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ラクレイド・クロニクル

マリアーナの初恋

 森と山の美しい国・ラクレイド。

 その伝統ある大国の西端を治めるウエンレイノ伯爵の腹違いの妹・マリアーナは今年十五歳。今、兄に縁談を勧められている。


 正しくは『命じられている』。

 マリアーナの母は先代領主であった父の最後にして最愛と言わしめた寵姫だったが、マリアーナがごく幼い頃に流行り病で亡くなった。

 母を喪い、父はがっくりきたのだろう。後を追うようにほどなく亡くなった。

 今、マリアーナが頼れるのは、仲がいいとは言えない二十も年上の現領主の兄だけ。その兄が勧めるのだ、マリアーナに拒否する権利などない。

 しかし嫁ぐというのでもない。有り体に言うのなら『慰みものになる』のだ。


 この秋、ウエンレイノ領へ王の名代として、今年十七歳になられたという末の王子が視察にいらっしゃる。その王子の夜伽を務めよと兄は言うのだ。


「お前は若く、美しい」


 兄はにこりともしないで言う。


「わが父を老いらくの恋に狂わせた、お前の母親ほどではないがな。しかし、その蜂蜜色のさらさらした髪といい陶器のようになめらかな白い肌といい、ほっそりとした儚げな身体といい、若い男なら一目で惹かれ、触れたくなろうよ。お前は殿下のお情けをいただき、子を成せ。それがひいてはウエンレイノの為になる」


 冷たい兄の命令へ、マリアーナに承知しました以外の答えはなかった。



 秋。山も森も色付く美しい季節だ。

 大気は芳しく、清々しい青空はどこまでも広がる。

 王都からの賓客を出迎える為、ウエンレイノの館の門前には早くから整然と騎士たちが並んでいる。


「都からの馬車が着いたようですわ、姫さま」


 身を乗り出すように窓の外を眺め、マリアーナ付きの侍女・ミーナが緑の瞳を好奇心でキラキラさせながら言う。マリアーナより二つ下の、まだ子供のような少女だ。


「はしたないわよ、ミーナ。都から来た殿方に、ウエンレイノの娘は尻軽だと思われるでしょう?」


 マリアーナは物憂くたしなめる。普段は可愛らしく思うミーナの子供っぽい様子が、今日は何だか気に障る。

 ミーナは、申し訳ありませんと首をすくめ、気の毒なくらいしおれた。さすがにマリアーナは幼い侍女が気の毒になった。


「きつく言い過ぎましたね。でも、窓からお客様を覗き見るなんて、決して品のいいことではないでしょう?わたくしたちはもう、そういうことをしても大目に見てもらえる幼い子供じゃないのですから……」


 言いながら、マリアーナの心はさらに沈んだ。幼い子供だったら良かったのにという思いが浮かんだ一瞬後、いやどちらでも同じだと思い直す。

 もし仮に今、自分が五歳の幼女だったとしても十年後には十五歳だ。その時の自分の運命が、今とどれほど違うだろう?今であろうと十年後であろうと、マリアーナが兄に命じられる役目は同じ。ウエンレイノにとって益のある男へ、若くて綺麗なうちに貢ぎ物として差し出される。細かい状況は違うとしても、やらされることは同じだ。

