自己責任論の根本的な誤り
本当に不思議なのだが、自己責任論者は大抵が異様なほどに高圧的だ。
偉そうに振りかざす論理は、お粗末極まる代物であるにも関わらずだ。
自己責任論とはナニか? 単に『何もしない』を格好つけて言い放っているだけの代物である。何もする気が無いだけなら黙っておれという話だが、彼らは何もしないことが重要だみたいな信仰を持っている。そして、その根拠は単なる言葉の言い換えという循環論法以前の稚拙な論理だ。
彼らの論理構造は『問題が起きてる=怠惰』に収斂される。
基礎がどうしようもない代物なので、それを補強しようとしても、詭弁を並べ立てて循環論法に仕上げる程度の事しか出来ないのである。例えば、問題を抱えている人間には怠惰な人間がいるとか、同じ条件でも問題から脱した人もいるとかだ。
まるきりマルクス弁証法である。自己責任論者は、『怠惰』という言葉のマイナスイメージを最大限活用しつつ、その言葉の運用実態は『怠惰』という言葉の一般理解と完全に乖離しているのだ。おパヨクな人たちが、自分の要求を受け入れられない事を、『話し合いを拒否した』と喧伝し騒ぎ立てるのと全く一緒なのである。
『付加価値』という言葉を知っているだろうか? 自己責任論者は、経済において、売れない商品は”付加価値が無いから売れないのだ”という主張を行う。付加価値を付ける努力が足りないんだァ~という訳だ。だが付加価値、より正確にいえば『利益を産みだせる付加価値』について何かを言える自己責任論者など存在しない。
そもそも、人々は所得から消費を行うのであり、付加価値がどれだけあろうと、それを買う人間がいなければ利益はゼロだ。いや、付加価値を付けるべく努力すればした分だけマイナスが巨大化すると言うべきか。それで何を言い出すのかと言うと、借金してでも欲しい商品じゃないから~とか言い出す訳だな。その反対で老後に2000万貯めれないのは自己責任とか言ってる癖にだ。
つまり、『売れない=ゴミ』であり『売れている=付加価値がある』というわけ。
どう考えても、こういう言葉の言い換えに過ぎないのに、自己責任論者は更に詭弁の付け増しを行い自己正当化を試みする。それがGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)みたいな巨大グローバルIT企業が無いから~みたいな主張だ。
そんなもんは、訳の分からん技術者の訳の分からん思いつきに、カネを惜しむべきではない程度の意見でしかない。他に何を言えと言うのだ? 要するに、当たり馬券だけを買えば損しないという、クソ面白い意見に過ぎないのだ。
だいたい、こういう事を言う人間のどれぐらいが、認知度ゼロの新興企業の商品やサービスを、実際に知って買って使っているのだ? そんなに目端が利いて素晴らしく高いアンテナをお持ちなら、さぞ投資で稼がれた億万長者なのだろうなって話だ。有名になってから知って使ってみようかと思うのが大半だろう。
まぁ、そもそも自己責任論者の経済理解では、人々は、労働、物、サービスに適切な代金を支払ってる事になっている。そして、全ての貨幣はモノやサービスを買う為に存在しており、カネを得る為にカネを稼ぐという事は存在しない事になっている。つまり、全ての”価値ある存在”は売れているという前提が在るわけだ。
マクロ経済学の教科書をちゃんと見れば、そんな事は実際には書いていない。精々が、”マクロな視野において”最終的に市場はそのように再編されると述べているだけだ。だが実際は、商品・サービスの陳腐化によってアキレスと亀のパラドクスみたいな事になっている。まぁ~何十年も経ては、それらも平準化されるだろうよ。財務省の言う50年も経てばタンス預金も放出されるから貯蓄性向が高まる事は問題にならないみたいな主張と全く一緒だ。
結局のところ、彼らが自分たちが経済学の支援を受けていると思っている事柄は、病的に気の長い範疇においての話なのだ。なんともバカバカしい話だ。ケインズでなくても「最終的にみな死んでいる」と言いたくなる。
