171 薬屋へ
「あ、えーっと、この格好は……?」
登山家のような格好のセトヤ・マサキ。家の中で一番大きなリュックを背負い、手袋、長靴を履かされている。さらには腰にノコギリをかけて準備万端だ。
「ゴホッ、もしもの、ゴホッ……もしものためです……」
用意周到なのは良いことなのだが、これはさすがにやりすぎだ。ネージュの過保護なまでの愛情がマサキの登山家のような格好に現れている。
「もしもって……薬屋さんに行くだけよな? ウサギレースの会場の近くの」
「そうです……ゲホッゴホッ……」
そうですの後の言葉を待ってもネージュの口から出てくるのは咳だけ。ネージュは本気でこのマサキの格好がベストだと思っているのだ。
これも約二週間前のマサキとネージュが離れ離れになった事件の影響か。そのせいで少し過敏になっているのかもしれない。
「兄さん。無事に帰ってきてガホッギホッグホッ……帰ってきてくださいゲホッゴホッッス……」
「事件に、ゴホゴホッ、巻き込まれちゃダメだぞーゴホッゴホッ」
心配の声をかけるダールとクレール。その言葉がフラグにならないことを信じながらマサキは、ビエルネスから渡されていた精神を安定させる抗不安剤のようなビエルネス特製の魔法の液体が入ったビンを手に取った。
同じタイミングでネージュもビンに手を取る。
一回分しかない魔法の薬。持続時間は約二十四時間。何度も魔法にかけられていることから、効き目が薄れ、持続時間が短縮しているかもしれない。
さらにマサキとネージュの距離が離れれば離れるほど魔法の薬の効果を上回る精神的不安が遅い、持続時間が現象するかもしれない。
それを踏まえてもなるべく早く帰って来なければならないのだ。
「なるべく早く帰ってくる」
「はいゴホッゴホッ」
マサキとネージュの二人は同時にビンのフタを開封し、ビンの口に口を近づけ、そのまま薬を飲んだ。
ゴクゴクと四口ほどで飲み終えるほどの量だ。いつものように効果が出ているのかどうかは実際何も感じていない。効果が出てるかどうか確かめるためにはマサキとネージュの二人が離れるしかないのだ。
「よ、よし……」
マサキはルナを頭の定位置にのせた。
「ンッンッ」
ルナは鼻をひくひくさせながらいつものように声を漏らす。しかし漆黒の瞳はやる気に満ち溢れていた。
「ゴホゴホッ、マサキさんを……ゲホゴホッ、よろしくお願いします」
「ンッンッ」
ネージュにマサキのことを託されたのだ。ルナも自然とやる気がみなぎって当然だ。
「がんばってね。ずびびびびびびび」
「ずびびびびびびびび」
布団にくるまりながら双子の姉妹のデールとドールもお見送りをする。
鼻から垂れ下がる鼻水。その風邪の症状は本当に辛く、今すぐにでも治してあげたいという気持ちになるほど。
「そ、そんじゃ……行ってくる」
「ンッンッ」
緊張の瞬間だ。
初めての買い物に緊張しているわけではない。マサキとネージュが離れることに対して緊張しているのだ。
一歩、また一歩、マサキとネージュの距離が離れていく。しかしまだ部屋の中。
一歩、また一歩、マサキとネージュの距離が離れていく。しかしまだ敷地内。
一歩、また一歩、マサキとネージュの距離が二メートル寸前まで離れる。精神が崩壊する寸前の距離だ。次のマサキの一歩で『死ぬほどの苦しみ』を味わうことになるかどうかが決まる。
(もう苦しい思いはしたくない……息が吸えなくて体が引き裂かれそうになって、心臓が握り潰される。そんな死ぬほどの苦しみなんて……味わいたくない……)
歩くのを躊躇うマサキ。しかし脳裏では風邪で苦しむ兎人ちゃんたちの姿が流れる。
咳が止まらないダール。鼻水が止まらないデールとドール。体温が熱く意識が朦朧としているクレール。風邪の辛さを隠しながらマサキの出かける準備の手伝いやジェラ三姉妹の布団の準備などを行ったネージュ。
そんな兎人ちゃんたちのためにマサキは一歩踏み出さなければならないのだ。
「薬の効果を信じてるぜ。ビエルネス!」
薬を作った張本人の名前を生茂る木々に向かって叫びながら、マサキは一歩踏み出した。
その瞬間、マサキの心臓が握り潰されるような感覚を味わう。
「うぐっ……」
死ぬほどの苦しみだ。そう頭をよぎったのは刹那の一瞬。痛みはすぐに消えた。
これはつまり錯覚。恐怖の錯覚だ。
痛みや苦しみを知っているからこそ、その痛みや苦しみを脳が勝手に想像してしまう錯覚。
マサキは自分の胸に手を当ててゆっくりと深呼吸をする。
「ンッンッ」
心配する愛兎の鳴き声がマサキの耳に届く。
「大丈夫……問題なかった。ビビったけど……」
体に異常がないことがわかり、マサキは振り返り心配の眼差しを向けるネージュたちに向かって手を振った。