 ため息をつきながら立ち上がり、マリアーナは、自分の装いを部屋の鏡で見直す。


 きりきりと結い上げ、ウエンレイノ特産の淡水パールで飾り立てている髪。

 瞳の色に近い、鈍く輝く深みのある青い石をつないだ首飾り。

 レースと白い絹をふんだんに使ったドレス。

 ただでさえ細い腰を、強調するようにコルセットでキリキリと締め上げている。

 貢ぎ物に相応しい包装だ、とマリアーナは皮肉に思う。


 この後まもなく、王子一行を迎えて非公式の昼食会が開かれる予定だ。

 そこへマリアーナは、領主の妹として顔を出すことになっている。

 その為に朝早くから身支度をさせられてきた。

 きつく身体を締め付ける衣装も、重く冷たい装身具も、マリアーナの心をより重苦しくさせる。


「姫さま」


 ささやくように呼びかけるミーナの声に、マリアーナは我に返る。

 呼びかけたもののどう言葉を続けるのか迷うように瞳をゆらすミーナへ、マリアーナは笑みを作る。


「そんな顔をしないで、ミーナ。わたくしはウエンレイノ伯爵の妹として、当然の務めを果たすだけなのよ」



 アイオール殿下は身体つきに少年の匂いを濃く残す、どちらかというと華奢な若者だ。

 テーブルの末席に座り、マリアーナはそう思う。

 もちろん、慎ましやかに顔を伏せて行儀よく食事をしながら、目の端でとらえるともなくとらえる、そんな観察でしかないが。


 かの方の母君は異国の踊り子だった、という噂を耳にしたことがある。

 なるほど、漆黒の髪にほとんど黒と呼べそうな濃い紫の瞳は異国風で、この国の貴人、特に王家の方にはあまり見られない特徴だろう。

 踊り子のような卑しい身分の母君かどうかは別として、異国の血を引かれているのは確かそうだ。

 繊細で整った、いかにもラクレイドの王族らしい怜悧なお顔立ちだが、髪と瞳の色が暗いせいかどことなく恐ろしい、そんな印象もある。


(かの方はさざなみのごとし。岸を洗い巌を磨く、高潔なる波のごとし。そして……死を司る闇の神・レクライエーンの申し子なり。そんな戯れ歌を聞いたような気もするわ)


 社交辞令を交わしながらの食事も終盤、口直しにと果汁を使った氷菓子が出たあたりで、思い出したように兄は末席のマリアーナをアイオール殿下へ紹介した。


「わが妹のマリアーナと申します。世間知らずの愚かな娘ですが、音楽の教師からは声が良くて歌が上手いなどとも言われております。お耳汚しでしょうが、後で一曲これに歌わせましょう。旅のお疲れをいやし、慣れぬ土地での徒然をお慰めするくらいには役立ちましょう故」


 言葉の裏の意味を察したのか察していないのか、アイオールはマリアーナへ視線を向け、形よく美しくほほ笑んだ。


「ほう。お美しい姫ですね、クレイール・デュ・ラク・ウエンレイノ伯爵。あなたの御自慢の妹御なのですね。そういえば昔、王都で一番の職人にオルゴール人形を作らせたのですが、それを思い出させる姫君ですね。あの豪奢で美しい人形のように、お美しい姫でいらっしゃる」


 誉め言葉の下に何やら棘のようなものを感じはしたが、マリアーナは慎ましく目を伏せてほほ笑み、もったいないお言葉ですとささやくするように礼を言った。


(アイオール殿下って)


 密かに思う。


(美男子でいらっしゃるし、今までの受け答えからも頭の良さそうな方でいらっしゃるようだけれど。あまり性格はよろしくない、そんな方なのかしら?)