何においても、彼らの主張は変わらない。自己責任論者は糖尿病は自己責任論だと主張する。彼らは糖尿病患者は『不摂生』だからと主張する。具体的に患者と面談も生活内容も把握していないのに、どうしてそんなに偉そうに人を怠惰だなんだの言えるのか理解に苦しむが、彼らの脳内ではそのようになっている。
糖尿病という病気は、痩せている人間と太っている人間がいる。単純な病態理解に必要なのは、なぜ『痩せているか?』だ。そもそもが、自己責任論者の糖尿病理解では、痩せている糖尿病患者など存在しえないのである。何故なら、そういう糖尿病の多くは肥満細胞が原因によるインスリン抵抗性の増大に起因するからだ。
ある自己責任論者が言うには、痩せている糖尿病は予後が悪いから不摂生との事だが、心底ウンザリした。
痩せている糖尿病患者は重症である。当たり前だ、インスリンの分泌不全が原因で痩せているのだから。
彼らの不摂生観が心底バカバカしくなる例を提示しよう。アメリカ人だ。アメリカ人糖尿病患者の中には恐ろしく太っている人達がおり、肥満限界指数は間違いなく日本人を超越しているだろう。日本人がアレだけ太ろうと思うと間違いなく先にお迎えが来る。彼らの食生活は日本人から見て無茶苦茶であり運動習慣だって大差が無い。いや、電動車いすを常用しているのだから間違いなく低い。
理不尽な事に、このアメリカ人は痩せるとインスリンが必要なくなる可能性があるが、痩せてしまった糖尿病患者はずっとインスリンのお世話になる。この太りまくった糖尿病患者と痩せている糖尿病患者、どちらが『不摂生』なのか?
個々人の体質によって不摂生の定義が異なるのだ、と彼らは言うだろうな。勿論、それはその通りだ。だがこれを根拠に自己責任論を提示する事は、結局は全ての病気は自己責任であるという事にしかならない。おおよそ、全ての疾患はある程度の自己防衛が可能だからだ。心疾患、肝障害、脳血管障害、認知症や精神病に至るまでだ。
政治経済において、不景気とは椅子取りゲームの椅子が減少する事を指す。そして、そんな現象を歓迎する人間などは極少数でしかない。現実に、現首相は不景気からの脱却を提示して当選したのだ。無制限の競争原理の適用を公約に掲げて当選したのではない。『椅子取りゲームの椅子を増やそう』という大前提そのものに、勝手に異議を挟み捻じ曲げるなどあり得ない。
どう椅子を増やすべきか? という事を語らなければならないのに
それに対して、自己責任論者の提示する論理は、全てにおいて”ひとつのみ”だ。
それは「でも椅子に座れた人はいるじゃないか」というヤツだ。
自己責任論者が、赤の他人を、努力不足の怠け者で社会のクズだと好き放題に揶揄している根拠はコレだけなのである。恐ろしい迄の軽薄さだが、そりゃそうだろう、努力不足か否かなんて、実際の個別のケースを見なければ判断しようが無い。それを見ずに努力不足の認定をしようと言うんだから、全て一括でどちらかでしか認定しようがない。白だとカネがかかるから、全員クロという訳だ。
単に高圧的に振る舞いたいがゆえに、自己責任論を展開しているとしか思えない。
ハッキリ言って、自己責任論者はの思考構造は共産主義者のソレと大差が無いと思われる。彼らの言い分は、ソビエトの文化圧制なんて無かったと主張する輩と同じである事について、少しも気にし無いのだろうか?
ソビエトは文化弾圧なんてしていない。
なぜなら、ショスタコーヴィチみたいな世界が認める文化偉人がいたでは無いかという訳だ。
そもそもだ、「椅子に座れた人がいる」のは当たり前の話だ。「誰も椅子に座れなかった」という想定がどれだけあり得ない話か理解しているのだろうか? 実際にそんな風にペンペン草一本も生えない不毛の世界になった時に、自己責任論者はどうするのだ?
どうもない。どうしようもないし、ど~せ適当に言い訳を並べ立てて自己正当化を試みる事は分かり切っている。仮に「腹を切ります」とか抜かして実施したところで、それが一体何の償いになるというのやら?
こんなバカの後始末だけ押し付けやがって、なにが詫びだコノヤローって感じである。