〔11〕
彩花と一緒に職員室へ行き、カバンの件を学年主任に話した。猫が殺された事件もあって定年間近の学年主任は過剰に反応したが、長く引き留められることなく帰宅することが出来た。
彩花を家に送り届け自宅に戻った浩人は、カマキリ達に餌をやりながら考える。
何かが違う。
何かがおかしい。
何かが、ずれている。
この違和感はなんだろう? よく考えろ。
『アタシ……少し前からキミのこと知ってたわ。何度か声を掛けようと思ったけど、自信を持ってキミに見せられる個体が無かったの。だけど何百匹も犠牲にして、ようやく強くて大きくて美しい色艶の個体が完成した』
初めて透子の部屋を訪ねた時に聞いた言葉が、頭に蘇った。そうだ、最初に感じた違和感は、この部分だ。
『何百匹も犠牲にして、ようやく強くて大きくて美しい色艶の個体が完成した』
浩人はカマキリ達を愛している。共食いで強い個体を残すやり方を嫌っているし、思い通りの色にならなかった個体でも大事に飼育する。手当たり次第に海外の珍しい品種を集めたりもしなかった。外国のカマキリは、その個体が一番生活しやすい環境で生きるべきだ。捕獲して売りさばくという行為が、好きになれない。多少、飼育してみたい欲求はあるが、カマキリ達のことを考えれば写真やネットで我慢できた。
興味の対象が同じでも、一人一人の考え方は違う。そして同胞と理解者は、別物だ。
浩人に必要なのは、同じ研究者ではなく理解してくれる協力者だった。飼育に協力的な浩人の両親、没頭する物があるのは良いことだと認めてくれる担任教師、そして浩人の趣味を理解し気遣ってくれる彩花。自分には仲間がいないと、閉塞感に囚われていた。しかし今になって気が付いた、それは間違いだったのだ。
透子のやり方は、浩人と相容れない部分がある。得る物があろうとも、気持ちの中で区切りをつけなくてはならない。
透子に、会わなくては。会って意識の違いを確認し、お互いの気持ちを修正しなくてはならない。このまま付き合い続ければ、その先に何か良くない事が起こりそうな気がした。
翌日、浩人は学校からその足で透子の家に向かった。
不安だから一緒に帰って欲しいと彩花に頼まれたが、妙な焦燥感に付きまとわれ透子の件を優先した。幸いな事に、担任の教師が途中まで送ってくれる事になり、胸をなで下ろす。
この件が片付いたら、しばらく彩花と一緒に帰ろう。いや、しばらくと言わず、ずっと一緒でもいい。公園を横切りながら星が瞬きだした空を見上げ、浩人は苦笑した。いつの間に自分は、こんな事を考えるようになったのだろう。
透子の家の前にくると、玄関前に数台の車が止まっていた。窓は暗く、人の気配はない。少し離れた場所で、近隣の住人らしき数人が立ち話をしていた。様子がおかしい、何かあったのだろうか?
「あの、瀬名透子さんの知り合いなんですけど……家の方は留守ですか?」
四十代くらいの女性が驚いたように浩人を見ると、一緒にいた同じくらいの女性と顔を見合わせ顔を曇らせた。
「透子ちゃんの? そう……透子ちゃん、学校で急に具合が悪くなって救急車で運ばれたらしいんだけど……」
「えっ、どこの病院ですか?」
「以前、入院してたT大学病院じゃないかしら?」
T大学病院なら一番近い駅から二つ先だ、行けない距離ではない。
礼を言ってから浩人は急いで家に戻り、最寄り駅まで自転車をとばした。頭の中は空っぽで、何も考える事が出来なかった。
T大学病院に着いたのは、 十九時少し前だったと思う。案内所で透子の病室を尋ね、入院棟七階のナースステーションで面会を申し込んだ。すると看護師に呼ばれて透子の母が、一番奥の病室から出てきた。
「暮林くん……ありがとう、来てくれて嬉しいわ。透子に会ってくれる?」
透子の母親は、寂しげな微笑みを浮かべた。化粧気はなく、まなじりが赤く腫れている。浩人の胸に重く冷たい鉛が沈み、息苦しさを覚えた。深く空気を吸い込んだ時、確信した事実に目の前が暗くなる。
白いベッドに横たわる透子の綺麗に整えられた髪、まだ薄く桜色の残る唇。長いまつげが落とす陰は、優しい眠りについた少女が、もう二度と目を覚ます事はないと語っていた。
涙はなかった。ただ呆然と、陶器製の美しい人形を見つめた。背中に腕を差し入れ抱き起こせば、パッチリと目を開けるような気がした。
透子の両親や、その場にいた何人かと話をした気がするが、覚えていなかった。気が付いた時には帰りの電車の中にいて、下車する駅を乗り過ごす寸前に飛び降りた。
帰宅してから日課の餌やりを機械的に済ませ、ぼんやりと『彼女』を見つめた。お気に入りの枝に逆さにぶら下がった『彼女』は、眠っているように動かない。生きているのか確かめたくなり枝を揺らすと、煩そうに前足のカマで宙を引っ掻いた。
大きく息を吸い細く吐き出すと、ようやく意識が現実に引き戻された。期待も、悩みも、不安も、リセットされてしまったのだ。透子に感じていた正体のわからない畏怖も、もう関係のない物になった。
安心したような、寂しいような感情が先にあった。悲しみや喪失感は、襲ってこない。それどころか、むしろまだ透子は生きていると思えた。ベットに横たわっていたのは、抜け殻だ。カマキリが脱皮するたび美しくなるように、より美しくなった透子がどこかにいる気がした。
飛躍した想像は、逃避なのかもしれない。認めたくないのだと思う。
携帯電話を開き、彩花に透子の死を知らせようとして思い留まった。彩花は透子を、まったく知らない。それでも少し、話がしたくてメールを打った。
『ばんわ、一緒に帰れなくてゴメン。今日、カマキリの飼育仲間と会う約束があった。明日は大丈夫』
すぐに返信が来た。
『しんじられなーい、何かあったら助けてくれるって言ったくせに! ! ! でもいいよ、許す。じつわ、明日、アタシに用事アリでママが迎えに来てくれま~す。ヒ・ミ・ツ・の約束なので話せないよ。明日の次の日に教えてあげるね! でわでわ、お休み~』
「なんだこれ、暗号か?」
謎の記号と絵文字が混じった文面を解読しながら、浩人は笑っていた。落ち込んでいた気分が和らぎ、様々な感情が払拭されていく。
しばらくは透子の件で考え込む事があるだろう。だが今夜は、彩花のメールのおかげで少し眠れそうだった。