 冷ややかな瞳の色やどことなく棘を感じる口調は、兄のそれとよく似ている。

 が……たとえそうであったとしても。

 顔も頭も性格も悪い、ただ身分が高いだけのどうしようもない男ではなさそうだ、殿下は。

 愛も恋もなく虚ろに抱かれるにせよ、相手がそこまでどうしようもない男でなさそうなのが、せめてもの救いであろう。



 マリアーナは今、アイオール殿下がおやすみになられる客間のそばの小部屋に控えている。

 ミーナは近くにいない。

 若い彼女では気が利かなかろうと、侍女頭が今宵、ミーナをマリアーナのそばから離した。侍女頭の判断は適切だろうが、マリアーナは寂しい。

 マリアーナは侍女達に念入りに身体を磨かれ、これもウエンレイノの特産である花の香水を嫌味にならない程度に吹きかけられた。

 髪を梳き、ゆるく束ねられた。

 開いた胸元と肘までの袖の先にふんだんに白いレースを飾られた、身体に柔らかくまとわりつく『枕辺の楽士』の衣装。

 身体の線をそれとなく見せ、レースで隠しながらも胸元の肌を見せる、伝統的にそんな風に作られる衣装だ。

 薄紙の下には美味しいものがありますよと誘う、そういう衣装だともいえる。


 夕方から始まった歓待の宴も終わったようだ。

 遠くのざわめきが途切れ、こちらへ向かう複数の足音が響いてくる。

 覚悟はしていたものの、マリアーナは青ざめる。恐怖に喉がつまり、涙がにじんでくる。

 嫌だ。怖い。いっそ殺された方がましだ。

 そんな思いが不意に突き上げてくる。


「大丈夫ですよ、姫さま」


 年増の侍女の賢しらなささやきに、マリアーナはすっと冷静になる。

 わたくしは務めを果たす。

 そう決めた。

 兄に命じられたからとはいえ、そう決めたのだ。

 ならば……取り乱すまい。

 大きく息をつき、竪琴を引き寄せる。何度も音合わせをした弦をそっとつまびく。


 マリアーナは旅でお疲れの殿下へ、安らかにおやすみになれるように歌を歌って差し上げる。

 そういう建前である。

 しかし、若い男の夜の寝室へ娘が送られるのだ、据え膳なのはどんなに鈍い者でも察せられよう。


 そしてその据え膳が妾腹の生まれとはいえ伯爵の妹となると、普通に考えれば蹴らない。

 小さいながら豊かな領地を持つウエンレイノとのつながりを拒むのは、政治的に決して利口ではない。

 ウエンレイノの後ろ盾を全く必要としないと言い切れるほど、アイオール殿下のお立場は磐石ではない筈。

 王都から離れて暮らすマリアーナのような小娘にも、漏れ聞く噂からその位の察しはつく。


 侍女達が動く。

 殿下側の従者達とのやり取りの気配。

 殿下は顔や身体をぬぐい、寝間着に着替えて落ち着かれたご様子。

 こちらへ戻ってきた例の年増の侍女が、目顔でマリアーナへ合図する。

 わななく唇をなめ、マリアーナは思い切って立ち上がった。



 現れた『枕辺の楽士』が伯爵の妹なのに、アイオール殿下は驚いたご様子。

 寝台に横たわり、眠そうに閉じかけていた目をぎょっと見開いた。

 慌てたように半身を起こし、軽く口を開けてマリアーナの顔をしげしげと見つめる。

 ふとマリアーナの胸元へ目が迷い、はっとしたように彼は目をそらした。

 目をそらして瞬きし、わざとらしく咳払いをした。


「あー、マ、マリアーナ姫。その、今宵の楽士が、まさかあなただとは……」


 少し裏返った声で彼はそう言う。

 怜悧な王子の仮面が外れ、年齢相応の少年に近い若者の顔が覗く。

 初めてマリアーナはこの若者を、少しだけ、可愛らしいなと思った。


「昼間に兄が申し上げました通り、参りました。お耳よごしになるやもしれませんが、殿下がゆっくりおやすみになられるよう、精一杯務めさせていただきます」


「後でというのは先程の宴か、明日の午後辺りなのだろうと思っていたのですが……」


 目をそらしてうつむいたまま、そんなことをもぞもぞ言っていたアイオールの顔が、ふっと変わった。

 次に顔を上げた時には、どぎまぎしていた若者はもういなかった。

 冷たく冴えた瞳に灯火(ともしび)の光を映し、ゆがんだ笑みを口許にはいた。


「なるほど……そういうことか」


 冷ややかなつぶやきであった。マリアーナの背がその刹那、ぞくりと凍った。


