表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
トウロウ葬(キル・インセクタ)  作者: 来栖らいか
4/15

〔4〕

 約束の時間、浩人は自分自身が信じられない気持ちで契約菜園入り口に立っていた。

 夕方5時を過ぎた西の叢雲を残照が彩り、宵闇が迫る東の空は星が輝いている。野菜の収穫後に引き抜かれ、菜園の隅に積み上げられた葉や茎の下からは虫の大合唱が聞こえてきた。

 今朝は成り行きで約束したが、『トウコ』と名乗った少女は本当に来るだろうか? 

 不安を紛らわせるため菜園に入った浩人は、ビニールテープを通した鉄杭で仕切る区画間を歩いた。菜園はテニスコート三面ほどの広さで、隠れる場所など無い。一周して誰も来なければ、帰ろうと思った。

 浩人の足音に驚き、孵化したばかりの小さなコオロギが土の上で跳ね回る。捕獲用の容器を持ってくるべきだったと呟いてから、一緒にショウリョウバッタを捕りに行こうと誘う彩花の言葉を思いだして苦笑した。

 今朝の一件が、何もないかのように声を掛けられ驚いた。しばらくは気まずい状態が続くだろうと覚悟していたからだ。確かに状況は切迫していたし、イヤラシイ事を考える余裕もなかったが。

 一日中、あの感触に頭を支配され気持ちが昂ぶった。話しかけるなと言って彩花を突き放し、帰宅するまで顔を合わせないように避けたのは、理性で抑え込めない衝動に戸惑い罪悪感を感じたからだ。

「あんなヤツ、知ったことか。オレは悪くない、いちいち口出しする彩花が悪いんだ」

 投げやりに呟いた浩人は、菜園の細い通路を遮る黒い帯に気が付いて足を止めた。目を凝らすと、長々と連なる蟻の行列だ。腹いせに踏み散らしてやれと足を上げたが、思い直した。

 小学校二年生の時、遠足で行った隣町の公園で大きな蟻の巣を見つけた。

 水筒のお茶を流し込もうとしたクラスメイトを止めて喧嘩になり、体格の良い相手に敵わず浩人は泣き出してしまったのだ。すると彩花が、怒って相手に挑み掛かった。

 あの時は彩花の加勢が嬉しくもあり、悔しくもあった。現在はどうだろう? 心のどこかで、彩花より強くありたいと思っているのかもしれない……。

「ゴメン、待たせちゃって。すっかり暗くなったね」

 声のした方に顔を向けると、枯れたサヤエンドウの蔓が絡まる菜園フェンス向こうに一人の少女が立っていた。

「あ、どうも……」

 軽く頭を下げ、浩人はフェンスに近づく。透子は今朝と同じ制服姿だが、学生鞄は持っていなかった。

「一度帰宅して、チビ達にご飯あげてきたんだ。暮林くんは?」

 透子にとって『チビ達』とは、飼育しているカマキリを指す言葉に違いない。

「ボク……俺も餌は与えてきました」

 初対面の相手には大抵『ボク』と言うのだが、少し気負って『俺』と言い直す。

「そう、じゃあ、ゆっくり出来るね」

「え?」

 意味ありげに微笑んだ透子が、くるりと踵を返した。ついてこい、と言うことだろう。

 浩人は急いでフェンスを廻り、走って透子に追いついた。

 既に日は落ち、民家よりも畑が多いこの付近は暗闇に支配されていた。女性が一人で歩くのを嫌がる場所だが、透子は軽い足取りで楽しそうに歩いていく。時折立ち止まっては虫の声に耳を傾け、秋の匂いのする冷たい空気を胸一杯吸い込み、空を見上げ、また歩き出した。

 一定の距離を保ちながら、歩調を合わせるのに苦労している浩人にお構いなしだ。

 道路整備計画から取り残された狭い道は、車が来れば立ち止まって避けなくてはならない。しかし透子は、ひらりと車の横を摺り抜けた。

 ヘッドライトに白い顔が浮かび上がり、髪が虹色にきらめく。月明かりの下、その姿は幽玄の美しさがあり消えてしまいそうに儚かった。見失えば永遠に会えない気がして、浩人は必死に目を凝らす。

