梅の花
木々からは葉が落ち、畑に植えられたわずかな作物は全て刈り取られても、少女は闇にまぎれて現れる。冷たい水を入れた手桶を持って、闇の中で目をこすりながら社を磨く。風が冷たくなるにつれて、実らない作物と社の主への恨みごとを風に乗せるようになってきた。
「何故? こんなに願っているのに、何故この地を救ってはくれない? 」
月の無い夜、涙をにじませながらも怒りをあらわにした少女は手桶の水を社にぶちまけ、落ちていた枝をメチャクチャに振り回した。ぶつける場所のない怒りと悲しみは、日々磨き続けた社へとむかう。
人に、この地に関わる気などなかった。ただ、緑龍の守る地を侵す者を知ってみたいとこの社を住まいとしただけなのに、いつの間にか愛着がわいたのだろうか。気づけば少女の振り回す枝から社を守ろうと空を舞い、少女の怒りを収めようとしていた。
「お前は、何を願う? 」
龍の姿を認めた少女は、一瞬の後に怒りを希望へと変え両手を合わせて膝をついた。
「この社に宿る神は、黒龍様だったのですね」
「この社を、住まいとしている」
少女の言う『宿る』ではないが、ここに居ることに変わりはない。龍の姿を魔と取るか神と取るかは少女の問題で、私はただここに居るのみ。
「お前は、何を願う? 」
もう一度問う私に、少女は縋りつくような瞳を見せた。
「この村にも、暑い夏を。次の年からで構わない、暑い夏を」
「……出来ない」
龍は、雷を従える。多少であれば空を変えることも可能。しかし、この北の地に暑い夏を呼ぶことは出来ない。私の答えに、少女の瞳からは希望が消えていく。
「龍など、大した力はない。それよりも、この地で少しでも多く作物を作ればよい。今年は畑の多くが空いていたではないか」
言葉が終わるよりも早く、少女の握った枝が顔を撃つ。希望の消えた瞳は怒りに満ち、頬が濡れている。
「暑い夏が来なければ、作物など育たぬ。村中で借金をして、全ての畑に苗を植えたさ。しかし、夏が来る前に寒さでダメになってしまう。この村は夏が来たって、突然寒くなるんだ。その時にまたダメになる。毎年、子供を売らなければ冬を越せない。去年は姉様、今年は私、来年は、まだ五つの妹だ」
「ならば、この地を捨てればよい。もっと南、豊かな土地へ行き、暮らせばよい」
「そんなことしたら、戦になる。兄様も父様も、死んでしまう」
緑龍の守る土地を奪おうとするのは、飢えた民。飢える事無き豊かな地をめぐって戦が起こる。『人は、逃げられぬ』緑龍の言葉が頭を回り、霧のように取り囲み動けなくなるのを感じた。
「私はいい。でも、夏が来なければ、また同じだ。来年妹が売られたら、もう家に売るモノはない。皆、死んでしまう」
身体の奥底から絞り出すような声は、幼さの残る少女の物とは思えない。私は掛ける言葉を失い、走り去る少女をだまって見送る事しかできなかった。
「人は、逃げられぬと言ったであろう」
いつからそこに居たのか、呆れたように呟く声にこわばっていた身体から力が抜ける。人を知りながら、ただ一つの地を守るのはどれだけの葛藤があったのだろう。何度追い払っても攻め込まれ、殺したくないと願いながらも、殺す以外に守る術はない。どれだけ、辛い思いをしたのだろう。
「其方は、何故、人とかかわった? 何故、あの地のみを守っている? 」
「我が伴侶の生まれ育った地だ。美しく、平和なままでいて欲しいと思う」
「他の地にも、人はいる」
「龍の力では、全ての地は守れぬ。己が守りたいと願った地のみを守る」
乾いた笑いに、緑龍の迷いが伝わる。心優しい龍が、割り切れるはずなどないのだ。
「私の力で、この地を守れるか? 」
「龍庭と同じようにはいかぬ。我らに操れるのは雷雨程度。あの娘の望む暑い夏を呼ぶことは出来ぬ」
「では、この地に生きるものは? 」
「地に生きるものは、人だけではない」
「……」
長く地を守ってきた緑龍の言葉は、正しく重い。それでも、守りたいと、願いを叶えてやりたいと思ってしまうのは、私がまだ世を知らぬからだろうか。
雪の気配が近づく頃、少女は南からやってきた男に連れられて村を去り、社に近付く者はいなくなった。
ずっと南の地に、少女の気配を感じる。激しく憤る事も嘆き悲しむこともなく、静かに受け入れていることが伝わる。嘆きと諦め、どちらが人として生き続けるのに必要なのだろう。
希望を持って欲しと願い、この地をそよぐ春の風を少女の元へと送ってみるが、届いた瞬間、少女が嘆き悲しむ気配が伝わってきた。
「娘にとっては、残酷な風だったのだろうな」
呆れたような緑龍の声が胸に刺さる。何故残酷な風となったのかはわからなかったが、それ以来風を送ることはしなかった。
春がくると少女の妹は、外出を禁じられるようになった。秋に売られる予定の娘は、日に焼かぬように家の中で過ごさせる。肌が荒れぬように、水を触らせることもない。何もわからぬ幼子は外に出たいと泣きわめき、困った母と兄は幼子を紐で家の中につなぎ畑仕事に出向くようになった。暗く湿った家の中から幼子の泣き声が響くのは、一軒だけではない。どこの家も、この地で豊な実りは期待できない事を知っている。