「せっかくのお心づくし、それでは歌っていただきましょうか」


 いやに静かな口調でそう言うと、アイオールはごろりと寝台に横たわった。

 マリアーナはひとつ息をつき、わななく指をなだめながら竪琴の弦を弾く。


 客人の枕辺で楽を奏する。

 もてなしのひとつとして昔からあるならわしだ。

 その楽士が時に、客人の伽を務める場合もあることは暗黙の了解。

 ただ、それは客人の自由に任されている。


「寂しい調べだ」


 アイオールが急にそうつぶやいた。マリアーナは思わず歌と演奏を止める。

 彼は静かに身を起こした。


「寂しい調べだ。何だか……かえって目が冴えるな」


「も、申し訳ありません」


 マリアーナは慌てて膝をつき、頭を垂れて詫びた。


「あ、いや。すまない、決してあなたが悪いのではないのです」


 苦笑まじりに屈託のある調子で言うと、思い付いたようにアイオールはこう続けた。


「そうだ。歌うべき歌ではなく、歌いたい歌を歌っていただけませんか?そうですね、例えばあなたの一番好きな歌、とか」


「一番……好きな歌、ですか?」


 言われてすぐに思い付く題名はあったが、マリアーナはためらった。


「あの。とても子供っぽい歌なのですが」


「かまいませんよ」


「でも……『暁の歌』、なんですけれど」


 『暁の歌』は古くからあるラクレイドの童謡。明るく単純な節回しの、この国の者なら誰でも知っている歌だ。

 アイオールの瞳にもかすかに懐かしそうな色が浮かんだ。枕に肘をつくようにして、彼はもう一度身を横たえた。


「いいんじゃないでしょうか。お願いします」


 竪琴を軽く鳴らし、マリアーナは歌った。

 これは唯一、母から教わった歌。この歌以外に何かを教わった覚えはないから、唯一教わったものになるのかもしれない。


「……ラララ、ララ、ラララ、ララ……」


 最後の繰り返しのラララは冒頭と同じ。好きなだけ繰り返して歌える、それが特徴の歌だ。


「ありがとう。もう結構ですよ」


 何度か歌を繰り返した後、アイオールはそう言って起き上がり、寝台の上で背筋を伸ばして座った。ややうつむき、何かを考えていたが不意に、


「マーノ」


 と従者の名を呼んだ。お呼びでしょうかの返事と共に鳶色の髪と瞳の、体格の良い若者が静かに現れた。

 紺のお仕着せに灯火をぎらぎらと弾く銀の襟章。さながらアイオールの影のようにいつもそばに控えている、護衛官らしい従者だ。


「失礼は承知しているが。至急、ウエンレイノ伯爵へこちらに来ていただきたいとお伝えしておくれ」



 突然のお召しに兄は顔色を変えて現れた。

 寝入りばなを起こされ、慌てて失礼でない程度には身支度した、そんな雰囲気がまざまざとしている。


「何か……わが妹が不始末でも?」


 灯火を侍女に渡しながらそそけた頬で問う兄へ、アイオールは人の悪い笑みを向ける。


「とんでもない。伯の御自慢にたがわぬ、美しい歌声を堪能させていただきました。ありがとうございます」


 ただ、とアイオールは続ける。


「伯のご真意がどの辺りにあるのか、この愚かな若造ははかりかねまして。不躾ながら直接お教えいただきたい、と」


 何でしょうか、と兄は、アイオールとマリアーナを交互に見ながら不安そうに問う。


「伯は、ご自身の自慢の妹御を枕辺の楽士として差し出すほど、私をもてなそうとして下さっている……そうですよね?」


「その通りです」


「しかし。何故妹御は『枕辺の楽士』なのでしょうか、ウエンレイノの娘としての正式な縁ではなく。かりそめの儚い縁、あると言えばあり、ないことにしようと思えば口をつぐんでいればよい縁……考えてみれば不思議に思いましてね。つまり。ウエンレイノとすれば今の私に、それ以上のつながりを持つ意味も価値もない、と?」


「ち、違います!」


 兄は慌てて大きく頭を振った。


「とんでもないことであります!殿下のご身分を考えれば、所詮辺境の小領主に過ぎないウエンレイノ、どんな形であれ縁組を申し込むのは家の格が低すぎます。そ、それにマリアーナは、わが妹とはいえ流れ者の母から生まれた先代の庶子、そのような者にこれ以上の殿下との縁は望めません。ですから……」


