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爆ぜる炎

 北への最初の峠に差しかかる頃にはすっかり陽は落ちていた。茂った木々は、優しい月明かりを通す事なく、辺りは闇に包まれている。雪梅は先に進むことをあきらめ、大木の側に腰を下ろした。飲み込まれるほどの静寂の中で瞳を閉じれば遠い記憶が頭をめぐる。強い意思を宿しながらも、とろけるほどに甘い響き。『雪梅と添いたい』

あれからどれほどの月日がたったのか。朝陽は、今も同じ気持ちでいてくれるのか。

 あるはずの無い希望に縋る。知らなければ、夢を見ていられる。わかっているのに、知りたいと思ってしまうのは、止める事が出来ないのは何故なのだろう。

 目を閉じると浮かぶ、戦から帰った時の朝陽の笑顔。自分も、同じように笑顔で『ただいま』と言いたい。

雪梅はゆっくりと甘い記憶に沈んでいった。


 闇の中に響く炎の爆ぜる音。女達の泣き声。男達の笑い声。

 暗闇に浮かぶ橙色の光は、音を立てながら建物を、女を飲み込んでいく。飲み込まれながらも静かに笑う古い娼妓。まるで、これ以上汚れずにすむ事を喜んでいるようだ。

 僅かしか覚えていないが、何もわからなくなっていた雪梅の身体を優しくなでてくれていたのは、怯える雪梅に幼子にするように子守唄を歌ってくれたのは、この娼妓ではなかったのか。

 嫌だ。嫌だ!

 叫び声をあげようとして、雪梅は目をさました。どれだけ眠っていたのか、辺りはうっすらと明るさを取り戻していた。静寂ので、炎の爆ぜる音が追いかけてくるようで、慌てて立ち上がり自分がいた後を消して北を目指す。只の夢であって欲しいと願いながらも、夢ではないと、己だけが逃げたのだと頭の奥で声がする。

「何が悪い? ただ一つの願いを叶えるだけ。何も、悪い事などない」

 何度声に出しても、炎の爆ぜる音が耳から消えることはなかった。


「木の芽をかじり、山を登ることはそこまで苦ではなかった。少しだけ、荷が重かったがな」

 自嘲気味に雪梅が笑う。その時の雪梅を支えていたのは、ただ一つ。『朝陽に、一目』

 

 どれだけかかっただろう。北へ北へとただひたすらに足を運び、妓楼から持ち出した麻履が二つ破けた頃、幼い頃に朝陽と戯れた小川が見えてきた。

 農地へと水を運ぶ小川は相変わらず美しく流れている。幼い自分と朝陽が草を浮かべ、魚を追って遊んでいるのが見えるようだ。懐かしさに涙が出るのをこらえ、息を殺して闇の訪れを待った。

 

 月の明かりが闇をてらす美しい夜。今夜は炎の爆ぜる音も追ってはこない。一刻も早く、朝陽に会いたい。はやる気持ちをこらえ、まずは父へ無事を知らせなければと、雪梅は育った家へと向かった。

 しかし、思っていた場所に雪梅の家は無かった。家があった場所には小屋が立ち農具がいれられている。家の場所すら覚えていられなかったのかと自身を笑い、何度も家の側を歩くが無いものは無い。嫌な予感が背中を伝い、炎の爆ぜる音が耳を突き刺す。真直ぐに進むことも出来なくなった足を動かし、朝陽の屋敷へと向かった。屋敷に付いた頃には月には厚い雲がかかり、雪梅の身を闇に隠してくれる。屋敷から聞こえる賑やかな声をたどり、朝陽に一目会いたいと歩を進める。望みどおりなのに、雪梅の心臓は早鐘のようになり、細い糸で締め付けらるようだった。


 屋敷の中から聞こえてくるのは、少し低い、甘えた声。幼い日からずっと聞いていた愛しい人の声。聞きたくて、聞きたくて、仕方の無かった声に、幸せそうな女の声が答える。雪梅ではない、女の声。


 聞きたくないのに、雪梅の耳は愛しい声を聞き逃すまいと一つ一つの言葉を拾ってしまう。

 何を言っているのかわからないのは、耳がはっきりと聞き取れないのか、心が聞きたがらないのか。

 

