闇へと
姉様、姉様!
止めろ! 放せ!
助けて、姉様を、助けて!
闇の静寂を切り裂いて春麗の叫びが北の社まで届いた。尋常ではない叫びにすぐに風を従えて南の地へと向かうが、この世の全てを憎み嘆くような叫び声は一向に静まる気配を見せない。
春麗のいる娼館で私の目に入ってきたのは、闇の中に転がる二つの塊。春麗と、一年前に売られたという姉だ。姉の方はピクリとも動かず、春麗はどれだけ痛めつけられたのか、立ち上がることも出来ずに必死に姉の元へと這い進む。後少しで姉に手が届こうというところで、周りの男達に蹴られまた離される。伸ばした手を踏みつけられ、痛みに呻く声すらももう擦れてきている。それでも、何度も何度も姉の元へと近づこうとし、悔しそうな低い声をあげる。
「姉様を、返せ…… 」
何を、している?
身体が妙に冷えていくのを感じた。熱い憤りなどではない。ただ、春麗の周りを囲む男達を要らぬ者だと、春麗の前から消してやりたいと思った。
私の意志を受けた空は雷を走らせ、春麗の瞳が龍の姿を捕らえた。春麗は縋るような瞳で、小さな口を笑うように泣くように歪ませる。
「後、少しだけ」
命が消える前にしてはあまりに小さい、だが絞り出すような望みは確かに受け取った。そっと望む場所へと動かしてやると真っ白な姉の頬を撫でながら、静かに静かに動かなくなっていった。その顔は、悲しみと憎しみに満ちており、強い意志を持った瞳はもう光を映すことは無い。
春麗が、何をした?
何をしたら、このような事が許されるというのか?
気が付いたら、私の手は春麗を蹴り飛ばした男の首を掴んでいた。春麗の小さな望みを嘲笑っていた顔は恐怖にひきつり、春麗を蹴った足は震えてもう歩くことも出来ぬであろう。
どうしてやろう。怒りのままに引き裂くことも、少しずつ少しずつ苦しみを与える事も出来る。だが、何をしても春麗はもう動けはしない。彼らを殺しても、私が春麗を救えなかったことに変わりはない。
「春麗が、何をした? 」
自分でも驚くほどの低い声が出る。
「やったのは、姉の方だ。客に惚れて、逃げようとして、その子供はそれを助けようとした。娼妓が逃げれば、逃げられぬことを身体に教える。ちょっと、やりすぎているうちに、つい」
「つい、か。ならば私がこの指に『つい』力を入れすぎても責めはせぬな 」
「……」
男は龍の腕に両手をかけてもがくが、私の指はゆっくりと男の首に沈んでいく。
『逃げたいか』と問うた時、春麗は家族を守る事を選んだ。姉は家族を巻き込んで逃げる事を選んだ。どちらが正しい選択なのか、春麗に後悔は無かったのだろうか。
動かなくなった姉妹を連れて、北の社に戻った時にはもう夜は明けていた。白い肌を保つ為に、陽の下へ出ることの少なかった姉妹。せめて、今日ぐらいは。
緑の葉を茂らせた梅の木が風にそよぎ、姉妹の帰りを喜ぶように音を奏でているのに、答える声はもう聞こえない。
どうすれば、良かったのだろう。
どうしたら、春麗を救うことができたのだろう。
ただ、後悔だけが襲ってくる。望んだのは、春麗を傷つけた男達の命を奪う事でも、北の地の平穏でもない。守るべきは何だったのか。
己の望みすらわかっていない私には、何も出来ない。
陽が高く上り、空が紅く染まり、闇が満ちていく。柔らかい月の光の中で姉妹が歪み、私は静かに瞳を閉じる。こんな静かな夜を姉妹は知っていたのだろうか。何を願ってこの社に梅の木を植えたのだろう。心穏やかに、逝けたのだろうか。