 アイオールの瞳が一瞬、きつく燃え上がったが、目を泳がせて必死に言い訳している兄は気付いていない。


「なるほど。杓子定規な考え方ではありますが、一応の筋は通ってますね」


 ふっ、と、アイオールはゆがんだ笑みを頬にはいた。


「私は去年、成人の儀をおえました。ならいとしてその時、女人との閨のたしなみも教わりました」


 いきなり話が変わり、兄は不可解そうな顔をした。


「その時に学んだのですが。女人とこういうことをする場合、一夜限りの楽しみにはなりにくい……と。たとえ相手が酸いも甘いもかみわけた年増の娼婦であったとしても、その一夜で子を成す可能性は捨てきれません」


 言いながらアイオールは左手を顎へ持って行き、中指に鈍く輝く黄金色の指輪をそれとなく兄へ誇示する。王位継承権を持つ、成人した王子もしくは王女のみが王より授かる、王家の紋章を浮き彫りされた指輪だ。


「私はこれでも王家の人間です。私の血を継ぐ者は王権を継ぐ可能性が、わずかとはいえ出てきます。子に対する親としての責任以上に、国に対する王族としての責任があります。妃を娶り血をつなげる努力は、王家の人間の義務でもありますからもちろんするつもりです。ですが楽しみだけで女人と遊ぶのはやめよう、そう思っています。いささか青臭い、潔癖に過ぎる無粋な理屈であることはさすがに承知しておりますが」


「いえ。素晴らしいお覚悟です、殿下」


 困惑したように兄は眉をしかめ、答えた。


「そうとも知らず余計なことを致しました。申し訳ありません、お許しください」


「謝っていただくようなことではありません」


 何故か楽しげにそう言い、アイオールはにやりとした。


「せっかくの伯のお気持ちを無にするようで、私としても心苦しいのですよ。……どうでしょう?もし伯が私と縁を持つおつもりならば。いっそ伯ご自身に伽をお願いしたいのですが、如何でしょうか?」


「は?」


 言われた意味がまったくわからず、兄は、実に間の抜けた顔でアイオールの顔を見つめた。


「お美しいマリアーナ姫の兄上である伯も、なかなかの美丈夫でいらっしゃる。お若い頃はさぞ、乙女たちの心をかき乱す罪な存在でいらっしゃったろうと。いえ失礼、今でも変わらずそうでいらっしゃいましょうか?」


 言われている意味がじわじわとわかってきたのか、兄の額に汗がにじみはじめた。


「い、いえ、とんでもない。わ、私など……」


「ご謙遜を。それに私と絆を深めるお考えならば、女人を介するより互いをぶつけ合う方が早い、そう思いますが?」


 身を乗り出すようにしてかすかに笑むアイオールには、魔物めいた奇妙ななまめかしさがあった。


「あ、いえ、あのそのあの」


 しどろもどろになりながら兄は目を泳がせる。救いを求めるようにマリアーナを見るが、マリアーナとてどうしようもない。


「わ、私はその、そちらの道はその、まったくの不調法と申しましょうかその、とても、その、殿下のお相手が務まるとは、その……」


 しかしアイオールは明るく答える。


「ああ、ご心配には及びません。その道の手練(てだ)れがおります。上手く手解きしてくれましょう。……マーノ」


 後ろに控えている従者へ、アイオールは尊大に命じた。


「伯に手解きして差し上げよ。そして三人で長い秋の夜を楽しもうではないか」



 御心のままに、と、マーノと呼ばれた従者はむっつりと答え、顔色一つ変えずに前へ進み出るとだしぬけに兄を抱きすくめた。

 兄は決してか弱い方ではなかったが、筋骨隆々たる青年に力いっぱい抱きすくめられるとさすがに身動きできない様子だった。

 もがき、青ざめてわななく兄の唇へ、かみつくように青年の唇が重なった。貪るようなくちづけに、兄は失禁寸前のような顔になった。

 何とか青年の腕を解き、よろめきながら兄……クレイール・デュ・ラク・ウエンレイノ伯爵は後退った。


「お、お許し下さいませ、なにとぞ、なにとぞお許しくださいませ」


 うわ言のようにそう繰り返し、兄は、脱兎のごとくに客間から逃げた。途中で転んだのか、大きな音が響いてきた。召使い達に助け起こされるような気配の後、ひどく静かになった。