少女は、花街の外れにある小さな娼館にいる。申し訳程度の中庭には河原から拾い集めたような大きさも形も様々な石が敷き詰められ、石の隙間からは雑草が光を求め伸びあがり、庭を通る風は街のすえた匂いを運んでくる。
淀んだ空気の中、黒い瞳をさまよわせながら毎夜部屋に香を焚く。幼い身体に不釣り合いな甘い香りは、すでに少女の一部になっていた。
何度も何度も、闇に身を隠し少女の無事を確かめる。少女の瞳は力を失う事はなく、淡々と己の仕事をこなしていく。今宵も娼妓と並んで部屋に入り、灯りを落とす頃にはそっと部屋から出て朝を迎える準備をする。姉役の娼妓が客に付いてしまえば、娼妓見習いなど店の下働きと変わらない。朝を迎える前に帰ってしまった客の後片付けに部屋の掃除。大部屋では据えた匂いを消すために香を焚きながら風を入れる。月が沈むころにようやく仕事を終えた少女は部屋に戻る事を許された。灯りの無い廊下を迷いなく進む少女と、一瞬目があった。
「龍の瞳は、月よりも明るい」
呟いた声は穏やかで、廊下を進んでいくのは北の地で見たのと寸分変わる事ない真直ぐな美しい背中。闇に消える姿に、瞬きすらも惜しい気がした。
既に夏を迎えている龍庭。木々は夏の暑さを楽しむように枝を伸ばし、色づいた実を小鳥の親子がついばみ、それを狙う獣の目が光る。どの生き物も、命を次につなごうと輝いている。
同じころ、北の地では夏の訪れをただひたすらに待ち焦がれている。
「季節は、どの地にも訪れる。だが、北の夏はこことは違う」
「人は、北の地では生きられぬのか? 」
「北にも、生きている民はいる。生きられぬわけでは、ない」
初めて、緑の瞳を冷たいと思った。守る地の為には、人を殺めることも否まないのは、伴侶だった『人』の為なのか。
「いつか、雪梅はこの地に戻るだろう。だが、その時は龍の伴侶ではなく、人の中で暮らしてほしいと思っている。その時の為に、私はこの地を守る責がある」
緑の瞳は、冷たく、強く、優しく、悲しい。
北の地に遅い夏が訪れる頃、一人の娼妓が箱に入れられて店を出た。泣き崩れる女達の横で、少女は黙って曇天の空を見上げ、拳を握る。
「神、黒龍……」
空が白く変わろうとしている頃、風に乗って運ばれてきた消え入りそうな澄んだ声。人と関わる気などない。それも、緑龍の地を奪おうとする北の民になど。
どれだけ言い聞かせても、私の身体は意志に反して柔らかい風を纏い少女に与えられている部屋へと向かった。
「来て、くれたのだな」
闇の中で膝を抱え、不安そうに爪を噛む。長く噛んでいたのだろう指先からは血が滲み、床には自身で抜いたらしき髪が落ちている。
「私を、穏やかに死なせてはもらえぬか? 」
「何故? 」
私の疑問に、少女は強張った表情のまま笑った。
「今日、私がついていた姉役が死んだ。私よりもずっと幼い頃に売られ、ここで育ち娼妓になった。北の地で生まれた女は、家族を生かすために死ぬ。死ぬ為に生まれる。散々汚れて、苦しんで、逝った」
「逃げたいのか? 」
「逃げれば、家族は私を売った金を返さねばならない。それでは皆死んでしまう。静かに死ねば、それは私のせいではない」
「お前だけが、死ぬことも無かろう」
「……生きて欲しいと、思うのだ」
「姉も妹も、お前も売られて、か? 」
「兄がいる。北の地が豊かになれば、飢える事無く兄は子を成すだろう。私がつないだ命が、先の世まで続く」
「……それは、お前ではない」
人は、どうして自分の血を残したいと思うのか。人の望みは、龍には理解できないものなのだろうか。
何故、少女の願いにこんなにも苛立つのか。言葉に出来ない苛立ちが闇に溶けていくのを感じたのか、少女は力なく笑った。
「悪かった。姉役が死に、少し気が弱くなったのだ。忘れてほしい」
諦めるようにもらした溜息が、死ぬことすらできない身を憂いたものであることはわかる。だが、どんなに憂いても、生きていて欲しいと思う。
「春麗」
「は?」
「私の名前だ。娼妓としての名だけでは、いつか忘れてしまいそうでな。気が向いた時でいい、本当の名を呼んでほしい」
「春麗」
そのまま繰り返した私に、春麗は嬉しそうに微笑んだ。何が、嬉しいと言うのだろう。
「黒龍様に名を呼ばれるなんて、私は幸せな娼妓だな」
「名など、いくらでも呼んでやる」
だから、死ぬな。本当の望みは、伝えたいことは、言葉になってはくれなかった。
「社の横に、梅があるだろう? 幼い頃姉様と二人で植えたのだ。今年も咲いたか? 」
「梅? ああ、咲いていたな」
社に守られるように植えられた細く小さな木に、二つだけ咲いた白い花。まだ凍える様な寒さを残す北の春に、震えながら咲く姿を、美しいと思った。
「北に咲く花は、たくましいだろう? 」
誇らしげな春麗は、梅の花よりもずっと儚くも美しい。