  屋敷の中はとうに静まっているのに、雪梅は闇が薄れるまで一歩も動けなかった。



「闇が身体を隠しているうちに、退けばよかったものを」

 闇に沈んだ瞳にも、吐き捨てる様な言葉にすらも、まだ想いが残っている。細い身体に、収まりきらない強い想いが。



 空が白んできたころ、屋敷の中では人の動く気配がする。じきにここにも人が来るだろう、早く出なければ、そう思うのに雪梅の身体は動いてくれない。

 扉を開ける音がして、水桶を持った女が出てくる。昨夜、愛しい声に答えていたのはこの女だろうか。日に焼けた肌に、黒く艶やかな髪、瞳には力が宿っている。今の自分と、違いすぎた。

 穴の開くほどに見つめる雪梅に気づいた女が、ぎょっとして水桶を落とし屋敷へ踵を返すのを見て、ようやく雪梅の身体はその場に留まることを諦めることができた。

 屋敷の中から聞こえてくる重みのある足音に、今更ながらどうか見ないで欲しいと願わずにはいられない。どうして、汚れた姿で朝陽の前に出ようなどと思えたのだろうか。一晩中庭に座り込んで固まった足を必死に動かしながら、なんとか敷地をでる。終わらせるのなら、せめて生まれ育った場所で。せめて、そこまで……。

 願いは、叶えられることは無かった。足音はあっという間にすぐ後ろに迫り、焦がれて望んだ腕が雪梅を捕らえる。愛しい声は激しく憤っている。

「顔を見せろ。何をしていた? 」

 一度だって聞いたことのない低い声に、背中に冷たいものが走る。言われるままに顔を見せれば、わかってくれるのだろうか。こんなに汚れた自分を、真直ぐに見てくれるのだろうか。

 迷う暇もなく、強い力に雪梅の身体は引き戻されて、顔を見られる。

 どうか、気づいて。

 どうか、気づかないで。

 相反する二つの気持ちが雪梅の中に渦巻いていた。

「……雪梅? 」

 ああ、知られた。汚れきった自分を見られた。

 気づいてくれた。名を呼んでくれた。朝陽を、一目見られた。

 もう、未練などない。

 


「朝陽に、一目会いたかった」

「……」

「幸せに、暮らしていたのね」

「……」

「私が、戻らない事……」

「申し訳、なかった。俺には、どうしようもなかったのだ」

 怯えるように雪梅から手を離し、愛しい声が震えている。違う。望んだのはこんなものではない。いつかのように、笑ってほしかったのだ。

 朝陽は、全て知っていたのだ。添いたいと願ったことで、雪梅の身に何が起こったのか。誰よりも優しく、弱い男性。朝陽が雪梅との再会に笑えるはずなどない。ただ一つの雪梅の願いは、愛しい人を苦しめることだった。

「お前の父は、もういない」

 地に膝をつき頭を下げる朝陽を、愛おしいと、朝陽の幸せを守りたいと思った。

「二度と、来ないから」

 安心して、穏やかに暮らしてほしい。どうか、傷つかないで。

 そう願うのに、どうしても言葉にならない。雪梅はゆっくりと朝陽に背を向け、村を出た。



「苦しめたいなどと思ってはいなかった。ただ、一目みたいと、会いたいと、それだけだ。何も側にいる事を望んだわけではない。だが、私の願いは、朝陽を苦しめた」

 闇に沈む雪梅の瞳には、後悔と悲しみと、喜びが宿っている。


「願いが叶ったのに、何故お前は消えたいのだ? 会えたのであろう? 会えたことを喜んでいるのだろう? 」

「……そう。喜んでいる。どれだけ汚れた姿でも、朝陽の瞳に映ることができた。私だと、気づいてもらえた。朝陽の名を呼ぶことができた。朝陽に名を呼んでもらった。だが、それは朝陽を苦しめる。朝陽を苦しめるのなら私など要らぬ」

「……」

「朝陽の瞳に映らぬなら、私など価値はない。光の届かぬ場所で、静かに消えたいと願った。お節介な龍に会わねば、今頃願いは叶っていたのにな」

「……お前の言っていることは、わからぬ」

「そうか。それは、お前が龍で男だからだろうな。元よりわかってもらおうなどとは思っておらぬ」

 そう言いながら、雪梅は満足そうに笑った。

「月が、出てきたな」

 いつの間にか風が強くなり、空を覆っていた雲はどこかへ流れていった。弱い光から身を隠すように、雪梅は大木の下へと身を寄せる。

「龍よ、私を哀れと思うなら、お前の中で生かしてはくれぬか。血肉一つこの世に残らぬように、消してはもらえぬか」

「お前を哀れだなどとは、思わぬ」

 真直ぐな瞳は一度大きく揺れ、伏せられた。

「すまなかった、忘れてくれ。少し疲れた」

 雪梅はそのまま座り込み、大木へ背中を預けた。伏せられた瞳には、月も星も映すことはない。


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