〔3〕
殴るつもりはなかった、意志に関係なく手が出ただけだ。
朝のホームルームを上の空で聞きながら、机で頬杖をついた彩花は大げさに溜息を吐いた。
自分でも、もう少し素直になれないかと思う。浩人がいそうな場所と時間帯に足を運んでしまうのは気になるから。そしていつも、迷惑がられてしまうのだ。
小学生の時みたいに、畑や草むらで虫取りが出来れば良かった。しかし中学生女子ともなれば、うかつに出来ることではない。これでも少しは容姿に自信があるし、複数の男子とも遊んでいる。もう、子供じゃないんだ。
あんなムシオタク、どうだっていいはずなのに……。
窓の外には雲一つ無い秋空が広がり、『赤とんぼ』の名で親しまれるアキアカネが二階の窓の外まで飛んできている。ハートの形に繋がっているのは交尾中だ。
毎年、防火用に水を張ったままのプールで産卵する光景が見られるが、無駄な行為だと思った。塩素と苔で汚れた水の中で、ヤゴが生きられるわけがない。トンボの幼虫は、デリケートなのだ。
「馬鹿な子達よねぇ……何も考えないで、本能だけで生きてるんだから」
アキアカネを見つめ呟いた彩花は、ふと、以前聞いた浩人の言葉を思い出した。
『昆虫だって、気に入らない相手とは交尾しないんだよ』
では、あのアキアカネ達は産卵が目的ではなく恋愛で繋がっているのだろうか?
馬鹿バカしいと思いながらも、ロマンチックな想像にうっとりして彩花は青空に視線を泳がせる。
「遅刻だぞ、暮林」
一限目の授業を無視していた耳が、突然その名前に反応した。
浩人が〈ナナフシ〉と仇名をつけた背の高い理科担任、長渕の目線を追って振り向くと、教室後ろの入り口から浩人が顔を出していた。クラスメートの男子数人が、ニヤニヤしながら早く入れと手招きする。
「研究熱心なのは解るが、遅刻はしないように。いいな?」
白衣を着た若い教師は、少し顔をしかめただけで浩人の着席を許した。
「ねぇ、ちょっと、なんで遅刻したの?」
斜め前の浩人に、彩花は小声で呼びかけた。
ビクッと肩を震わせ顔を向けた浩人は、意外な物を見るように丸く見開いた目をすぐに伏せた。
「……関係ないだろ」
今朝、会ったばかりなのに『関係ない』と言われ彩花はムッとした。だがすぐに、あの出来事を思いだしカッと顔が熱くなる。正面を向いた浩人の耳も、心なしか赤くなっているように思えた。
「あのさ、アレは浩人の方が悪いと思うけど私も殴っちゃったから、チャラにしてあげようか?」
聞こえているのか、いないのか、浩人の反応はない。
「あ~そうだ、こないだT公園でショウリョウバッタとカマキリたくさん見たんだよね。放課後行ってみる? 捕獲手伝ってもいいし」
「うっさいな、今日は用事あるから。もう話かけるなよ」
冷たく突き放した言い方に、彩花は言葉を失った。
今までどれだけ嫌味を言っても、からかっても、こんな反応をされた事はなかった。困った顔や迷惑そうな顔をしても、許してくれていると思った。幼稚園の頃から喧嘩は年中行事だが、いつでも仲直り出来た。
寂しさと悲しさが、ないまぜになって彩花を襲う。そして次第に、いい知れない焦りと怒りが付加されていった。