ、ぇええ……っ!」
間に合った、透子の前で吐くわけにはいかない。
昼に食べたヤキソバが、消化されない形のまま全て便器にぶち撒かれた。それでも嘔吐きは止まらず、胃液だけが滴り落ちる。ようやく落ち着いたのは、水洗のタンクを三度、カラにした後だった。喉が、ひりひりする。
かなりの時間をとられた、透子は不審に思っているだろう。昼飯を食べ過ぎてお腹が痛くなったと言おうか? トイレネタはきまり悪いから、紅茶が見つからなかったと言おうか?
言い訳を考えながら落ち着かない気分でキッチンに入ると、階段を下りてくる軽い足取りが聞こえた。
「ヒロ君、遅いから見に来たよ」
その声に振り向いた瞬間、全身の血が逆流した。リビングからキッチンに顔だけ出した透子が、にっこりと微笑んでいる。
「紅茶……どこにあるのか、わかんなくって」
小刻みに震える手を、固く握りしめた。震えは手から背中を伝い、膝に届く。落ち着け、何をビクついてるんだ。と、浩人は自分に言い聞かせた。
透子に変わった様子はなく、怒ってもいないようだ。とはいえ、何事もなかったように微笑まれるのも気味が悪かった。
「でも、もう帰るから紅茶はいいよ」
「え? だって……」
透子に言われて、浩人は時計に目を向けた。午後四時四五分……もうこんな時間だと思わなかった。リビングに出て行くと、透子は既に雄カマキリを入れてきたバスケットを抱えている。
「その、もう……終わったの?」
浩人の態度に腹を立て、交尾を無理に引き離したのだろうか? 一抹の不安が、頭をよぎった。
「うん、大成功。うちの子、賢いから交尾終わった途端さっさと逃げちゃった。食べられないですんだよ」
悪戯っぽく透子が笑い、浩人もつられて笑った。しかし心中は穏やかではない、一刻も早く『彼女』の無事を確かめたい。
「そっか、でもお茶くらい飲んでいったら?」
「今日は止めとく。また今度ね」
「もっと話したかったんだけど……」
安堵を隠して不満そうに呟くと、透子が目を細めた。疑いと蔑みが混じる視線、浩人は絶えきれずに視線を逸らす。
「私も、残念だよ」
抑揚のない、突き放す言い方をして透子は玄関に向かった。このまま帰してはマズイと思ったが、どうしたらいいか解らない。
透子が玄関を出るまで、とうとう何も言うことが出来なかった。