〔1〕
『彼女』の繊細な場所に触れる時は、細心の注意を払わなくてはならない。
浩人は静かに息を吐きながら、指先に全神経を集中させた。
落ち着かせるように優しく、首から下へと這わせる指が身体で最も柔らかな部分に触れると、薄い皮の下に生暖かな液体が脈打つのが感じられた。
何度も何度も、愛撫するように繰り返しなぞる。すると『彼女』は身をよじらせ、浩人の指に噛みついた。
「そうそう、思い切り噛みついて……可愛いヤツだな。あっ、でも、あまり暴れると首がちぎれちゃうよ?」
絹のような手触りと、簡単に頸を引きちぎる事が出来る嗜虐的快感。心拍数が上がり、全身が高揚感に満たされていく。
「君は本当に綺麗だね……」
恍惚の溜息を吐きながら、浩人は『彼女』を眺めた。
透き通るように鮮やかな若草色の身体。逆三角形の小さな頭についたエメラルド色の瞳が、真っ直ぐに浩人を見つめている。悪戯心から長い触覚に息を吹きかけると、イヤイヤをするように鎌形に反った長い前足を動かした。
一辺が八〇センチほどもある飼育箱に注意深く『彼女』……雌のオオカマキリを戻し入れ、浩人はきっちりと蓋を閉めた。
飼育箱に置いた枝から逆さにぶら下がり、『彼女』は動かない。少し、疲れさせてしまったようだ。時折吹き込む心地よい風が遮光カーテンを揺らすと、筋状の光彩が薄暗い部屋の中に閃いた。そのたび驚いて『彼女』は首を巡らす。
何時間でも『彼女』を観察したい所だが、まだ今日の餌を与えていない事に気が付き、浩人は飼育箱を乗せてあるローボードから離れた。
リビングの冷蔵庫に入れると家族が嫌がるため、自分用に購入した小型冷蔵庫から鶏のササミと近所で捕まえたアゲハの幼虫を取り出す。小型のすり鉢で丁寧に練り合わせ、小さく丸めて丸薬ほどの肉団子を作った。
虫の羽に見えるようにセロテープを巻いたタコ糸に肉団子を付け、飼育箱の扉の隙間からそっと垂らして『彼女』の前で揺らす。すると今まで眠っていたように動かなかった『彼女』が、目にも留まらない早さでカマを使い肉団子を捕らえた。
「たくさん食べろよ、明日は生きたショウリョウバッタかコオロギを持ってきてやるからさ。そろそろ良いオスの個体も探さなくちゃ」
この雌カマキリは、通常の個体より一・五倍大きい。小学六年生から始めたカマキリの飼育だが、ここまでするのに掛け合わせと特別な餌で三年かかった。
幾つかの肉団子を『彼女』に与えてから、残った餌を本棚に並べた十二個の飼育箱に少しずつ落とす。
百円ショップで買ったアクリル製飼育ケースに保湿用ペーパーを敷き、五匹ずつのオオカマキリを入れてあるのだ。割り箸で少しつついてやると、生きた獲物と錯覚したカマキリが群がり餌を食べ始めた。
「あれっ、このケース一匹足りない。ああ……共食いしちゃったのか、餌は足りてたはずだからストレスかな? 可哀想に」
箱底に散乱する足や羽を丁寧に取り除きながら、飼育ケースを増やすべきか何匹かを外に放すか思案する。共食いで強い個体を残すやり方を、浩人は好かないからだ。
どの個体も同じように可愛いし、同じように愛しい。
浩人は口元に笑みを浮かべ、愛しいカマキリたちの旺盛な食欲に魅入っていた。触発されて、浩人自身も空腹感をおぼえる。時計に目を向けると、午後8時になろうとしていた。
冷たくなった風と、『彼女』の心を乱す虫の音を遮るため窓を閉めた。部屋が静かになり、一階のリビングで誰かが動き回る気配に気が付く。母親が仕事から帰って夕飯の支度をしているのだろう。部屋まで届いてくる匂いは好物の唐揚げだ、なおさら空腹感が増す。
いつもの決まり台詞、「帰ってきて勉強した? カマキリの世話ばかりしてたでしょ!」を覚悟して、浩人はリビングへと降りていった。