長い眠り
良縁を断って、下働きの娘との縁だなんて許されるはずもない。父も仕事を失い、親子二人この村には住めなくなる。そんなことわかり切っているのに、『もう充分だ、止まらなければ』と思うのに、朝陽の後に続く足を止めることができずに幼い頃に何度も訪れた屋敷の門をくぐる。
『雪梅と添いたい』と告げた朝陽に、屋敷の主人は呆れ、奥様は笑い、父は困ったように頭を下げ続けた。そんな中で、朝陽は何度も『雪梅と添いたい』と繰り返す。
「帰れ」
静かに響いた低い声に父の肩がビクリと震えた。これ以上ここには居られない。苛立ちを隠さない朝陽を残し、父と共に月明かりの中、重い足をすすめた。家に戻っても、父は何も言わなかった。ただ、普段は口にすることの無い酒を飲み、ぼんやりと月明かりを眺めている。
「添えると、思うのか? 」
夜明けを迎える頃になって、ようやく父が口を開いた。馬鹿な事をした娘への憤りではなく、娘の想いも現実もすべて知っている父からの言葉には重みがある。雪梅も、わかってはいる。今どれだけ想おうとも、いつか悔やむ日が来る。何も持たず、何も与えられない雪梅と添うても朝陽は何も手にすることができない。いつか、後悔を宿した瞳で雪梅を見る日が来る。
「それでも、今、朝陽は私を欲してくれている。今だけでも」
「そうか」
父はそれ以上何も言わない。父の背中が、雪梅の心を締め付けた。
その日から、父は朝陽の家に通うことは無くなり、山を越えた隣の村まで仕事を探しに行くようになった。落ち着いたら連れに来るからという父に、雪梅は『朝陽の暮らすこの村にいたい』と告げた。父の困った顔を、雪梅は生涯忘れることは無いだろう。
朝陽が村に戻ってから一月もたたぬ頃、また戦が始まるとの知らせが届いた。小さな戦だから、経験を積ませるために若い者が多く取られる。そんな噂が村を飛び交い、若い男子を持つ母親たちは、役人からの通達に怯える日々を過ごしていた。
「お前も、歩兵として戦に加わってもらう」
父を戦にとられるときに、同じ言葉を何度も聞いた。だが、今回『歩兵』になるのは雪梅だ。女が歩兵になど、聞いたこともない。これが、屋敷の主人の答え。雪梅は素直に頷いた。
「出立は明日の夜明け。今宵はゆっくり休むがいい」
「……はい」
自分が望んだことがどれだけ無謀な事だったのか、どれだけ愚かな願いだったのかを思い知った。
妹として、側にいればよかったのだろうか。
否。
たとえ一瞬でも、朝陽が自分を望んでくれたことは真実だ。雪梅の想いが伝わったことは、決して悔やむ事ではない。必ず戻り、もう一度朝陽に会う。強い想いを胸に抱き、雪梅は戦地へと向かった。
噂通りの小さな戦。部隊は、すでに第一線を退こうという上官に、まだ幼さの残る若者たち。驚いたことに、雪梅以外にも女が混じっていた。女が戦力になるのかという雪梅の疑問は、彼女たちの脅えを見て掻き消えた。怯えているのは、敵にではない。
戦力には圧倒的に差がある隣国との小競り合い。若者に戦の経験と、『良い思い』を。そんな思惑から連れてこられたのであろう女達は、これから起こることに怯え、諦めていた。
敵地へ向かう前の晩、女達は上官の部屋へと呼ばれた。
「お前たちは、明日より歩兵となる。女であることに甘えずに、精一杯勤めよ」
「……はい」
「歩兵としての手柄があれば、それなりの待遇があろう」
歩兵に、待遇などあるはずがない。わかっているのに、無事に帰れるのではと期待してしまうのを止められない。朝陽は、知っているのだろうか。もし村に戻ったら、朝陽は『おかえり』と言ってくれるのだろうか。悲しくて切なくて、やりきれないはずなのに涙は出てこなかった。
