〔2〕
中学二年生にもなれば、昆虫飼育が趣味とは言いにくい。
だからといって暮林浩人は、自分をいわゆるオタクと思ってはいなかった。
小学校から続いている友人と映画やゲーセンにも行く。幼稚園からスイミング・クラブに通っていたので、運動も嫌いではない。成績も苦手な国語と英語以外は平均的な点数だ。
三年になって進学塾に通えば、普通レベルの高校に入れるだろう。全校生徒に義務付けられた部活も一応、理学部に籍を置いてある。
身長は現在一六七センチと少し物足りないが、まだ伸びる可能性がある。中学校入学前、三年間一枚で通せと母親に申し渡された大きめの制服は、既に袖も裾も短くなっていた。客商売の両親の影響で身だしなみには気を配るし、挨拶も欠かさないから近所での評判も良い。
ただ、母親似の女顔を嫌って目付きがきつくなるため、近寄りがたいと言われることがあった。
自分は、どこにでもいる平均的な中学生でしかない。だからこそ浩人にとって、昆虫の研究は重要だった。特にオオカマキリがいい。将来、カマキリのエキスパートになって平均的な人間から特別な人間になるのが夢だった。
今は好きなことを自由に学べる貴重な時期であり、関心のある分野をどこまでも追求し極めることが重要だ。大人になって社会に認められ、貢献するための準備期間なのだ。少しくらい変人と思われようと気にしていられない……はずなのだが。
「ちょっとぉ……ヒロってば、まぁた、か弱い芋虫ちゃん達を餌食にするつもりなんだぁ?」
登校前の一仕事、自宅の裏にある市の契約菜園で餌の捕獲作業中だというのに邪魔が入った。この菜園ではニンジンやパセリの葉に、キアゲハの幼虫がいるのだ。
「食物連鎖だよ、餌食だなんて人聞きの悪いこと言うなよ」
浩人は立ち上がりしな膝の土を払うと、足下のタッパーを拾い上げ蓋をした。目の前で同級生の彩花が呆れたように肩をすくめ、数匹の幼虫が収められたタッパーに意地悪な目線を送る。
伊藤彩花は幼稚園から一緒の幼なじみで、お互い言いたいことを言い合う中だ。小学校低学年まで一緒にお風呂に入ったし、異性として意識したことも無い。つい最近まで一緒にザリガニを釣り、バッタを追いかけ、部屋までカマキリの飼育箱を見に来て餌にするコオロギの足をちぎってくれた。
ところが中学校に入った途端、彩花は以前の彩花ではなくなった。男の子のように短かった髪は、朝日を受けてきらめく長い髪になった。小麦色に焼けた細い手足は丸みをおび、白く柔らかそうになった。まったく興味の無かったはずの料理や裁縫をするため、家庭科クラブに入った。
そして一緒に虫取りをしなくなった代わりに、浩人がいそうな時間帯の菜園に現れては、からかったり嫌味を言ったりするのだ。
溜息を吐き、浩人はニンジンが植えられた畝からハーブ園に移動した。
早朝なら、土に潜り込む前のヨトウガの幼虫が見つかるはずだ。バジルが爽やかな香りを放つ一角に座り込み、葉や茎の間を注意深く覗き込む。朝日と共に根本まで降りてきているかもしれないので、土の上も探してみた。
湿った土の上にヨトウガはいなかったが、細いストローくらいのミミズが健気に土を食んでいた。濡れた土の中で酸素が足りなくなり、地上に出てきたのだろう。だがミミズはダメだ、土が混じった餌はカマキリ達が好まない。
「あーあー、可哀想に。この芋ちゃん達は、春になっても空に舞うことが出来ないのねぇ。このムシオタクに捕まったばかりに……」
無視すれば帰ると思っていたのに、まだいたのか。
そっちがしつこく嫌味を言うつもりなら、こちらも報復する権利がある。平静を装いながら浩人は、後ろ手の格好で立ちあがった。
「彩花、イイモノ見つけたんだけど見る?」
「え? なに? きゃあっ、いやぁあああんっ!」
彩花の顔から血の気が引いた。浩人が隠し持っていたミミズを、ブラウスの胸元に投げ込んだからだ。
「あっ、いやっ、ああっ……んっ! 取ってよ、気持ちわるいっ!」
セーラー・カラーの白いブラウスから紺色のリボンを外し、彩花はバタバタ裾を振る。ところが中学二年生にしては豊かな胸の谷間に入り込んだミミズは、なかなか落ちて来なかった。
「取ってよ、ばかっ!」
「えっ、だけど……」
「いいからっ、早くとってえっ!」
意外な反応に、浩人は狼狽えた。小学生の彩花は、シャクトリ虫を集めて競争させるほど虫が好きだった。たかがミミズ一匹、平気でつまみ上げ投げ返してくると思ったのに、これほど大騒ぎするとは。
「じゃ、じゃあ……ちょっと、じっとしてて」
