代わりに、名を
龍の身で、雪梅の語ったことをどれだけ理解できたのかは、わからない。だが、『朝陽の瞳に映らぬなら、私など価値はない』と、その言葉だけはやけにあっさりと胸に落ちた。
優しい黄金色の光に目を覚ました雪梅が、寒そうに身震いをする。『寒いのか』と問えば不思議そうな顔をされた。
「龍は、寒さを感じないのか? 」
「感じないわけではない。幾日も吹雪が続けば、春が恋しくなることはある」
「寒さで、死ぬことは? 」
「……考えたことがない」
「……」
「人は、寒さで死ぬのか? 」
「そう、だな。死ぬこともある」
「では、寒さを感じるその身体は、生きようとしているのだな」
心は、消えることを願っているのかもしれないが、腹が減り、寒さを感じる身体は懸命に生きようとしている。生きようとする身体を、心が殺していいはずなどはない。
「……要らぬ物だ。捨て置け」
「人の一生など、龍にとっては瞬きのうち。わざわざ捨てるほどの事もない」
「……」
雪梅の身体は日ごと寒さに震えるようになっていった。もうじき雪を降らす厚い雲がやってくる。このままでは、雪梅は春を待たずに動かなくなるだろう。
冬が近づくごとに、雪梅の顔からは意志が消えいき、指先は冷えて色を失い、ただ息をすることすらも辛そうだ。
「龍に看取られると言うのも、悪くはない」
「……」
「そんな顔をするな。私は、最期にお前に会えて良かったと思う。人ならざるお前は、どんな人よりも優しい」
「……」
「龍! 龍! 」
闇の中で目を覚ました雪梅が、かすれた声で私を呼んだ。いつから泣いているのか、頬は涙で濡れ、骨の浮いた手は助けを求めるかのように私を掴む。
「戦だ。村に兵士が……。朝陽の子が……」
「……何故、それを? 」
数日前から風に乗って兵士の足音が聞こえていた。しかし、この場所に来ることはない。人が人と争う事は龍には関わりのない事、雪梅が静かにいられるのならそれでいい。人である雪梅に聞こえるはずないのだから、知らせることも無いと思っていたのに。
「龍よ、助けてくれ。村を、朝陽の子を」
久しぶりに意志を宿した瞳で懇願する。その姿に、ひどく腹がたった。
「何故だ? 何故、助けたい? 」
「……約束を、した。村を守ると。朝陽は国を守り、妹の私は村を守る。朝陽と、約束をした」
「その男の瞳に、お前は映らず、名を呼ばれることもない。それでも? 」
「……それでも、だ。助けてくれ」
「……お前が生きるならば、助けよう」
助けたくなどない。人の争いに龍が手を貸すなど馬鹿げている。それでも、雪梅の瞳が私を映すのならば。
雪梅を背に乗せ、空を舞う。いつか飛んだ村まで、『朝陽』の側まで。
雪梅に、動く意志を持たせたのは私ではない。龍の私では、出来なかった。
村は怒号と泣き声であふれていた。壁に矢で縫い付けられ動かない者、泣き叫ぶ女子供、祈り続ける老人に、武器を持って前に出ようとする男が数人。武装している兵士は皆笑いながら刀を振るい、弓を引く。動かぬ者は折り重なって山となり、火がつけられた家の中からは叫び声が聞こえてくる。『朝陽』の子とやらが、この中で生きている保障などない。
「お前の助けたい者とは? 」
「わからぬ。だが、私が守りたいのは村全て。幸福だった、私の全て」
「そうか」
雪梅を背に乗せたまま屋根ほどの位置まで降りると、龍の姿を認め凍り付く兵士に、雪梅の姿を見て泣き叫ぶ村の民。ゆっくりと地上に降りたつと、雪梅の視線は幼い子供を背に隠し、片腕を無くした男に向かう。幼い子供は片腕を無くした男の背にしがみつき、男は怯えた瞳で雪梅を見つめる。
これが、雪梅の守りたい男。
苛立ちを抑えて雨を呼び家屋を襲う炎をたしなめると、ひきつった顔の兵士が一人逃げ出そうと背を向けた。それでいい。何も、動かぬ者を増やすことなどない。
「龍は、争いは好まぬ。このまま去り、二度とこの地を踏むな。さすれば、後は追わぬ」