上官の大きな手が、雪梅の白い肌を這っていることにすら何も感じない。隣の女が涙を流しているのを見て、何故か羨ましいと思った。
部隊は、二つに分けられた。雪梅達女は、後衛。女と、守役であろう父ほどの年の男性が数人。前衛の部隊よりもかなり遅れて進む。当然、小競り合いの戦などに参加することはない。片付いた頃に追いつき負傷兵の手当てを行い、手柄をあげた者に寄り添う。『これが国の兵なのか』と声をあげた者は翌朝には物言えぬ身となり、まるで最初からいなかったかのように扱われた。
雪梅はいつの間にか、壁のある場所に一人で座っていた。冷たい壁に固い床、紅い格子窓。狭い部屋はすえた匂いがする。戦がいつ終わったのか。いつ、人の住まう場所へと戻ってきたのか。何も覚えてはいなかった。常に白い靄のかかる頭を抱え、肌を這う男の指すらも、当たり前のものとして受け入れている。
「あれが、心が壊れるという事なのだろうな」
雪梅の声は、穏やかだ。怒ることも、悲しむ事もなく、ただ事実だけを思い出している。
「まだ、生きていたのか」
不躾な態度で部屋に現れたのは、戦で女達の守役を任されていた男だった。雪梅が生きていることを純粋に驚いていた様子に、他の女達の行方を見た気がしたがそれだけだ。悲しむ気はしない。
「じきに、大きな戦が始まる。ここにも兵士が来るだろう」
『兵士』とは何か。それすら雪梅には考えられない。靄のかかった頭に浮かぶのは、二人の男性の顔。一人は優しく力強く笑う。もう一人は、不安そうに笑う。不安そうな笑顔に、なぜか胸が暖かくなる。
「逃げるのなら、北だ。お前の故郷は、ここより北にある。大きな峠を三つ越えれば、お前の育った村がある」
逃げる? 何から? 故郷とは?
考える事を忘れた雪梅に、男は呆れたように笑い雪梅に飴を差し出した。
「何も、わからなくなったか。それも、幸せかもしらんな」
飴を口にする雪梅の荒れた肌に、ごわついた男の手が触れる。ああ、また始まる。何もかも忘れているのに、この瞬間の暗い気持ちは消えることがない。窓から紅い光が差し込んでくる。また、長い夜が始まる。紅い格子窓を通る風は生暖かく、湿った雪梅の肌を撫でていく。
その日は、やけに静かだった。窓の外を行きかう人は誰もが無言で、急ぎ足でどこかへ向かう。いつものように、足を止めて女を値踏みするような者は一人もいなかった。今夜は静かに過ごせる。明かりの灯らない闇の中、雲の切れ間をぬう様な月明かりに不意に一つの言葉が頭に浮かんだ。
『添えると、思うのか』
頭に響いた悲しみと怒りの混じったような声に、急激に頭が冴え、目に映る月が光を取り戻す。
添えるはずなどない。わかっていたつもりだったが、父に守られ世間を知らぬ雪梅の頭で考えていた世の仕組みなど、たかが知れていた。共に戦地に集められた娘は、全て要らぬ娘。要らぬ娘を、歩兵への慰みものにし、二度と村へ帰って来ぬように妓楼へと売り飛ばす。朝陽の縁談の邪魔にならぬように。
悔しい。憎い。
人の所業とは思えぬ仕打ちに、黒い感情が胸の奥底から湧いてくる。朝陽は、知っていたのか。父は、知っているのか。歩兵となったあの日に涸れたと思った涙が、双眼からボロボロとこぼれてくる。
悔しい。憎い。
沼の底に沈む泥のような感情が、身体中に広がっていく。そのまま泥の中に埋もれてしまいたいと思うのに、泥の底には柔らかい夕焼けのような光が消えることなく灯っている。
逢いたい。
一目でいい。こんな汚れた身体で、朝陽の横に並びたいなどとは望まない。それでも、一目だけでも。
どうやって、ここを出る? どうしたらいい?