手にしたタッパーを地面に置き、浩人は彩花の胸に手を伸ばした。
握りしめた両手をワナワナと震わせ、彩花は身体を硬直させている。
遠慮がちに胸元を覗き込み、二つの乳房が窮屈そうに治まった白いスポーツブラジャーの中に蠢くピンク色のミミズを捉えようと、浩人は二本の指を滑り込ませた。しかし危機を察したミミズは、奥へ奥へと潜り込む。
「あっ……はぁ、はぁっ……はっ、はやくっ!」
彩花が、ぶるっと身体をわななかせた。頭に血が上るのを自覚しながら、浩人はなお深く指を入れ隙間をまさぐった。指を動かすたび彩花の身体は震え、乳房がじわりと汗ばむ。
こんなところを誰かに見られたら? ちらりと考えて、浩人は素早く辺りを見回した。
幸いなことに平日早朝の家庭菜園に人気はなく、少し離れた道路に犬を散歩させる老人の姿が遠く見えるだけだ。
それでも辺りに気を配り、ようやく引っ張り出したミミズを浩人は土に放した。
「もうっ、サイテー! ヒロのエッチ!」
びしっ、と、彩花の平手打ちが浩人の左頬に決まった。衝撃でよろめいた体勢を、かろうじて立て直し浩人は彩花に挑みかかる。
「何すんだよっ!」
頬を紅潮させた彩花は、胸元を押さえ涙目でじっと浩人を見つめた。そして何も言わずに踵を返し、唖然とする浩人を残して走り去った。
「なんだよ、ちぇっ……」
小学生レベルの悪戯に、迷惑な訪問者は呆れて帰るはずだった。
予測不能な事態に狼狽え、つい言われるがまま胸に手を入れてしまったが、相手が彩花だから出来たことかも知れない。他の女子なら絶対に無理だ。それ以前に、ミミズを投げつけるような事はしない。
憤りが収まると、浩人はしゃがみ込んでタッパーを手に取った。するとタッパーの影に隠れていたミミズが、大急ぎで土の中に潜り込む。コイツも自分も、とんだ災難にあったと苦笑した浩人の頭に、生々しい記憶が突然蘇った。
柔らかく暖かな、彩花の胸。愛しいオオカマキリの腹と同じ、絹の手触りと感触。小さな喘ぎ、甘い匂い。
ドクリと、心臓が鳴った。
大量の血液が全身を巡り、過剰供給された酸素で頭がぼうっとなる。
「冗談だろ? 相手は彩花だぞ……」
沸き上がる官能的な妄想に必死で抵抗し、浩人は呟いた。
「ここで、何をしているの?」
突然誰かが耳元に囁いた。その瞬間、意識と心肺機能が蘇る。
「カッ、カマキリの餌、捕まえてましたっ!」
驚いて間の抜けた返事をしてしまった浩人は、慌てて声の主を捜した。
左隣に、一人の少女がしゃがみ込んでいた。裾が汚れないように、膝に巻き込んだグレーのボックスプリーツ。この制服は、近くにある私立女子高校のものだ。
「やっぱり……キミがカマキリオタクの暮林浩人くんね? ようやく会えた」
「あ、はい」
つい頷いた浩人に、少女は微笑みを返す。
初対面で、いきなり「カマキリオタク」呼ばわりされても不愉快に感じなかった。少女の白すぎる肌と鮮やかな唇、緑がかったガラスのような瞳に神秘的な存在を感じたせいかもしれない。
輸入雑貨を扱う母親の店で見た、ナイロンと陶器で作られたビスクドール。少女の美しさは、血の通った生身の人間と、かけ離れた存在に思えた。
ようやく会えたと少女は言った。浩人のライフワークを知った上で探していたのだろうか?
「そう、キミを探してた。私もオオカマキリ飼育してるんだけど、今年はいい雌の個体が手に入らなくて困ってるの。キミはどう?」
考えを読まれた驚きを隠し、浩人は飼育箱に入った『彼女』の姿を思い浮かべた。
「雌ですか、ボクはどちらかと言えば……」
言いかけた浩人は、続く言葉を猜疑心と警戒心から飲み込んだ。
これは何かの罠か、冗談ではないか? オオカマキリを飼育し、都合良く雌の個体を探している女子高生などいるはずがない。
「そうだよね、信用できないよね」
また、考えを読まれた?
「なら、うちの飼育箱を見に来れば? 今日の放課後、あいてる?」
「はぁ、まあ……」
「それじゃ夕方5時頃、ここに来て」
断る理由もない。
自分以外の人間が飼育するカマキリに興味もあって、浩人は小さく頷いた。
「もし私が遅れても待っててね。ところで時間大丈夫? 学校始まるよ?」
少女は自分の携帯電話を開き、時間を示した。
「えっ、あっヤバっ、遅刻する!」
鞄とタッパーを抱え走り出した浩人の背中を、少女の声が追いかけた。
「あたしは瀬名透子、W私立女子高二年生よ。夕方にまたね、暮林くん!」
振り返らず、浩人は走った。
走りながら頭の隅で、彩花と一緒の所を見られただろうかと考えていた。