永遠に続くような静寂を破り勢いよく風が鳴き、私の首を冷たい手が掴んだ。
「龍よ。何故、姉様を殺した男を殺してはくれぬ? 」
静かな声は確かに春麗のものだ。姉に縋りつき、動かぬ者となったはずの春麗は、月の光を浴びて立ち上がり怒りに満ちた瞳で私を見下ろしている。その頭には、月色の角。
「春麗? 」
「姉様を、私を殺した男が憎い。私も、殺す。姉様と私を売ってまで生きる父様も母様も憎い。女でないからと、売られることない兄様も憎い。皆、殺してやる」
鈴のなるような声で憎しみを吐き出す。目の前にいるのは確かに春麗なのだろう。娼館の男衆を、家族を殺したいと願い、蘇った。何もかもを守りたいと言ったのと同じ口で、何もかもを憎いと言う。
これが、春麗の本心だと言うのだろうか。
「力があるのに、この地を救わぬ龍も憎い」
言葉と同時に風が刃となって私を襲う。社を囲む木々から折られた枝も、下草を刈る際に使っていた小さな草刈鎌も、意志を持つかのように迷いなく私に向ってくる。
真直ぐに私の首を狙う鎌を、黙って見つめる。あんな鎌では、龍は死なぬ。だが。
春麗の望みが龍の死なら、叶えてやりたい。襲い掛かろうとする鎌に首を晒したその時、細く鋭い雷が鎌を打ち砕いた。
「其方を殺めれば、その娘は戻れぬぞ」
闇に響く低い声は、怒りに溢れていた。雷は緑龍の意のままに動き、春麗が放った木の枝は全てが空に巻き上げられていく。勝てぬと思ったのだろう。春麗は風に乗り南に向かって姿を消した。
「空を舞うのは、龍よりも速いかもしれぬな」
感心するような緑龍の声に我に帰った。
「あれは、なんだ? 何故、徒人であった春麗が風を操れる? 」
「人は、まれに鬼に堕ちる。彼女が悲しみと憎しみだけで命を終えた時、其方が側にいた。彼女は龍の力を使い鬼となることを望んだのだろう。今は、まだ狭間だ。このままであればいつか人として命を終える事ができるだろう」
「このまま、とは? 」
「誰も殺めぬまま、鬼として永い時を過ごす事だ。一度誰かを殺めれば、奪うだけ奪い、己を忘れ、鬼として闇の中で永遠の時を過ごすことになる。二度と、人には戻れぬ」
「……」
春麗がこれまで抑えてきた望みが鬼となって初めて解放された。だが、守りたいと思った家族を憎み、殺し、ただ一人で永遠に闇の中。
何もかもを諦めて、家族を守るために生き、命を終えた少女の行く末が、それではあまりではないだろうか。
「誰も殺めぬまま、永く生きればよいのだな」
「人は弱い。鬼に堕ちようとする己の身からも、やすやすとは逃げきれぬ」
「……」
己の命よりも、家族の命を繋ぐことを望んでいた春麗は弱くなどない。龍にはない強さを持っている。悲しみと憎しみの中で命を終えたのなら、次は幸福の中で命を始めればよい。どうか。どうか。
助けたいと呟いた私を、緑龍が満足そうに見つめる。
「彼女を殺した男は、どうした? 」
「死んではいない」
柔らかい肉に沈む指の感触は、まだ残っている。憎くて、憎くて、それでもどうしても、後少し指を埋めることができなかった。
「それでいい。其方の清らかさが、鬼を救うだろう」
緑龍が私の身体を引き寄せた次の瞬間、血の匂いの残る娼館にいた。
「すぐに彼女が来る」
力強く空を舞う緑龍の背を追い、近づいてくる鬼の気配に息を飲む。
シニタクナイ イタイ クルシイ コワイ
オマエガ イタケレバイイ オマエガ シネバイイ
何一つ隠す事のない心からの叫びが闇に響く。本当は、ずっとこうやって叫びたかったのだろう。幼いながら何もかもを飲み込んだからこそ、こうして溢れた。
