1-1 見た目によらないことなぞ、腐るほどある
初稿:20/03/30
挿絵話数移動:20/06/06
まだ夜が明ける前。うめき声と共に目を覚ました私は洗面所にいた。
歯を磨きながら寝ぼけ眼を開ければ、鏡に映る目つきの悪い少女――つまりは私がいた。
赤毛の髪は寝癖でボサボサ。伸びる手足は細く、ぺったんこの胸は完全にお子さま体型で、もう十五年以上は変わらない姿にはうんざりもしてくるが、その鬱屈した感情を冷水で顔とともに洗い流せばすぐにいつもどおりの自分が戻ってくる。この寝起きの良さと切り替えの早さは私の数少ない美点の一つだろう。
そのまま濡れた髪を手早く温風術式で乾かしてアップにまとめる。ダークグリーンの特注サイズの制服に袖を通し、胸元に階級章をつける。最後に制帽をしっかりと被ると、一週間分の荷物が詰まった大型の茶色いアタッシュケースを掴んで階段を降りていった。
まだ寝ているはずのサマンサのためにキッチンテーブル上にいつもどおり書き置きをして外へ出ると、早朝の冷たい空気が肌を刺した。
「さて、毎週毎週面倒だが――行くとするか」
制帽をかぶり直し、もう一度大きく息を吸い込む。
制服に包まれた肉体に刻まれた術式回路。そこに魔素が流れ、脳内に記憶されてる魔法陣の数々から必要なものを起動させ、並列演算処理を行っていく。
瞳に熱が満ちていく。それを感じ取った直後、体が一気に空へと舞い上がっていった。
刺すような冷たい空気を切り裂き、遥か高くへ。そしてそこから南――私の平時の職場であるヘルヴェティア王国首都・ベルンへと私は飛んだ。
「……さすがに寒いな」
春は訪れたとはいえ、天気の良い早朝だ。ましてシュオーゼ大陸の中心に位置し、四方を険しい山々に囲まれたヘルヴェティアだからな。まだ雪が残るくらいには気温は低い。まして私がいるのはさらに上空だ。いくら私が寒さに強いとはいっても、上着を着てくれば良かったと今更ながらに後悔する。
口から出ていく白い息に時折目を遣りながら一時間も翔べば、徐々に東の空が白んできた。朝と夜の境が瑠璃色に、そしてまばゆい太陽が山々の間から顔を覗かせて眼下の自然が黒から新緑に色づく頃、ようやく目的地である首都ベルンの巨大な外門が見えてきた。
「おはようございます!」
「ああ、おはよう」
少し離れた場所へ着地し、朝早くにも関わらずピシッとした門兵と挨拶をかわしながら門をくぐっていく。そしてすぐ近くにある停留所から巡回バスに乗り込んだ。
最近配備が完了した新型術式エンジンを組み込んだそれに揺られること約十五分。バスは時々乗り合い馬車や自転車を追い抜いていきながら、やがて首都の北東部にある朝市広場の停留所に到着した。さらにそこから店主たちによる売り口上なのか喧嘩してんのか分からん声を聞きながら朝市の広場を通り抜けるとようやく職場の建物が見えてきた。
石造り二階建てのその白壁は薄汚れ、壁のあちこちが欠けていて、入り口に掲げられているのはハンドメイド感満載の看板。そこには汚い文字で「王国陸軍首都防衛本部警備警察大隊第十三警備隊」と書かれている。
「……まったく、毎度ながら面倒な通勤だな」
通勤時間、二時間。月から木までは首都で宿舎に泊まりながら軍警察として働き、週末はど田舎の教会でなんちゃってシスターとして怠惰に過ごす。この世界でこんな事をやってる人間はそう多くないだろうな。ま、これも仕方ない。我らが王子様との契約だからな。合意して決めた以上、義務は果たさねばなるまい。面倒だが。
「おはよう」
隊の詰所に入り挨拶をしてみるが反応はなし。見渡しても誰もいなかった。
「ふむ……少々早く着きすぎたか」
当直の隊員は仮眠中で、通常勤務の定時には少し早い時間だ。とはいえ、もう十数分もすればぞろぞろとやってくるだろう。かさばって邪魔なアタッシュケースを私の席に放り投げ、コーヒーでも入れるかとカップを手にとった。
と。
「あれ?」
奥の便所の扉が開くと、見覚えのない人間が一人出てきて私を見下ろした。
赤髪の短髪で、男ではあるんだが目がクリっとしている上に幼さが多少あるせいか小動物っぽい。背もそれほど高くなく、体つきも隊の連中に比べればだいぶ細い。一応軍警察の制服を着ているから、関係者だとは思うんだがな。