「……おい。うがいしていいか?」


 ぶっきらぼうな声がだしぬけに響いた。マーノと呼ばれている例の従者の声だ。笑いをかみ殺すような表情をしながら、


「ああいいぞ。ご苦労」


 とアイオールは答えた。


 マーノは、寝台のそばに備えている水差しから乱暴にコップへ水をそそぎ、華奢で優美な洗面器へ、何度も何度もしつこく口をゆすいでは吐き出した。


「うるさいなあ。下品じゃないか。ご婦人もいるんだぞ、もっと静かにうがいをしろ」


 アイオールの言葉に、従者は口をひん曲げるようにして答えた。


「うるせえ!ヒトをさんざん変態みたいに言いやがって。何がその道の手練れだ。俺は男になんか興味はねえっつうの」


「そうか?」


 にやにやしながらアイオールは言う。


「それにしては情熱的なくちづけだったな。私は一瞬、お前には本当にそちらの趣味があるのかと思ったぞ。ウエンレイノ伯だってそう信じたろうよ」


「冗談じゃねえや」


 吐き捨てるようにマーノは言う。


「我が君アイオール殿下のご命令だからこそ、俺は、心を無にしてやるべきことをやったまでだよ。ああ気色悪い。何が悲しくておっさんと濃厚なくちづけなんぞせにゃならん。『これは麗しの美姫、これは麗しの美姫』そう自分に言い聞かせ、目をつぶって必死でやってたんだよ!」


「だから途中から目をつぶっていたのか?陶酔してくちづけているのだとばかり……」


「やめろ馬鹿、これ以上言うな。大体、ウエンレイノ伯が泡食って逃げたから良かったようなものの、もし、それでは及ばずながらご奉仕させていただきますとでも言われたらお前、一体どうするつもりだったんだよっ」


 アイオールは声を上げて笑う。


「それはなかろうよ、伯のご気性から言って。そのくらい私には読めるさ。それに、まかり間違って伯がそんなことを言い出したとしても、さすがに伯はさばけてらっしゃる、なに、これは冗談ですよと笑い飛ばせば済む話だろう?」


「その根拠のない自信のせいでお前、いつか絶対痛い目にあうぞ」


 ほとんど呪うような声音でマーノは言った。



 すっかり蚊帳の外状態のマリアーナは、竪琴を持ったままだらりと腕を下げ、ぼんやりと、対等なやり取りをする奇妙な主従を見ていた。

 頭が真っ白になったような気分で、一体何がどうなったのか、まったく理解できなかった。


「お騒がせしましたね、マリアーナ姫。三文芝居ですが、楽しんでいただけたでしょうか?」


 人の悪い楽し気な笑みをかみ殺し、アイオールはマリアーナへ視線を向けた。


「お芝居、なんですか?」


 茫然と問うマリアーナを見、マーノは顔をしかめた。


「ほれみろ。マリアーナ姫はすっかり本気で、我々がそちらの趣味があるあやしい野郎どもだと誤解してしまったじゃないか。違いますよ、姫。この王子さまはね、まあその、色々とあったせいでぶっ飛んだ、ちいっと以上にひねくれた男でしてね。時々こういう突拍子もないことをやらかす癖があるんですよ。俺はこいつの乳兄弟で、気性を飲み込んでるから何とかやってってますけどね、他の者にこいつの側付きなど、とても務まりませんよ」


「仮にも王子である(あるじ)をこいつ呼ばわりするようなお前だって、他の王族の側付きなど務まらないだろうが。偉そうなことを言うな」


 アイオールが口を挟むと、マーノはじろりと主へ視線を向けた。


「……アイオール殿下以外のお方になら、俺のような無作法者でももうちっとは、しおらしくお仕えいたしますよ」


 マリアーナはなんだか可笑しくなってきた。

 ここしばらくの絶望的で悲壮な自分の覚悟、鹿爪らしいむっつりとした顔しか見せたことのない兄が本気でうろたえ取り乱している様子、マリアーナの常識をはるかに超えた王子とその従者のあり様など、とにかくすべてがとてつもなく可笑しい。