 十分ほど歩くと、見覚えがある公園の入り口に着いた。今朝、彩花に誘われたT公園だ。

 どこかに彩花がいないかと、浩人は足を止めて公園内を見渡す。

「どうかした?」

 公園の入り口で、透子が振り返った。

「T公園は、たまに餌の捕獲で来るから……」

「ああそう、この公園は煩いから嫌い」

 透子は眉根を寄せ、足早に公園を横切った。

 確かにT公園は、夏場になると十九時近くまで子供が遊んでいるし、深夜まで花火をする連中もいる。しかし寂しい外灯に照らし出された十月の公園に人影はなく、深まりゆく秋を静かに受け入れているようだった。

 彩花がいなくて良かったと、浩人は安堵の息を吐く。

 透子と一緒の所を見られたら、詮索されるに違いないからだ。後ろめたいことなど何も無いが、説明するのは煩わしい。

 公園を抜けた反対側の通りは、瀟洒な住宅が連なる遊歩道になっていた。その中で一際大きな家の門前に立ち、透子が浩人を待っている。

 各窓にテラスが付いた、ヨーロッパ調の洒落た家だ。ガーデニングセンスの高さを伺わせる、真鍮の白い柵に囲まれた広い庭。駐車スペースに停めてあるのは、黒いメルセデスだった。

 浩人が追いつくと透子は門柱のインターホンを押し、応対の声に「あたし」と応えた。すると門の電子ロックがカチリと音をたて、アプローチにそったフットライトが灯る。

 天然石の石畳を数メートル歩いて玄関に辿り着いた途端、ステンドグラスの填め込まれた重そうなドアが開き、浩人の母親と似た年頃の女性が現れた。家の中から、モニターしていたのだろう。

 透子の母親と思われる女性は長い髪を一つにまとめ、カッターシャツに細身のパンツをはいてシンプルな黒いエプロンをしていた。夕飯の支度中らしく、オリーブオイルで炒めたニンニクの匂いが玄関先まで漂ってくる。あまり長居をしては悪そうだ。

「ママ、この人、暮林くん。チビ達のことで相談があって来てもらったの。部屋にいるから邪魔しないでね」

 母親の顔も見ずにそう言うと、透子は家に上がった。

「そう……じゃあ後でコーヒーでも持って行きましょうね」

「いらない、邪魔しないでって言ったでしょ!」

 透子の強い口調に、一瞬、母親は身を縮めた。

 戸惑いながら軽く頭を下げた浩人は、促されて靴を脱ぎ玄関右手にある螺旋階段を上る。

 吹き抜けのリビングを見下ろす二階のギャラリーを渡り、透子が案内したのは突き当たりにある一番奥の部屋だった。

 部屋のドアを開けた途端、ひんやりとした空気が浩人を包み込んだ。ちりちりと腕の毛が逆立ち、背筋に冷たい物が這い伝う。

 何か異質なものが、浩人の進入を拒んでいた。

 だが透子が電気をつけた途端、すうっと、その不思議な感覚が消え去った。いま感じた違和感は、何だったのだろう? 

 女の子らしい普通の部屋だった。窓際に置いたベッド、裾に白いレース飾りが付いたオレンジ色のカーテン、きれいに整頓された学習机、パステルカラーの本棚。フローリングの床には花柄のラグが敷かれ、小さなガラステーブルが置いてある。

 どこを見回しても飼育箱は見あたらなかった。

「そんな不思議そうな顔しないでよ、お目当てはこっち」

 本棚の影にクロゼットらしき扉。透子は悪戯っぽく笑うと扉を開けた。

 四畳半ほどもあるウォークインクロゼット、その中は透子の部屋とは別の空間だった。

 天井まである作り付けの棚三面のうち一面は、隙間無く飼育箱が並んでいる。中には珍しい外国産のカマキリも飼育されていた。もう一面には餌用のコオロギの缶詰、ミールワームの入った瓶、蛾や蝶の幼虫がうごめく半透明のプラスチックケースが並ぶ。残る一面は蔵書棚だ。充実した専門書の中には、英語以外が表記された洋書も何冊かあった。

