プロローグ
ここはベールカン国の北部にある、ハミニジの町。
町はずれのそこそこ立派な、しかし古い一軒家の裏庭から、鋭い声が響いていた。
「やぁぁっ!!」
チャリン、カキーン……!
剣と剣がぶつかり合う音が重なり合う。裏庭では、中年の男とやや幼さの残る少年が戦っていた。
男は手足や顔にあちこち傷跡の残し全身黒尽くめの服であり、子ども相手でも容赦なく大剣をふるう。
少年の方は金髪に赤い目、小柄でわんぱくそうな顔をしており、戦う姿はなかなかに勇敢。相手の剣をかわすや、右腕の甲を発光させると隙をついて至近距離に飛び込み、勢いよく切り上げる。
中年男が、おっ、と声を上げて、とっさに剣で受け止めた。と、男の剣がはじき飛ばされ、宙で一回転して切っ先から地面に突き刺さった。
少年はさらに踏み込み、男の喉元に剣を突きつけた。
うぅむ、と黒尽くめの男はうなり、両手を上げました。
「まいった。ついに一本取られたよ。」
少年は、それを聞くと、にやっと笑って剣を鞘に収めた。
少年が、大怪我を負った父親のために魔の森へ行き、泉の精から両腕の紋章を受けとったのは、今から二ヶ月ほど前のことだった。その紋章には、いかなる病気や怪我でも治せる不思議な力があるのだった。紋章のおかげで少年の父親は一命をとりとめることができた。そして、同時に少年は、この世界に邪悪な闇が迫っていること、自分がそれと戦うべき紋章の勇者に定められていることを知ったのだった。
「しかし、本当に腕を上げたな」
と黒ずくめの男が言った。ギーゼル、というのが彼の名前。
元はとある高位貴族に仕える騎士であり、王城の占い師の予言を受け、このハミニジの町で勇者の誕生を待ち続けていたのだったが、少年がその勇者だと知ってからは、毎日紋章の力が回復するごとにこうして剣の稽古をつけてくれていた。
「しかし、紋章の力込みとは言え、たったの三ヶ月でこの俺と互角に戦うまでに成長したんだから、まったく驚きだ。こう言っちゃあなんだが、俺も城じゃあ指折りの剣士だったんだぞ…。いくら才能があっても、普通なら、ここまで上達するのに短くて十年はかかるところなんだが…。」
ギーゼルに言われると、少年は、ちょっと考え込んだ。
「多分、泉の精が助けてくれているような気がするんだ……。紋章を通じて力が送られてくるような感じがすることがあるから…」
そう言うと、右腕の袖の内側にまで伸びる紋章を引き出した。草と花を刻んだ黒い縁取りの、複雑な入れ墨が刻まれている。それこそが、世界にたったひとつしかないという、強力な魔法紋章なのだった。
「それはしまっておけ」
とギーゼルは厳しい声になった。
「今はまだ紋章の存在を明らかにするような時期じゃない。ただでさえ、そんなに高価そうな成りをしているんだ。誰かに狙われたりしたら面倒だぞ」
そう言われて、あわててまた紋章を袖の内側に隠した。
ハルトがこの紋章を持っていることは、ギーゼルと少年の両親、それに、一緒に魔の森に行った弟のブワロだけしか知らない秘密だった。あらゆる怪我や病気を治す紋章があると世間に知れたら、大騒ぎになってしまうから。父親が瀕死の状態から奇跡的に回復したのも、旅の僧侶が通りかかって、気まぐれで癒しの魔法をかけていったのだろう、ということになっていたのだった。
「だがまあ」
とギーゼルが地面に刺さった剣を抜きながら言った。
「いくらそこそこ強くなったと言っても、おまえはまだまだ子どもだからな。実際の戦闘になれば、体が大きくて力の強い大人のほうが断然有利だ。数に限りがある以上、今のように紋章を使って切り抜けようにも、大勢の敵に捕まって使い切ってしまえばどうしようもないぞ。あと数年経って、成人したおまえが一人前の体つきになれば、向かうところ敵なしと言ったところになるんだろうが…」
「数年か……」
少年は顔を曇らせる。
泉の精は、世界のどこかでもうすでに邪悪なものが動き出していると言っていた。そんなに長い時間をかけていてだいじょうぶなのだろうか、と考える。
すると、ギーゼルが肩を叩いて言った。
「そうなったとしても、重要なのは良い武器と防具を揃えることだ。今はショートソードを使っているが、成人した後はロングソードのほうが戦いには有利だ。イラーグの町に行って、立派で扱いやすいロングソードを見つけてやろう。明日、学校が終わったらうちに来い。行って帰ってくるので往復一週間はかかるから、ちゃんと親に断ってから来いよ」
「え、明日もうイラーグに行くのか!?」
少年は目を輝かせました。この町の子どもにとっては、近くイラーグの町に出かけるというのは、特別楽しみなことだった。
そんな顔を見て、ギーゼルはちょっと笑った。
「小遣いを持ってきてもいいぞ。向こうにはなかなかに旨いものを食わせる店もあるからな。せいぜい楽しみにしていろよ」
「うん! ……じゃないな、はい!」
わくわくしながら返事をする。勇者といっても、まだたった十二歳の子どもだった。大きな町に並ぶ店や珍しいもの、楽しいものを想像して、嬉しさで胸がはち切れそうになる。
「よし、そんじゃあ、明日の昼過ぎに出発だ。おまえさんの馬は俺が準備しておくからな」
とギーゼルは笑いながら言った。
けれども。
2人がともに町へ行くことは、ついにできなかったのだった。
そして少年と男が剣の訓練をすることも無くなってしまったのだった。