 可笑しくて可笑しくて仕方がない。


「ふ、ふふふふ……」


 そう。何もかもが悪い冗談。おふざけ、お芝居。

 思うと我慢が出来なくなった。

 忍び笑いが漏れてしまうともういけない、笑いの発作がマリアーナを襲う。

 思わず竪琴を取り落とす。慌てて拾おうとした時、その間抜けな自分の姿が見える気がし、更に笑いに拍車がかかる。

 身を二つに折り、涙を流して笑う自分を、王子と従者があっけに取られて見つめていることもわかっていた。


「も、申し訳ございません、あ、あははは、申し……申し訳、あははは、あは、あははは……」


 涙をぬぐい、必死で笑いを止めようとしたが、そんな自分がまた可笑しくなる。

 王子たる方の前で無作法にもほどがある、場合によってはきつく罰せられると思ったが、どうしても笑いを止められなかった。



 アイオールが動いた。

 こちらへ来ると、そっとしゃがみこんだ。

 泣き笑いの状態の、ぐしゃぐしゃな顔になっているマリアーナへ、彼は痛みをこらえているような目でかすかに笑った。

 とても真面目な、そして真摯ないたわりのほほ笑みなのに、マリアーナは笑い過ぎて苦しい息の中、意外に思った。


 アイオールは何か言おうとして……結局言わなかった。小さく息をつき、少しためらう素振りの後、こちらへ腕を伸ばした。

 灯火を映す彼の濃い菫色の瞳が、泣いているように潤んで見えた。

 彼は、羽が触れるようにそっとマリアーナの頭を撫ぜた。

 かすかにあたたかい、優しい指の動きだった。

 マリアーナはいつの間にか笑うのを忘れ……アイオールの胸にもたれて泣いていた。



 朝の気配に、マリアーナは目を開けた。

 青白い明け方の光。小鳥の鳴く声。

 顔がはれぼったく、目も重い。頭を起こそうとした時、初めてマリアーナは、自分が誰かにもたれかかって眠りこんでいたことを知った。

 慌てて身を起こそうとした途端、マリアーナを抱きとめていた人物も身じろぎした。


「ああ……朝か」


 朦朧とつぶやくのはアイオール殿下。寝台の天蓋を支える柱にもたれ、マリアーナを抱きかかえている。

 あまりの状況に驚いて身を離そうとしたマリアーナの腕を、アイオールは思わずのように強く引き寄せる。


「も、申し訳ありません、大変なご無礼を」


 身も声も震わせて詫びるマリアーナへ、アイオールは苦笑するように小さく息を吐き、跡が残りそうにきつく握りしめていた手の力を緩めた。


「あなたが謝ることは何もありませんよ、姫。思わず強く引っ張ってしまって、詫びなければならないのは私です」


 そして一瞬ためらうと、彼はマリアーナの顔をそっと覗き込んだ。


「それより、少しは気が晴れましたか?」


 思いがけない問いに、マリアーナは非礼も忘れてポカンと王子の顔を見た。

 アイオールはかすかに眉を寄せ、軽く目をそらしながら言った。


「その。ずっと……張りつめていらっしゃったのでしょう?伯から……私の夜伽を命じられて。顔も見たこともない男の相手をしなくてはならないなど、さぞ胸が塞いだでしょう。私は男ですから女性の気持ちがわかるとは言い切れませんけど、もし自分がそんな立場だったならさぞ胸が塞いだと思います。たとえ……それが家の為であったとしても」


「殿下……」


 濃いまつ毛に縁どられたアイオールの菫色の瞳が、何故か寂しそうに揺れた。


「もしかして、誰か愛する殿御がいらっしゃるのではありませんか?もしそうなら私から伯へそれとなく取りなしますよ。仮に伯があなた方の仲を強硬に反対するなら、そうですね、場合によっては昨夜のように伯を脅して……」