疾く、逃げればいいのだ。龍にかなう人などおらぬ。逃げるのならば、興味もない。それなのに。
逃げようとした兵士が龍の視界から消えるよりも早く、後衛に控えていた兵士に切りつけられた。倒れた兵士は血にそまり、声のでない口で何かを必死につぶやいている。切りつけた兵士の足は、震えている。
「仲間では、無かったのか?」
「龍に怯え、逃げる仲間などおらぬ」
「そうか」
「……」
「この地を、去る気は? 」
「ない」
どうして、人とはこう面倒なのだろう。勝てぬならば、逃げるのは道理。逃げれば生きられるのに。身体の芯から息を吐き、雨の匂いのする空気を取り込む。雪梅が『守ると、約束をした』ならば雪梅に生ある限りは、この村を守ろう。
それまで、ただの一度も人を傷つけたことも殺めたこともなかったが、私の爪は、牙は、止まることなく弱く柔らかい肉を次々に引き裂き、叫び声をあげる兵士を動かなくしていく。逃げぬなら、動かなければいい。向けられる剣も、射られる矢も龍の身体を傷つけることはない。雪梅がこの村を助けることを望むのなら、この村に影を落とす者は全てこの龍の敵。
若草のような緑の身体も、冬を前に色を失っていた村も紅く染まっていくのを感じながら、ただひたすらに兵士を追う。そこには、すでに雪梅の意志は無い。
引き裂かれ、動かない兵士。紅く染まった村。立ち上る匂いに頭に霧がかかっていく。
「龍、もういい! もう、いい」
頭にかかった霧を払ったのは、初めて聞いた、雪梅の叫び声。
雪梅の守りたい者はまだ動く。願いを叶え、村を守ったというのに何故雪梅が泣いているのか。
「やはり、龍には人の望みは叶えられぬ」
「……」
「行け、お前の助けたい者は、まだ動くであろう」
情けなく呻いているが、私が殺めた兵士よりもずっと綺麗な身体をしており、泣いている子供を自らの身体で私から隠し続けている。雪梅の視線を受け、男は残った片腕を地につけ頭を下げる。
「すまなかった。逆らえなかった。守れなかった。だが、子供には関わりのないこと。この子は……」
怯えた瞳を向けながら、雪梅への謝罪と子供の命乞いを繰り返す男に、雪梅の顔から色が消えていく。
「龍、行こう」
血を滴らせる私の爪にふれた細い指は震えていた。来た時と同じように、龍の姿で空を舞う。雪梅が血に染まった村を、守りたかった者を見ることが無いように、高く、高く飛ぶ。
川を泳ぎ身体に付いた血を洗い流しても、血の匂いも肉を引き裂く感触も消えることがない。龍の爪と牙は、あんなにも簡単に人を動かなくする。肉を引き裂き、流れ出る血が爪を伝い、引き裂かれたものは声を出す事すらなく動きを止める。この記憶は、いつか消えるのだろうか。
あれだけの数を殺したというのに、雪梅にだけは生きていて欲しいなど、愚かなことはわかっている。
雲一つ見当たらない青い空。凍りそうな空気に震えながら雪梅が私の横に座った。血の匂いがするだろうという私に、穏やかに笑う。
「龍は、私の願いを叶えてくれた。血の匂いは、私のものだ」
「……」
「私に生ある間は、村を守ってくれるのか」
「それを、お前が望むのなら」
「そうか」
「お前が死ねば、守らない」
「……」
どれだけの間そうしていたのか、空は紅く変わってきた頃、雪梅が小さく呟いた。
「朝陽は、私の名を呼ばなかったなぁ」
「呼ばずとも、お前を目に映した」
「恐れながら、な」
「何故、名を呼ばれたい? 」
「名は、呼ばれて初めて意味を持つ。雪梅という名は、朝陽に呼ばれるための名だと思っていた。朝陽と、名を呼べる事が幸せだった」
「何故、呼ばなかった? 」
「……」
乾いた笑いの意味は、龍にはやはりわからない。ただ、雪梅の願いを叶えたかった。
「では、私が呼ぼう。雪梅、私の事は、今日より朝陽と呼ぶがいい」
「……」
言葉が出ない雪梅の頬に触れる。
「どうした? お前の望みは、『朝陽』に名を呼ばれ、『朝陽』の瞳に映ることなのだろう? 『朝陽』の名を呼び、『朝陽』を瞳に映す事なのだろう? 」