はて、誰だっただろうか、と記憶を探っていると、赤髪の男はニコニコしながら私に近寄ってきて腰を屈めた。
「お嬢ちゃん、どうしたのかな~? なにかご用かな?」
そして何をするかと思えば、私の頭を撫で始めやがった。しかも子どもと話すような喋り方で。
「その制服、すごいね。まるで本物みたいだ。お母さんに作ってもらったのかな? きっとお嬢ちゃんは軍警察が大好きなんだね。うんうん、気持ちは分かるよ。僕もそうだったからさ。でもね、ここは本物の軍警察の人しか入っちゃダメなんだ。ごめんね? 大きくなったらまたおいで」
……ははーん、読めたぞ。初見の人間がやりやがる典型的なこの対応。
これでももうこの街で仕事を始めてかなり経っているからな。軍や街の連中ならだいたい私のことを知ってる。となれば、もう選択肢は限られてくる。
「貴様、名と階級は?」
「ははっ、すごいすごい。結構サマになってるね。おっと、僕はノア。よろしくね。でもお嬢ちゃん、お友達にそんな言葉遣いしちゃダメだよ?」
メッ、という注意を聞き流しながら記憶を探る。ノア、か。初めて聞く名だ。やはりこの男、新人だな。ずっと人員を増やせと上に要求していたがそうか、やっと来たか。
「ん? どうしたのかな?」
しかし、私から要求しておいてなんだが、ガチの新人が来るとはな。一、二年でも経った若手軍人を期待していたが、まあ仕方ない。性格は捻くれていなさそうだし、街の人間受けは良いだろうからそこはプラスか。後は実戦で使える様にここで鍛えてやるしかないだろう。
それじゃあまずは、この新人の勘違いを正してやらねばな。
「おはようございます」
「ふわぁ……ちーっす」
とそこへ、私もよく知る隊員二人――アレクセイとカミルがやってきた。
アレクセイ・ゼレンスキー曹長は支度が楽そうな刈り込んだ黒髪で長身の男だ。いかにも無口そうな強面で、スラブ系の顔立ちの頬には古い銃創があり、古くから私と共に戦場を駆け抜けてきた人間である。
もう一人の隊員のカミル・イルカ伍長は南方系の血を引くため少々褐色がかった肌色の男で、灰色の前髪を上げている。あくびをしながら仮にも隊長である私に軽い調子の挨拶をしたように明るい性格でお調子者気質ではあるのだが、鼻頭にある十字の火傷痕が示すように彼もまた私の古い仲間である。
ちょうどいい、コイツらに確認しよう、と彼らへ向き直ると、向こうも机の影にいた私に気づいたようで、立ち止まって背筋を伸ばした。
「おはようございます、シェヴェロウスキー中尉」
「ういっす、アーシェ隊長。相変わらず今日もちっちぇな」
「ああ、おはよう。カミル、そういう貴様はまた少し腹が出たんじゃないのか?」
見た目通りアレクセイはかたっ苦しく、カミルは軽口を交えながら敬礼の仕草をしてくる。私も返礼をすると、後ろで口を開けて立ちんぼしてるであろう新人を指差して白々しく尋ねた。
「新人か?」
「そっ。先週の金曜だっけな? 隊長が帰っちまった次の日に配属されてきたんだよ」
「リッツ准尉、中尉にご挨拶を」
「え? あ? は? え?」
アレクセイが促すが、どうやら未だに事態が飲み込めていないようだな。間抜け面晒して私とアレクセイの顔を交互に見比べていたが、私が正面に立ってこれみよがしに左肩を揺らすとさすがに階級章に気づいたらしい。顔を真っ青にして、鯱張って敬礼を向けた。
「し、失礼しましたっ! じ、自分はノア・リッツ准尉であります!」
「准尉……なるほど、軍大学の卒業か」
「は、はい!」
「ようこそ、第十三警備隊へ。私はアーシェ・シェヴェロウスキー。この隊の隊長を任されている。
歓迎しよう、ノア・リッツ准尉。軍大学卒のエリートだというのに、こんな貧相な詰所で申し訳ないな」
「い、いえ! とんでもありません!
あ、あの……!」
「なんだ?」
「ち、中尉殿とは知らずさ、先程はし、失礼致しましたっ……!」
「なに、構わん。私も自分のなりが客観的にどう見られるかくらい理解している」
とはいえだ。いつどこで危険に巻き込まれるか分からん職場だ。ライフルでも穴に突っ込まれたかの様にピンっと背中を伸ばしたままのノア准尉のケツをすれ違いざまに軽く叩いて警告しておく。
「ただし――二度目はないぞ?」
人は見た目によらないことなぞ、この世界、腐るほどあるからな。