振り返されるネージュの左手を黒瞳に映したマサキはホッとした様子で歩き出した。
マサキの異世界での初めてのおつかいの幕が開く。
目的地は兎人族の国にある薬屋。マサキは一度、ウサギレースの会場へ向かう際の通り道で薬屋の横を通ったことがある。なので場所は把握している。
何事もなければ一時間もかからずに到着するだろう。
天候は晴れ。青空には空の色と同化した小鳥が空を自由に羽ばたいている。なんとも清々しい天気なのだろうか。
「いつも見るけどあの鳥なんて名前の鳥なんだろうな……」
「ンッンッ」
「というか、誰も外に出てないな……疑ってはないけど、本当に兎人族だけの流行風邪なんだよな……店は営業してるっぽいけど、こんな状態だったら客来ないだろ……」
「ンッンッ」
「ま、薬屋は営業してないと困……おっとそれ以上はフラグになっちまうから言わないが……」
「ンッンッ」
薬屋に向かっている最中は、目に映ったものに対してとにかく何かしらの感想を発表するマサキ。終始ずっと頭の上にいるルナに話しながら歩いている。
ルナも言葉を理解しているかのように、しっかりとマサキの言葉に返事をしている。その返事のおかげでマサキは寂しさを誤魔化しながら楽しく目的地に向かうことができるのだ。
「というかさ、ノコギリいや、稲妻まで持たせてネージュは心配性だよな……」
「ンッンッ」
マサキの腰にかけてあるのは愛ノコギリの稲妻。探検隊のロシュの協力のもと道具屋のレーヴィルに作ってもらった思い出のあるノコギリだ。
「ま、こうして腰にかけてると冒険者みたいでワクワクするけどな。というか俺の知ってる異世界転移とか異世界転生ってほとんど冒険に出てるよな。そんで魔王とか魔獣とかと戦って……すごいよな。ルナちゃんもそう思わないか?」
「ンッンッ」
「だってさ、剣も持ったことなくて魔法も使ったことないのに……経験値ゼロの状態で戦うんだよ。虫しか殺したことないのにでっかい魔獣とか、なんなら人とかも殺したり……俺には無理だな……そんな主人公みたいなやつとか、闇落ちして敵になったやつとかにはなれないな……どっちにもなれないただのモブ。そ、それはそれで嫌だな……」
「ンッンッ」
「欲張れば欲張るほど足元すくわれるからな。夢だけを求めてみんなと一緒に平凡な異世界スローライフを送ろうか。いずれ来たる戦争とかの予言も外れるかもしれないしな」
「ンッンッ」
「俺のいた世界だと。世界が滅びるとかって予言があったけど、実際何も起こらなかったんだよ。そん時の俺は世界が終わるんだったら何もしなくていいやって、勉強とか全くしなくなってさ……そんでテストで最悪な点数取ってたわ」
「ンッンッ」
ルナと二人きりということでマサキは初めて故郷の日本に関するトークをする。
マサキは異世界転移したことを誰にも話していない。さらには兎人族の神様アルミラージ・ハクトシンに会ったことも話していない。そして『いずれ来たる大戦争』についてもだ。
隠し事が多いマサキは、イングリッシュロップイヤーのルナにだけ本音で心から思っていること全てをさらけ出して話をすることができるのだ。
「だから案外信じすぎるのもよくないかなって。もちろんいつでも動けるように心の準備はしてるつもりだけどね。でも『いずれ来たる大戦争』だなんて平和しかしらない俺からしたら想像もできないんだよな。実際、世界が滅びるとかの予言の時もふわっとしか想像できてなかったような気がする」
「ンッンッ」
「とりあえず平和が一番。『いずれ来たる大戦争』が起きたとしてもすぐに解決。もしくは白き英雄たちが未然に防いでくれればオッケーだよな」
「ンッンッ!」
マサキは頭の上にいる話を聞いてくれたイングリッシュロップイヤーのもふもふの背中を撫でる。
ルナは撫でられるたびに「ンッンッ」と、いつものように声を漏らす。
(手袋外したい……)
マサキはネージュに強制的に付けられた手袋のせいでルナのもふもふを直に感じられずに嘆いていたのだった。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。
マサキのうちに秘めた秘密を知るのはルナちゃんしかいないです。
ルナちゃんが理解しているかどうかは不明ですが、ちゃんと返事してます。
作者が昔飼っていたウサギも「ンッンッ」と返事してくれてて可愛かったです。
というか終始作者がそばにいると「ンッンッ」と鳴いてました。
猫でいうところの喉を鳴らす的なやつですかね。
とにかく鳴いてるウサギは可愛い。さらに返事をするウサギは可愛い。つまりルナちゃんは可愛い!




