第七話 マーリオ氏の初恋
春から初夏に移り変わる、青葉が芽吹く爽やかな午後。その逞しい体躯に制服を纏い、颯爽と廊下を歩く一人の男子生徒がいました。
輝かんばかりの金髪に、鮮やかなサファイアブルーの瞳をもつその生徒の名は、マーリオ・ビスコンティーヌと言いました。
公爵家の嫡男として生を受けた彼は、頭脳明晰、文武両道と生徒の見本となるような生き方を貫いていました。そんな彼には学園を卒業した後の進路すらすでに決まっていたのです。
嫡男として公爵家を継ぐ傍ら、武官として城へ出仕する事。
当時は隣国バロッサの動きが不穏な事もあり、優秀な者は貴族から真っ先にその人生を決定付けられていたのです。
それは名誉な事と同時に、死に方すらも定められているのと同義でした。
マーリオの心は鬱屈としていました。武官の道を進んでいく毎に、その名に恥じぬよう更に身の振り方に気をつけなければならない。尚更周囲の人間に、彼の本心を告げる事が出来なくなるのですから。
身体は青年———けれど心は砂糖細工のように甘やかな乙女を宿した彼は、自分の事が大嫌いでした。筋骨隆々で引き締まったこの身体も、異性を惹きつけてやまないこの男性的な麗しいかんばせも。皆が羨んでやまない彼の持つもの全てが、皮肉な事に、彼の理想を邪魔する枷となっていたのです。
そんな彼が図書室の前を歩いていた時、彼は運命の人と出会います。いつもはきちんと閉められている扉が、今日は珍しく、少しだけ開いている。何気なく室内を覗いたマーリオは、一瞬、目を奪われました。
そこには一人の男子生徒がおり、本を読んでいるところでした。
鮮やかな緑の葉が風に揺れる窓辺を背景に、室内にはページを捲る音が響きます。彼が佇むその光景は、まるで一枚の絵画を見ているように思えました。
男子生徒は一見すると地味な部類の人間でした。ですが、彼の穏やかな心根が滲みでているからでしょうか。柔和な表情をしながら、口元には緩く笑みを湛え、じっと書物を読んでいます。茶色の落ち着いた髪に、銀縁眼鏡の奥には若草色の優しそうな瞳が宝石のように輝いていました。
まるで、この場所で本を読めるのがなによりも楽しくて仕方がないのだと言わんばかりの彼の様子に、マーリオはしばし、見惚れてしまいました。
どうしてこんなにも、この男子生徒に惹かれるのでしょうか。胸を擽るようなこの気持ちにマーリオは戸惑いました。男子生徒を見かけたのは今日が始めてです。なによりも彼の穏やかな相貌に、マーリオの心は深く射抜かれました。
ああ。彼は一体誰なのだろう。せめて名前だけでもわかればいいのに。
いつもは気負う事なく誰とでも接する事ができるマーリオですが、この空気を壊してしまうのが怖くて、彼に話しかける事ができそうにありません。
黙っていても、自然と周囲の人間を引き寄せてしまうマーリオは、自分から誰かと仲を深めるような真似をした事がなかったのです。
時間だけが刻一刻と過ぎていき、やがて、男子生徒は席を立ちます。気がつけば、辺りはすっかり日が傾き、室内な夕焼け色に染まっていました。
図書室の入り口へ———こちらに向かってくる男子生徒とすれ違いざま、マーリオの視線に気づいた男子生徒は、親しげな眼差しを向けて微笑みました。
ただ、それだけ。他に何か特別な事があった訳ではありません。
恋に落ちるだなんて、自分には縁の無いのもだ。そんな機会など未来永劫訪れる筈がない。そんなふうに思っていたマーリオの心を溶かすには、充分すぎるほどの出来事でした。
その日を境に、マーリオは足繁く図書室へと通う事となります。もちろん、あの男子生徒と会う為に。彼との間には会話だなんて必要ありません。
ただ彼の隣に座り、古い本の匂いや、遠くから聞こえる生徒達の声を感じながら、この穏やかな時間を彼と共有する。ただそれだけの事が、マーリオにとって至福の時間だったのです。
数ある席の中、いつも自分の隣に座るマーリオに気づくと、男子生徒は俯いていた顔をあげ、あの吸い込まれてしまいそうなほど澄んだ瞳で、こちらを見上げて小さく会釈をしては、穏やかな微笑みを向けてくれます。それからすぐに視線を落として、再び読書に没頭していくのです。
彼とは話をした事はありません。なにを話していいかわからなかった上に、マーリオは自分の中に秘めたこの思いをどうして良いかわからなかったのです。
男子生徒の方もおおらかな人柄なのか、ただ静かに受け入れるのみで、自分から話しかけるタイプではないようでした。 ……いいえ。もしかしたら、身分が上のマーリオに気を使っているのかもしれません。
マーリオ・ビスコンティーヌという名を知らぬ者はこの学園にはいませんでしたし、公爵家である自分よりも身分が上の者など、従兄弟の王太子ぐらいしかいなかったのです。
ですが、それでも良いのです。
なぜなら、マーリオは彼と同じ空間にいるだけで、この上ない幸せを感じていたのですから。
しばらくそんな平和な日々が続くかと思われました……が。幸福は長く続きませんでした。男子生徒と過ごす時間が一年程経過した頃、隣国バロッサからの使者が王城に訪れたのです。使者は書簡を渡し、バロッサ王からの言葉を伝えます。
『周辺国を傘下に取り込み、バロッサをより大きく堅牢な国とする。速やかに支配下に降れ。従わなければ、其方の国は滅びを迎える事となるだろう』
それは到底話し合いとは呼べない一方的な侵略を意味していたのです。
もちろん王を始め、国の有力な貴族達は異を唱え、これにより隣国バロッサとの戦争が始まる事となります。
戦地にはマーリオの姿もありました。学業どころでは無くなった彼を含めた幾名かの子息は、一足先に学園を卒業し、既に軍部へと下っていたのです。
結果は誰もが知るように、英雄マーリオの功績により、我が国は見事、勝利を勝ち取ったのです。 ……毒杯を煽ってしまった、マーリオの命と引き換えに。
ですが、身体が活動を止めるその瞬間、マーリオは強く後悔したのです。
———ああ。あの時、どうして自分は、彼に話しかけなかったのだろう。
———彼に嫌われるのが怖かった。失望されるのが怖かった。全ては自分の弱さのせいだ。 ……けれど、勇気を出して踏み出せていれば、彼との関係も変わっていたかもしれないのに。
おかしな事に、戦場で感じた恐怖や忍び寄る死の気配よりも、図書室で同じ時間を過ごすあの男子生徒に嫌われてしまう事の方が、マーリオにとっては酷く恐ろしいものだったのです。
戦争が終わった後に、彼と会う事はついぞ叶いませんでした。
———せめて、一度だけ。
ひとめだけでも良いから、もう一度、彼に会いたい。
そう思っていたからでしょうか。やがて命の輝きを失った身体から、マーリオの魂はゆらゆらと浮上していきます。気がついた時には、マーリオは学園の図書室に佇んでいたのです。
自身の強い後悔に縛られて、その場から抜け出す事すら叶わない。男子生徒の安否すら掴めぬまま、マーリオは長い長い年月を、ほとんど人の訪れる事の無いこの場所で過ごす事となります。
そうしてマーリオは、共に過ごした男子生徒の名を知る事も無いまま魂だけが取り残され、40年にも及ぶ孤独の中、図書室に囚われる事となったのです。