北への旅立ち
王城の一角にあるギーゼルの部屋で、ハルトは家を出て以来のまともな食事と温かい風呂に入ることができた。居慣れない場所で知らない人間に囲まれることを考えれば、ベールカン国に仕える貴族が城に各自の部屋を割り当てられていることは幸いといえた。
風呂で旅の垢を洗い流し、服に着替えたハルトはすっかり生き返ったような心地で暖炉の前の椅子に座った。満腹になったのもあって眠気に襲われる。
すると、奥の部屋からギーゼルが出てきた。手には一振りの長剣を持っている。
「ほら、こいつを持ってみろ」
剣をハルトが鞘から抜いてみると、よく手入れの行き届いたロングソードが現れた。装飾は無く、以前武器屋で見た通常のロングソードよりは少し細目に見えるが切れ味はかなり良さそうだ。
「俺の家に伝わる家宝だ。別段特別な力があるわけじゃあないが、良い剣だぞ」
とギーゼルは言った。
ハルトは立ち上がると剣を数回振ってみると、確かに、まだ若く長剣を使ったことは無いハルトでも使いこなせるくらいに軽い剣だった。
「そいつをおまえにやろう。俺からの餞別だ」
ハルトは驚いた。家宝と聞かなくても、その剣が名剣なのは見ただけで明らかだった。簡単に人にやったりできるような代物では無いはずなのに…
そう口に出す前に、ギーゼルはハルトの肩に手を置いて言った。
「本当は、俺自身がおまえについていこうと思っていたんだ。だが、ガリエナ殿の占いにああ出たというからには、俺がついていくわけにはいかん。代わりに、その剣を持って行け。きっとおまえを助けてくれるはずだ」
「ギーゼル……」
ハルトは思わず胸がいっぱいになった。
「ああ、ありがとう、ギーゼル……」
そうしている内に、国王の従者が鎧兜と盾を持ってきた。
鎧は各部の金属の板が身を守るようになっていた。小柄なハルトには大きすぎるように思えたが、実際に身につけてみると、しゅるしゅると縮みハルトの身体にぴったりの大きさになった。しかも、普通の鎧は何十キロもの重さがあるはずなのに、この鎧は普段着を着ているのと同じくらいの重さしか感じない。驚いていると、ギーゼルが説明してくれた。
「こいつは魔法の鎧だからな。普通は鎧の隙間から攻撃を受けないように、下に鎖かたびらというものも必要なんだが、こいつは魔法で守られているから、それも必要ない。熱や寒さからもおまえを守ってくれるぞ。これまで皇太子殿下を数々の戦いから守ってきた、すばらしい防具だ」
そこに兜をかぶると、ハルトは全身銀色に輝く戦士になった。やはり兜も鎧と同じように、ほとんど重さを感じなかった。
盾は直径五十センチほどの円形で、後ろに太い革のバンドがついていた。それで必要のない時には、荷物にくくりつけて持ち歩けるようになっていた。そして鏡の盾という名前の通り、磨き上げられた鏡がはめ込まれていて、のぞき込むと顔がはっきりと映った。
「その鏡は魔法が掛かっているから割れる心配はしなくていいぞ」
最も奇妙だったのは両手に装備する篭手だった。通常のものとの違いは一目瞭然で、全体の甲の部分がくり抜かれたようになっているのだった。そのため、両手の紋章が隠れることは無く『世界樹の根』の力を使うのに支障が無いようになっていた。
一通りの準備が整ったところで、ハルトは再び椅子に座った。なんとなく、ほっとした思いだった。
ギーゼルが言った。
「他の荷物はこっちで確認して、明日までに補充しておいてやる。馬も城の下男が特に念入りに世話してくれているから問題ない。他に何か気になることはあるか?」
ハルトは首を横に振った。ここまで準備してもらえば、もう十分という気がしたからだった。後はもういよいよ旅立つだけ。鎧を外し、寝間着に着替えたハルトはギーゼルに一晩だけ借りたベッドに入った。と、思うや否や、たちまちの内に眠りに落ちたのだった。
本当に、あっという間のことだった。無理も無い。ハルトは王城につくまで何日も野宿の旅を続けてきた上に、今日は一日中、緊張の連続だったのだから。
それを見ながら、ギーゼルはしみじみとつぶやいた。
「また明日からつらい旅が始まるんだな……。できることなら代わってやりたいが、勇者はおまえだからな。がんばれよ」
そして、ギーゼルは隣の部屋のソファーに横たわり、同じように目を閉じたのだった。
****
そして、翌朝。
ハルトは、ギーゼル、国王、占術者ガリエナと他数人の従者に見送られ、城を旅立った。
「それじゃあ、行ってまいります」
フルートは見送る人たちに向かって、馬の上から頭を下げた。
「よろしく頼むぞ」
と国王は言った。
「勇者殿に世界樹のご加護がありますように…」
とガリエナも道中の無事を祈ってくれた。
ギーゼルだけは何も言わなかった。ただ自分の剣を引き抜くと、目の前に高くかざす。それを見て、ハルトも背中からロングソードを引き抜き高くかざして見せた。暗い霧の立ちこめる中、二本の剣のまわりだけは、ほのかに輝く光に包まれているようだった。
フルートは黙って頭を下げると、剣を鞘に収め、馬の頭を巡らして進み始めた。
はるか北西の彼方にあるという、北の山脈、スヴォルト山脈を目指して――
プロローグ、終了です。