 素晴らしいコレクションに、思わず浩人は感嘆の吐息を漏らす。

「すげぇ……このコオロギの缶詰、外国産ですよね。どこで買ってるんですか?」

「ネットで買ってる。飼育始めた頃はコオロギの生き餌を捕まえてきたけど、暗くすると鳴くでしょう? あれ、煩いから缶詰にしたの。この子達全員の分、補うのは大変だし」

 興奮を抑えきれず、浩人は美麗な装丁の洋書を棚から抜き出した。

「確かこれ、イギリスの昆虫図鑑だ……! 科学雑誌で紹介してたけど、日本じゃ手に入らないと思ってました。値段も高いし、良く手に入りましたね!」

「パパが仕事で年中ヨーロッパに行ってるから、頼んで買ってきてもらったの。ドイツで特別に作ってもらった解剖セットもあるのよ? 見せてあげる」

 そう言って透子が、棚の一番下にある引き出しを開いた。

 中には、冷たい光を放ち整然と並ぶ小型のメス。ミニソウ。薬品らしき小瓶。様々な長さの虫ピン。

 しかし浩人の目を釘付けにしたのは、部屋に入った時と同じ異質な存在感を示している大振りのナイフだった。

 浩人の硬い表情に気付いて、透子が悪戯っぽく笑う。

「最高の個体が完成したら、標本に残したいと思っているの。ナイフは昆虫を採集する時に邪魔な、雑草やツタを切るのに使ってる」

 透子が引き出しを閉めると、あの妙な感覚は霧散した

「えっ、ああ……そっか。藪に入るときは、俺も大型のカッター持って行きます。標本は……作ったこと無いな、写真は撮るけど」

 標本……。

 この言葉に浩人は、少しの違和感を覚えていた。カマキリ達は生きているから面白い。どれだけ美しい個体でも、標本にしようとは思わないからだ。

 しかし徹底した透子の探求心は素晴らしく、浩人を上回る研究熱心さを伺わせた。

 ライフワークと自負しながらも、浩人の中にはいつも孤独感があった。ネットで仲間を見つけ掲示板で話すことはあっても、オフ会に出たことはない。同じ趣味を持っていても、ネット上の彼等は社会との繋がりを絶った変人に思えた。自分は彼等と違う、引き籠もり自己完結した世界の住人ではないと思っていた。

 おそらく透子は、浩人と同じスタンスを持つ仲間だ。孤独にさいなまれながら長い間、自分の理解者を求めていたに違いない。そして、浩人を探し出したのだ。

 なんと幸福な出会いなのだろう! 

 浩人は今、同胞を得た喜びに身震いしていた。

「あの、透子さん……が一番お気に入りの個体を、早く見せて欲しいんですけど……」

 高揚した表情で頼む浩人に、透子は満足した様子だった。胸の高さにある段からひときわ大きな飼育箱を引き出すと、勿体ぶるようにわざと背中を向けて床に置いた。

「敬語は使わなくていいわ、浩人君。アタシ……少し前からキミのこと知ってたの。何度か声を掛けようと思ったけど、自信を持ってキミに見せられる個体が無くて……。だけど何百匹も犠牲にして、ようやく強くて大きくて美しい色艶の個体が完成したわ」

 再び浩人の頭に、何かが引っ掛かる。

 いったい何が、胸の奥をざわめかせるのだろう?

 訝りながらも、透子自慢の個体を見たいと逸る気持ちが勝った。突き詰めるのを後にした浩人は、期待に満ちた眼で透子を見つめた。

 飼育箱の蓋を開けるため屈んでいた透子は、ゆっくりと立ち上がり浩人に向き直った。両手で大事そうに包み込まれているのは、雄のオオカマキリの個体だ。

「すごい、綺麗だ」

 そっと開かれた掌に顔を近づけ、浩人は呟いた。

 青みがかった深い緑色の身体、整った正三角形の顔、黄水晶のような眼。通常のオオカマキリ雄より、一.二倍は大きいだろう。素晴らしく長い触覚をもち、前足のカマがやや幅広い。

「どうやれば、こんなに綺麗な色になるのかな? 多くの個体は、幼令から脱皮する段階で茶色い筋が入るんだよね」

「最初は環境かなと思って、緑色の画用紙貼ったり、毎日新しい植物を入れ替えたり、青虫だけ選んで餌にしてみたり……」

「あ、それ、俺もやってみた」

「でしょ? それでも結果が出なかったから、色の綺麗な個体だけ選んで飼育してみたんだ。その中で産まれたこの子が、何度脱皮しても奇跡的に色が変わらなかったの。方法が正しいかどうか確かめるには、まだ何年もかかると思うけど」

「そっか……なるほどね。俺もそのやり方、試していい? データを提供するよ」

「もちろんよ、データが多い方が正確な判断が出来るわ。素敵、二人だけの研究テーマになるね」

 楽しかった、嬉しかった。透子なら、浩人のことを解ってくれると思った。

 浩人も透子のことを理解出来ると思った。この美しい雄と『彼女』を掛け合わせたら、どんな個体が産まれてくるだろう? 想像するだけで心地よい陶酔感に包まれた。

 しかし問題は交尾だ。

 カマキリの交尾は雄が雌に喰われてしまうことで有名なのだ。透子は雌の個体を探していると言ったが、リスクを冒してまで『彼女』と交尾させてくれるだろうか?

