北の社
祭りが終わった夜、不規則で重い足音が龍の守る地、民の住まう村へと向かっていく。
「其方が逃がした、兵士だ」
静かな声には、責める様な言葉は含まれていない。切なげな緑の瞳は真直ぐに前を見つめ、その身体は風のように闇を舞う。
何故? 逃がしたのに、何故戻る? 『殺さねば、この地を離れることが出来ぬ』殺したくなどないと嘆く緑龍の心が、何故伝わらぬ?
空を舞えぬ私には、後を追うこともできない。もっとも、後を追ったとて何もできない。
緑龍は、この地を守ると決めている。そこに踏み込むのなら排除されるのは仕方のない事。誰であれ、龍の守る地を踏み荒らすことは許されぬ。
「すんだのか」
ぐったりと疲れた様子を見せる龍からは、血の匂いが立ち上る。美しい緑の瞳は濁り、きつく握られた手からは血が流れて、落ちる。
「人を、殺めたいわけではないのであろう」
「我が地を、守るためならば」
瞳には、強い意志と迷い。殺めずにいたいと願いながらも、守りたいと願っているのだろう。
「何故、この地を守る? 」
「昔、約束をした」
緑の龍が嬉しそうに語る昔話には、呆れて言葉も出なかった。誇り高き龍が人の女を伴侶としたことも、すでに側にいない伴侶の『生ある限り、村を守る』約束を今も守っていることも、到底理解できるようなことではない。
「とうに、居ないのであろう? 」
「そうだな」
「それならば」
「この村を守る事が、雪梅の望み。ならば雪梅の伴侶である私は、私の生ある限りこの村を守る」
「其方が、これほど苦しんでいるのに、か? 其方の伴侶は、それを望んでいるのか? 」
黒い感情が溢れてくる。血の匂いをさせながらも、優しい瞳で伴侶を語る龍が、悔しかった。
「黒き龍よ。気持ちは、とてもありがたい。其方の存在は私を癒す。だが、我が伴侶である雪梅を悪く言うことは許さない」
言葉は柔らかいが、深く静かな緑の瞳は反することを許さない強い意志を宿している。
社を守るように立ち並ぶ木々は少しづつ葉を落とし、寒さから身を守るかのように雪を纏い、雪は月の光を受けて闇を照らす。月の光を浴びて夜闇を舞う緑龍は、どんな思いで一人この土地を守っているのだろう。
緑龍の守る地での、2度目の春。木々の根元に幼い草が顔をのぞかせ、枝先の蕾が柔らかく膨らみ色づきを見せた頃、私の身体はようやく空を舞う事ができた。
何度も何度も、緑龍が守る空を共に舞った。
暁の空を好んで舞う私の横で、夜闇に別れを告げる空も美しいと誇らしげに笑う。夜闇が訪れる前の紅い空が好きだと言っていたのに、と節操の無さを咎めても嬉しそうなその顔は変わらない。
平穏で、穏やかな時間が、確かに流れていた。
ふもとに広がる地には色とりどりの花が争うように咲き乱れる。花は小さな実に代わり、穏やかな民に世話を焼かれ、実は少しずつ大きく肥えていく。足りぬ物は無く、要らぬ物もない。
この地の民を守っていきたいと、切なげな瞳を揺らしながら緑龍が笑う。守るためには、穏やかなままではいられないのだと。
緑龍が心穏やかにいられるようにと、夏の暁に強く願った。
羨み。妬み。飢え。強い憎しみ。
ようやく夏の暑さも落ち着いた頃、風が悪意を運んできた。社を守る木々は、緑の身体を揺らし精一杯に社を守ろうとしているが、守り切れるものではない。社の清浄な気は乱れ、朝の訪れを告げる鳥たちは怯え近づかなくなり、緑龍は黙って紅い空を見つめることが増えていった。
「何故、お前が守らねばならぬ? この地に住まう民が、守れば良い事ではないのか? 」
人ならざるものが相手であれば、龍が地を守るも道理。しかし、相手が人であるのなら龍が守る必要などない。そんなに、傷ついてまで。
「龍の守る地を、荒らさせるわけにはいかぬ。地を治める者として、民は、守らねばならぬ」
澄んだ緑の瞳が、紅い光を映して揺れる。己の守る地を誇らしげに見つめていた瞳が、今は何の感情も見当たらない。
「お前は、龍だ。人ではない」
「……」
龍と人は、同じ世界を生きているようで、違う世界を生きているのだ。伴侶を無くした今でもお前が生きているのがその証ではないのか。伝えたい言葉は、深い緑の瞳に押しとどめられて表には出てこない。どうか、わかって欲しいと、伝えたいと思うのに。
風に乗る悪意は日ごと強く大きくなっていくが、近づいてくる気配はない。龍の守る地に人が手を出せば、無事ではすまない。それはわかっているのだろう。しかし、ならば何故この地を求めるのか。
「人は、逃げられぬ」
何もかもを吐き出すように嘆息し、口の端を歪める緑龍は悔しそうで、悲しそうで、とても苦しそうだった。
逃げられぬとは、何から? 逃げずに龍を敵とすれば、生きてはいられぬのに。何故?