「……龍は、馬鹿なのだな」
雪梅は、呆れたような瞳で私を映す。『朝陽』となった私の瞳も、雪梅を映す。これでは、願いを叶えたことにならないのか。
「お前の、本当の名は? 」
「龍は、龍だ。名などない。お前が呼びたいと願った名で呼ばれるのなら、それがいい」
「……そうか」
その日から、私は『朝陽』になった。
雪梅は少しずつ生きる意志を取り戻し、龍を祭るために建てられた社に移った頃には、光に怯えることもなくなった。
穏やかな声で『朝陽』と呼び、優しい瞳に私を映す。私も『雪梅』の名を呼び、緑の瞳に『雪梅』を映した。幾度か兵士が村を目指したが、たどり着く者は一人としていない。いつの間にか、村には龍の守る地『龍庭』という名前がついていた。
「朝陽は、初めて会った時から変わらないなぁ 」
数日前から床についていた雪梅が、私の手を取り小さく呟く。その手は、出会った頃の娘の手ではなく、年月を重ねた皺だらけの手に変わっていた。それは、私と重ねた年月を刻んでいるようだった。
「雪梅は、穏やかになったな」
「そんな言い方も、出来るのだな」
乾いた唇が満足そうに歪む。
「朝陽の名を呼び、朝陽に名を呼ばれ、幸せだった」
「そうか」
「もう、充分だ。次にお前と生きる者ができたなら、別の名を名乗るがいい」
「別の名? 」
「そう。朝陽の、代わりになどなることはない」
「お前が、心穏やかになれるのならば代わりで良い。この先も、ずっと。この名は、雪梅に呼ばれた名。私の誇りだ」
「……好きにすればいい」
空が紅く染まる頃、雪梅は静かに動かなくなった。『龍に看取られるのも、悪くない』と満足そうに笑いながら。
「龍よりも、強い女だったな」
語り終えた朝陽は、紅く染まっていく空を見つめながら笑っている。仮にも『妻』である私の前で、この態度はどうなのだろう。確かに、聞いたのは私だけれども、もう少し隠すことも出来たのではないだろうか。
でも、不思議なことに、嫉妬なんて感情は少しも沸いてこない。それよりも。
「辛くは無かったの? 」
「何故? 」
「朝陽に、重ねられて」
私だったら、大好きな人が自分の名を呼ぶ為に誰かを思い出すなんて嫌だ。誰かの代わりにされるなんて、嫌だ。辛くて、きっと誰かを憎んでしまう。
「雪梅が、私と出会うまでに抱いていた想いまで私に重ねるのだ。何を嫌がる事がある? 」
出会うまでに、抱いていた想い。それまですべて受け止め、穏やかに笑う朝陽は本当に雪梅さんが大切だったのだろう。
「雪梅さん、後悔していたと思う」
「……」
「もっと素敵な名前をあげればよかった。あんな男の名前なんてって」
そう。だって、自分が添いたいと思った女が売られても平気な顔して別の妻を娶って子を成すなんて。そんな情けない男の名を、朝陽につけないで欲しかった。私一人憤っていると、朝陽がおかしそうにクスクスと笑う。
「一度、名を変えないかと言われた」
あ、やっぱり。だって、朝陽の方がずっと素敵だもの。
「雪梅が幼いころから愛おしく呼んだ名だ。この名で呼ばれると、雪梅の幼いころまで手に入れたようで、他の名など考えられぬ」
「そう……」
だから、仮にも私は妻なのでしょう?
「雪花は、この名が気に入らぬか? 」
不安そうな顔に、少し考える。名前の由来は、気に入らない。そんな男からもらったなんて、嫌だ。でも私にとって『朝陽』は目の前にいる龍神の『朝陽』のみ。
「似合っていると、思う」
「そうか、良かった」
嬉しそうににっこりと笑う朝陽は、本当に気にしていないのだろう。
「雪花の魂は、雪梅の魂に似ている」
「え? 」
「すまぬ、縛るつもりはない。代わりにするつもりもない。だが、よく似ている」
「……」
「お前に名を呼ばれて、幸せだと思う」
ああ、もう。幸せそうに私を抱き寄せる朝陽になんて、叶うわけがない。きっと私も、しわくちゃになるまで朝陽の名を呼び続けるのだろう。
名付け編はこれで完結です。
人とは違う龍の愛をテーマにしてみました。