「あのさ、雌の個体探してるって言ったよね?」

「そうよ、草むらで捕まえた雌じゃなくて、この子に相応しい雌を探してるの。暮林くん、持っているんでしょ?」

「う……ん。でも『彼女』は、かなり大きいから心配なんだ」

「なにが?」

「だってほら……」

 交尾、の言葉を浩人は言い出しにくかった。目の前にいるのは年上の女性だ、幼なじみの彩花とは違う。

 透子は眼を細めて意地悪そうに口の端をあげると、戸惑う浩人の顔に自分の顔を寄せた。甘い香りの髪が、鼻腔をくすぐる。

「ヤッてる最中に、この子が喰われると思った?」

 カッと、顔が熱くなった。

 清楚で美しく、神秘的な雰囲気を持つ透子から思わぬ言葉が出たからだ。狼狽えながら、必死に浩人は弁解する。

「『彼女』は力も強くて、飼育箱の蓋に雑誌を乗せてないと脱走するんだ。透子さんの雄は小さいから、きっと……」

「うちの子が小さいって、どういうこと!」

 急に大きな声を出し、透子が立ち上がった。

 唇を真一文字に結んで、眼に怒りをたぎらせている。

「なにそれ? 自分の個体、自慢してるわけ? 閉鎖的なオタクは、自分が一番だもんね! もういいよ、帰って!」

 何が起きたのか解らなかった。

 鬼女のごとく恐ろしい形相でありながら、透子は凄絶な美しさに彩られていた。浩人は抗えない力に捕らえられ、目を逸らすことが出来ない。皮膚が粟立ち、息が止まった。

 開放される為には、何か言葉を発しなければ。

「そっ、そういう意味じゃないよ。透子さんの個体は魅力的だから、すごく欲しい。だけど大切にしている個体を、傷つけたりしたらと思うと……」

 意識を引き留めながら、ようやく言葉を絞り出した。すると透子の表情が少し和らぐ。

 浩人は必死で、弁明を続けた。

「一般的に雄は雌より小さいけど、この雄カマキリは普通よりかなり大きいよ。透子さんが言うように力が強いなら、交尾中に『彼女』の頭をカマで押さえているかもしれない。もし喰われそうになったら、すぐに引き離せばいいし。だから、その……」

「力も強いし、すばしっこいのよ、うちの子は.」

 手の上で、透子は雄カマキリを愛おしそうに撫でた。どうやら機嫌を直してくれたようだ。

途端、浩人は呪縛から解放される。

「いいわ、あなたの言いたいことは解ったから自慢の『彼女』を紹介しなさい。きっと『彼女』は、この子を気に入ると思う」

 浩人はゴクリと、生唾を飲み込んだ。だが渇いて貼り付いた喉は、癒されなかった。

 清楚な女子高生の顔、美しくも妖しく恐ろしい顔。そして今、目の前にあるのは聖女の微笑み。

「いつ見せてくれるの?」

 透子はグロスを塗ったように艶めく唇を少し舐め、美しい緑色のカマキリをアクセサリーのように纏わせた手で浩人の肩に触れた。ビスクドールの、白く透明な肌。長い睫毛に縁取られた、ガラスのような瞳。

 鋼の呪縛が、絹糸の呪縛になった。操られるように浩人は、透子と長く一緒にいられる時間帯を探す。

「土曜日の午後……なら、家にはボク以外誰もいない」

「ご両親は、お仕事?」

「レストランマネージャーの父さんも、輸入雑貨の店を経営してる母さんも、土・日は忙しいんだ。昼近くに出かけて、深夜にならないと帰ってこない。だから誰にも、邪魔されない」

「そう、じゃあ土曜日の昼過ぎに行くね。もちろん、この子を連れて」

 頷きながら浩人は、安易にこの出会いを喜んではならない気がしていた。胸にざわつく、奇妙な感覚はなんだろう?

 透子の家を後にしてからも、疑問の答えは見つからなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