「どれだけ幼くとも、弱ければ闇に堕ちる。闇に堕ちれば、ただ一人で消えるのみ」
緑龍の言葉が氷のように頭を冷やす。今出来ることは、鬼に堕ちようとしている春麗に人を傷つけさせぬこと。
ドウシテ ジャマヲスルノ
ドウシテ ワタシハ イキテイテハ イケナイノ
月の光さえも遮る闇を背負い、ただ憎しみだけを抱いている。風を操り、刃のような殺気を向ける鬼に背筋が冷たくなっていくのを感じる。
「緑龍。其方なら、春麗を救えるか? 」
震える声を抑える事ができない。救いたいと願うのに、私の力では救えない。
「私では救えぬ。だが、時間は作ろう」
冷たく厳しい声なのに、何故か安心する。
「人ならざる者への結界を張る。だが、誰も殺めていないあの娘はまだ完全な鬼ではない。命は尽きているが、身体はまだ人の物。結界をくぐることがあれば、其方が止めろ。いいか、其方が敗れればあの娘はもう戻れぬ」
「わかった」
冷たく鋭い風が、春麗を守っている。風に守られている春麗は、血のように紅い唇を歪め、憎しみに燃える瞳で緑龍を睨みつける。
ジャマヲ スルナ
地の底を這う様な低い声に怯むことない龍の咆哮が空気を割り、雷雲を呼び寄せる。龍に従い集まった灰色の雲は、少しずつ低くなり湿り気を帯びた空気が風の勢いを殺していく。春麗が操っていたはずの風は、緑龍の意志に従い牢とへと姿を変えていく。風から逃れようとする春麗の腕を、足を容赦なく風が切り裂く。白い肌が裂け、赤黒い肉が見えるのに血が流れる事はない。
イヤダ イヤダ
イタイ イタイ
タスケテ リュウ
強大な龍に怯え、助けを乞う春麗と確かに目が合った。もう、良いのでは? 緑龍に告げようとした瞬間、目の前に春麗の紅い唇が迫っていた。
リュウヲ タベタラ ツヨクナルカナァ
タベタイ タベタイ リュウ
ケタケタと笑いながら、私の角を掴み紅い口を開ける。龍の爪が春麗の細い首に突き刺さっているのを物ともせず、己の欲望に忠実に少しずつ少しずつ自らの口を近づけてくる。
ツヨクナリタイ ツヨクナッテ ミンナ コロシテヤル
リュウヲタベテ ツヨクナルンダ
望みを果たして闇に堕ちる事、何もかも許し飲み込んで人として命を終える事、一体どちらが春麗にとって幸福なのか。迷う私に春麗は紅い口を大きく開けて迫ってくる。
「馬鹿者。共に、闇に堕ちるつもりか? 」
静かな声が響き、角を掴んでいた手が勢いよく離れていった。目の前には、苦しそうに顔を歪めた春麗と、その首を背後から掴む緑龍がいた。
「娘よ、少し眠るがいい」
月の光が緑龍を包み、徐々に春麗の姿も光に包まれていく。足の先まで光に包まれたかと思えば、その身体は月色の勾玉へと姿を変えた。
「朔の夜、元の姿に戻る。戻った時は今よりは少し落ち着いているだろう。だが、すぐにまた鬼に堕ち、この封印は二度ときかぬ。それまでに、この娘を救う術を探すといい」
「……」
花街の夜は明るい。店の外を行きかう人を呼び止め、招き入れようとする娼妓達。男衆はその手腕を黙って見ている。今朝死んだ娼妓など、誰一人気に留めてなどいない。まるで最初からいなかったようだ。
見習いの娼妓が一人死んだところで、誰も気に留めぬ。守られた家族すら、春麗が死んだことなど知らずに暮らしていくのだろう。たった一人、汚れていくのはどれだけ怖かっただろう。姉を守れず、死んでいくのはどれだけ無念だっただろう。
鬼に堕ちたのは、弱いからなのだろうか。