低く広がる鉛色の空に、雷が走る。
何も知らぬ幼い龍を連れ空を舞い、己の社をへと招いた心穏やかな龍。どうか、このままでいてほしいと願うのは愚かなことなのだろうか。
気が付いたら、風に逆らい悪意あふれる北の地へと進んでいた。近づくごとに大きくなるのは、妬み、恨み、苦しみ、飢え、恐怖。龍庭の民にはない、強い思いが龍の守る地へと向かう。手に入れる事の出来ない平穏を手に入れようと望んでいるのが、伝わる。
穏やかに暮らしたい。その為には、龍に逆らうことも厭わないのだろう。
畑を見守る位置にある小さな社。村の暮らしを表すかのように壊れかけてはいるが、低い位置は綺麗に磨かれており、周りの下草は刈り取られている。社を大切にしている者がいる。
緑龍の住まう社は、秋の祭りの時以外には誰一人訪れることはない。北の地で、社を守る者に興味を持った。
住まう者のいない社に座り、畑を眺める。龍庭ではすでに刈り入れが始まろうという麦が、この地ではまだ植えられたばかりのように低く細い。その上、畑全てに植えられているわけではなく、何も植えられていない土地も少なくない。飢えの感情は伝わってくるのに、何故畑を作らないのか。働くことなく、龍の加護ある地を奪おうと言うのだろうか。
社を敬うのに、地を敬うことをしないのかと不思議に思いながら少しずつ傾く陽を眺めていた。
空が紅く染まり始めた頃、水の入った手桶を持ってやってきたのは、まだ幼さの残る少女だった。
白い肌に、夜闇のような瞳と髪。幼い頃のままであろう着物は膝ほどまでしかなく、細い枝のような足がむき出しになっている。
紅い光に守られるように社の柱を布で磨き始めた。願いを込めるように、丁寧に。
陽が落ちるまで社を磨き、下草を刈り、闇の中、来た道を帰っていく。
少女は、次の日もその次の日も、空が紅くなるころに手桶を持って一人で訪れ、社の手入れをして闇に消える。その細く小さな背中を、何故か美しいと思った。
「どこに行っていたのかと思えば」
数日ぶりに緑龍の地へと戻り、社の周りを見回りながら首をかしげていれば緑龍は不思議そうに隣に立って一緒に社を眺めてくれた。その姿に気を許し、社を磨く少女の話をすれば、溜息と共に呆れたような声をもらした。
「あの社には、何もおらぬ。それでも少女は社を敬っている。龍が住まう社を、何故この地の民は敬わぬ? 」
「秋には祭りがあるであろう。我は、人と関わりたいわけではない。社に来る暇があれば、畑を耕し、子を厭えばよい。それに、望んで社の手入れをしているわけでは無かろう」
確かに、望んではいないのかもしれない。少女はいつも、俯いている。暗い瞳で宙を見つめ、小さな手で必死に社を磨く少女。望まぬのなら、何故。
「冬が来る前に、その少女は社に来なくなる」
「雪では、来れぬだろうな」
この地ですら、雪が降ると人は山には入れない。ここよりも北にある地では、雪の中社を訪れるは、命に係わる事。そう呟いた私に、緑龍は憐れむような瞳を向けた。
「人は、逃げられぬ。貧しき地は、人を鬼に変える」
「どういう事だ? 」
「その瞳で、見るがいい」
諭すような穏やかな声が、胸に響く。その日から、私の住まいは北の地の社となった。