 思わずマリアーナはふきだした。

 昨夜の兄の、慌てふためく間抜けな様子が思い出される。


「ああ。あなたはそうやって笑っている方がいいですね」


 アイオールは言い、彼も軽く笑った。

 マリアーナは笑顔を消し、アイオールから少し離れて居住まいを正した。


「お心遣いをありがとうございます、殿下」


 一度真っ直ぐ王子を見上げた。そして丁寧に頭を下げる。


「でもご心配には及びません。わたくしに愛する男性などおりません。愛も恋も知らないのです」


 そして何故かふと、こんな言葉が出てきた。


「愛も恋も知らないのに愛の行為をしなくてはならない自分が可笑しかった。そんな気がいたします。殿下にはご迷惑ばかりかけてしまいました。罰せられて当然だと思っております。後は慎んで殿下のお沙汰を待ちたいと思います。では」


 深く一礼し、マリアーナは立ち上がった。去ろうとした刹那、


「マリアーナ姫!」


 アイオールの声が響いた。


「マリアーナ姫、あなたはこれから……」


 言葉の途中でアイオールは黙った。間抜けな問いだと思ったのだろう。マリアーナは振り返り、笑みを作った。


「殿下のお沙汰次第ですが。もし今回のことを不問にして下さった場合、わたくしの今後は兄が決めましょう」


 もう一度きびすを返すマリアーナの背へ、アイオールの声が再び響く。


「では……では共に王都へ参りませんか?その、まずは行儀見習いとでもいう名目で」


 驚いて振り返ったマリアーナと目が合い、少しきまりが悪そうにアイオールは目を伏せた。


「あ……その。あなたはこのままウエンレイノの館にいてはいけない、私はそう思うのです。王都がここより居心地が良いとは、正直私には言い切れません。だけどこのままここにいたら、あなたは本当に美しいだけのオルゴール人形にされてしまう。私はあなたに、泣いたり笑ったりする人間の娘のままでいてほしい、そう思うのです」


 アイオールは目を上げた。

 菫色の真摯な瞳が真っ直ぐ、マリアーナを射抜く。


「共に王都へ参りましょう」



 朝露にぬれる草を踏み、マリアーナは供も連れず小走りでいつも暮らしている小さな離れの館へ戻る。


「……ラララ、ララ、ラララ、ララ……」


 気が付くと『暁の歌』を歌っている。何度も何度も繰り返し。


「姫さま!」


 マリアーナを見付けたミーナが館から飛び出してきた。目が少し赤い。

 おそらく眠っていないのだろう。


 目が合うとミーナは絶句した。そして涙ぐんだので、マリアーナはとても驚いた。


「姫さま。アイオール殿下は姫さまを、本当に愛して下さったのですね?良かった、本当に良かった……」


  共に王都へ参りましょう。


 アイオールの言葉と真っ直ぐな瞳とを、マリアーナは思い出した。

 訳がわからなくなり、ろくに挨拶もせず逃げるように帰ってきてしまった。

 が……。

 マリアーナはかみしめるようにほほ笑み、ミーナへうなずいた。



 マリアーナの初恋は、今、始まる。


                   【おわり】

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― 新着の感想 ―
[一言] アイオール殿下、何て素敵な方なんでしょう……! マリアーナの笑いが止まらなくなるシーンは読んでいてこちらもとても癒されました。お兄さんは……ざまあみろですね笑。 マーノのキャラクターもとても…
[良い点] オルゴールの人形のようにお美しい姫、と話すアイオールは、最初から見抜いているところがありますね。 マリアーナも自分がどんな立場にいて、未来がどんなものか分かっているので悲しみながらも受け入…
[良い点] うわー、いいですね! 心情を見事に描ききってなおかつこぎみよい。 緊張と解放の優しい収斂。 かなわんなあ、れいさま、やっぱり至高ですわ。
感想一覧
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