しばらく眠っていた雪梅の頭には、何も浮かばなかった。
夜が明け、陽が高く上っても窓の外は急ぎ足で歩く人であふれている。こんなに人が通るのに、誰一人妓楼に視線を向けることはない。普段はこの道を避けているのであろう女も子供も足早に通っていく。何かが違う。何か、逃げねばならぬことが起きている。
妓楼の者は、逃げないのだろうか。
妓楼の者が逃げるのならば、娼妓も。妓楼を出ることができれば、逃げられる。北へ、北へ。
空が紅く染まる頃には、窓の外を歩く人はいなくなっていた。何が起きているのか、自分達はどうなるのか。妓楼全体に、不安が色濃くなってきた頃ようやく娼妓を集めるための鐘が鳴らされた。
集まってみれば、鐘を鳴らしたのは妓楼で一番古い娼妓。男衆も仮母もいない調理場はやけに広く寒々としていた。
「よく、聞いて」
古い娼妓の震える声に、脅えながらも耳を澄ます。
「戦が、大きくなっている。もうすぐこの町にも敵国が攻めてくる。その前に、町の人は逃げたの。ここの男衆も、仮母も。私達は敵国の兵士を足止めするために置いて行かれた」
誰もが、諦めの息をもらした。知っている。娼妓は『人』ではない。ただの『女』だ。兵士を少しの時間でも留め置ければ、それだけ『人』は逃げられる。だから、ここに残した。何も知らせずに行くことも出来ただろうに、古い娼妓に事実を教えただけでも思いやりがあると言うものだろう。
「扉は全て、外から鍵がかけられた。でも、この調理場の窓の格子は緩んでいる。壊せば、逃げられる」
子供の頃からこの妓楼に住む古い娼妓は、雑用係の年寄りに可愛がられていた。孫のようにとはいかなくても、妓楼の思惑を教え、逃げられるように細工をする程度には。
「逃げてももう遅いのかもしれないし、逃げた先で妓楼の者に会うかもしれない。ここで兵士が通りすぎるのを待った方が良いのかもしれない。兵士の相手をすることで、敵国でも生きて行けるようになるかもしれない。私にはわからない。でも、逃げる気があるのなら……」
年若い娼妓達は、言葉が終わるのを待つよりも先に、窓の格子を押し始めた。迷いなく、わずかな希望差し込む外の世界へと逃げ出していく。
長く妓楼に暮らす娼妓達は迷っている。籠に捕らわれ、諦めて生きてきた時間の長さが、逃げた先のあるかもしれない幸せよりも、確実にある不幸の方に目が向いた。このまま、息をひそめていれば生きられるのではないか、兵士に気に入られればいいのではないか、などと口にする者まで出てきた。
雪梅は、迷いを抱き戸惑う娼妓に背を向け、仮母の部屋へと向かった。仮母は、唯一妓楼から外に自由に出られる女だ。外を歩くための履を探す。麻で作られたものが数点見つかったが、山を登れるようなものは見つからない。持っていないのか、持って行ってしまったのかはわからないが、無いよりはましだろう。目に付いた数点の簪と麻履、上品な刺繍をあしらった紅い衣を一点だけ麻布にくるむ。雪梅が戻った時には、諦めた娼妓が調理場の食材を漁りながら笑っていた。
「雪梅、いくの? 」
鐘を鳴らした古い娼妓が不安そうな顔をする。出ていくことも、取り残されることも不安で仕方がないのだろう。
「はい。姉さん。ありがとう」
彼女が長く娼妓として生きてきたからこそ、逃げる道を与えられた。おそらく二度と生きて会うことはないだろう。両手を組み、膝をついて感謝の意を伝えた。
「また、会いましょう」
彼女のいう『また』は、この世ではない。返事に詰まる雪梅の背を、窓の方へと軽く押す。
数年ぶりの妓楼の外は、静かだった。もうすぐここに兵士が来る。せめて、姉さん達が穏やかな最後を迎えられるようにと祈りながら、北へと向かった。
西からの敵に逃げる民の多くは東へと向かう。北へ逃げるには、一度西に向かわなければ道がない。敵に会うことなく
北へ逃げるには、道の無い山を登らなければならない。それでも、北へ。