異様な濃霧
その日、自分のベッドで目を覚ましたハルトはひどく違和感を覚えた。気のせいかと最初は思ったが目が冴えるにつれその原因が分かった。
毎朝のように顔に差し込む普段通りの朝日が今日は無く、まるで夜中に目覚めたかのように部屋が真っ暗だったからだ。ハルトの部屋は東向きの上窓の側に木や家があるという訳ではないため、それが変わることはあり得ないはずなのに...
(なんだ...、今日は、雨なのか?)
首をかしげつつ考えながら窓を開けたハルトは、窓を開けて外の景色を見て驚いた。窓の向こうでは見渡す限りに薄暗い霧が立ちこめていて、見通しがまるできかない。まるで、どこからか黒い煙が大量に流れ込んで来たかのようだが、煙の匂いもしなければ、煙たくもない。手の伸ばして見れば、やはりそれは細かな水の粒でできた霧なのだった。
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ハルトは大急ぎで普段着に着替えると、部屋を飛び出した。
玄関の前では、ハルトの母親が困惑した顔で立ちつくしていた。家の前には、先ほども見た黒い霧におおわれた林が広がっている。まばらに生える木や茂みが、ひときわ濃い影の塊のように見えていた。
「母さん、これはなんなんだ?」
「私にもわからないわ。こんなものを見るのは私も生まれて初めてよ」
ハルトの問いに、母エリーは頭を振って答えた。
「...お、親父は?」
「牧場に行ったわ。牛たちがこの霧に怯えているかも知れないからって。気味が悪い…まったく、何が起こってるの.......?」
エリーはそう言って、また頭を振った。
ハルトはもう一度霧の中に手を伸ばしてみた。やはり手が薄黒くかすんで見える。それはただの水というより、むしろまるで闇が空気の中にとけ込んで、世界を飲み込もうとしているかのよう。得体の知れない不安が、胸にわき上がってきて……。
とたんに、ハルトははっとした。剣の師だったギーゼルが昔言っていた邪悪なもの。ここしばらく思い出しすらしていなかった話が頭をよぎる。泉の精も言っていたように、いよいよ敵が姿を現そうとしているのかもしれない。だとしたら...
「母さん、俺、ちょっと町のギーゼルに会いに行ってくる!」
そう言うやいなや、ハルトは返事も待たずに、町に向かって走り出していた。
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ハルトはハミニジの町の中を駆け抜けていった。ギーゼルの家の場所は、少し前に既に人から聞いており、行こうと思えば一人でも行くことは出来たのだった。
道ばたの家々には灯りがともり、近所の人たちはそれぞれに窓や家の門口から顔を出し、黒い霧に覆われた外の景色を不安そうに眺めていた。詰所の前を通りかかると、数人の憲兵たちが篝火を準備しているところでした。憲兵は走っていくハルトを見て言った。
「おおい、どこに行くんだ、ハルト! 今日の学校は休みになったんだぞ!」
けれども、ハルトは立ち止まることなく走り続けた。町長家の前ではもう大きな篝火が燃えていて、大勢の人達が話し合っていました。得体の知れないこの不気味な霧について相談している。けれど、彼らにも霧の正体が何なのか、どう対処したらよいのか、見当がつかないでいるようだった。
やがて、東の空に太陽が見えてきた。黒い霧の中に浮かぶ、真っ黒な太陽。まるで霧が太陽まで黒く染め上げてしまったようで、見ているだけで不安になる光景だった。
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かつてギーゼルが住んでいた家に着くと、ハルトは入り口を激しく叩いた。
「ギーゼル!おおい、ギーゼル!」
ところがやはり返事はなかった。ドアノブを回すと、きしみながらドアが開く。この家には鍵はかかっていなかったのだ。中へ入っていくと、中は真っ暗で、ギーゼルは今日もどこにもいない。
ハルトは立ちつくし、ため息をこぼした。この状況を説明できるとしたら、それはギーゼルしかいないような気がしていたのに……。
「こんな時になってもまだ戻ってこないのか…」
つぶやきながら、部屋のランプに火をつける。柔らかな黄色い光が広がると、フルートは少しほっとした気持ちになった。
すると、テーブルの上に置かれた一通の手紙が目に入った。全くほこりは被っておらず、どうも最近置かれたものらしい。その封をした羊皮紙の上を見ると、ギーゼルの文字で『ハルトへ』と書かれていた。藁にもすがる気持ちで封を切って読んでみると、中には妙にしっかりしたインクでこう書かれている。
『以前、俺は火急の用で急に出かけなくてはならなくなった。俺はもうすぐ戻ってくるから、おまえは自分の家で待っているように。家の裏におまえのための馬がつないである。つれて帰って置いてくれ。 ギーゼル』
ハルトは再び不安な気持ちに襲われた。どうにも、ギーゼルはすぐには戻ってこないような気がした。やはりどこかで何かがうごめきだているようで、胸騒ぎがしてきてハルトは思わず胸に手を当てた。
すると、手が徐々に熱を帯びていることに気付いた。袖をおろすと、かつての日々以来もずっと訓練を欠かしていなかった紋章が覗く。その紋章は、明らかにランプの光とは違う光を放っていた。穏やかで澄み切った金色の輝き。それを眺めるうちに、ハルトの心はだんだんと落ち着いてきた。
「とにかく、焦ったってどうしようもないんだ。ギーゼルの言うとおり、待っていよう」
ランプを持って家の裏庭に回ると前来たときはいなかった生き物がいた。
馬小屋の中につながれた、手紙の通りの栗毛の馬。暗い霧に不安そうな様子をしていたが、ハルトが近づくと、嬉しそうに頭をすり寄せてきた。
だが、ギーゼルの分の馬はいない。やはりこの町には彼はいないようだった。