幸福な時
「龍の姿と人の姿、どちらが本当の姿だ? 」
風を従え、紅い空を泳いで洞窟に戻ると、娘が不思議そうな顔で訪ねてきた。
「どちらも本当だ」
龍の姿も人の姿も私である以上どちらも『本当の姿』だ。見目の姿を変える事よりも……。
「動かぬものになりたいと願うお前と、生きようとするお前は、どちらが本当なのだ? 」
与えた物を口にするようになってきたのは生きる意志があってこそのことであろうが、自分から食べ物を求めることも、外に出ていくこともない。私が娘に飽き、食べ物を運ばなければすぐに動かなくなるだろう。そして、娘はそれを事も無く受け入れる気がしていた。
「どちらも、本当だ。私を拾ったのはお前だ。飽いたら捨て置け」
色の戻った唇を歪めて笑う、強さと弱さを併せ持つ娘に、日ごと興味は増していくばかり。
「捨て置くことは、ない」
「そうか」
不満そうに口の端を歪め、紅い光が消えていくのを待ち遠しそうに外を眺める。
闇が山を包むころ、外の世界に焦がれる様な視線を送る。風が運んだ色づいた葉を嬉しそうに見つめるのに、外に出ようとはしない姿に苛立つのは、何故なのか。
「空は、嫌いか? 」
「そう、だな。見上げねばならぬ光は嫌だ」
「ならば、見下ろせばいい」
「見下ろす? 」
私を見つめる娘の腕を取り、外まで引きずるように連れて行き、龍の姿で娘の細い身体を壊さぬように掴んだ。
「お前は、下を見ていろ」
それだけ言って、落葉を踊らせながら空を舞う。木々よりも高く上がっていく身体に娘は言葉を失っていたが、恐怖を感じている気配はない。言われたとおりに、眼下に広がる闇と、山向こうに見える人の世の光を見つめている。とても愛おしそうに、悲しそうに。
「龍よ、このままあの村まで飛べるか? 」
真直ぐな視線の先には、この辺りではひときわ光の多い場所。これで別れになるかもしれぬと思いながらも、断る道理はないはずと光を目指した。
「どこに、下りればいい? 」
無言のまま、一番大きな屋敷の屋根を指す。顔からはすでに色は消え。強い意志を宿しているはずの瞳は、曇っている。
音をたてぬように屋根に乗ると、屋敷からは賑やかな声が聞こえてくる。幼子の高い笑い声に、父親らしき少し低い声。娘は痛みをこらえるように顔を歪ませた。
龍の姿のまま娘の膝に顎を乗せれば、私の角にそっと柔らかい指先が触れる。
「龍よ、其方は人を食すことはないと言ったな」
「ない」
「ならば、人を、村を守る事は出来るか? 」
「……我は、人とかかわるつもりはない」
「そう、か」
それきり黙って屋敷から漏れる声に耳を傾ける。月が沈み、屋敷の明かりが消えるまで。
「ここに、残るのか? 」
娘がそれを望むのであれば、それでもいい。屋敷の庭にでも置いて行こうかと思ったが、娘は黙って首を振る。
「今の私の足では、この村をでるまでに朝が来る。捨て置かれるのは構わぬが、出来れば村から離れた場所で」
「捨て置くつもりは、ない」
戻ってから、娘は何日も動かなかった。与えた物は、口にする。話しかければ、瞳を動かす。だが、声を発することも、外の世界に視線を動かす事すらなくなった。
私は、黙って娘の横に座る事しかできなかった。
「人とかかわる気がないのに、何故私を助けた? 」
数日振りに聞いた娘の言葉は、初めて会った時と同じものだった。
「わからぬ」
当然、答えも同じもの。かすれた声で少し笑った娘だけが、あの時とは違う気がする。
「少し、歩きたい。龍も、一緒に来ぬか? 」
いつから歩いていなかったのか、ふらつく身体を岩で支えながらゆっくりと外に出ていく背中は不思議なほど真直ぐだった。
「月がない。星も、雲に隠れている。いい夜だ」
「……」
「龍よ、闇は嫌いか? 」
「光り輝く空も、闇に覆われた空も、嫌だと思うことなどない。全て、美しい」
「そうか。私は、何もかもを隠す闇の中が、一番美しいと思う」
「……何から、隠れたいのだ? 」
「……隠れたいのではない。消えたいのだ」
「なぜ? 」
娘は、真直ぐに闇を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
村で一番大きな屋敷。
娘の父は屋敷で下働きをしており、時間があれば屋敷の一人息子、朝陽に剣術の稽古をつけていた。娘も一緒に。
「早くに逝った母は私に雪梅だなどと美しい名をつけたが、料理や裁縫よりも剣術が好きでな。父も、女だからと無下にはしなかった」
父は、戦の多いこの国では重宝されていたらしく、戦の度に本隊への参加を申し付けられていた。その都度、雪梅は屋敷に預けられ、父の代わりに下働きとして働かせてもらっていた。
働きながらも、朝陽と一緒に毎日剣術の稽古をしていた。
「あの頃は、兄のように思っていた。朝陽と一緒にいられる毎日が楽しく、全てが私に優しかったような気すらする」
雪梅がまだ十にもならぬ頃、すでに十五になっていた朝陽が戦に行くことになり、父と朝陽の稽古は日ごとに激しさを増していった。
「雪梅の父様は強いなぁ。俺も、強くなりたい」
悔しそうな顔を、愛おしいと思った。恋など知らぬ子供だったのに。
「雪梅も大人になったら戦に出て、朝陽を守ってあげる。だから……」
思わず口から出た言葉に、朝陽は目を丸くして、困ったように雪梅の頭に手を置いた。
「雪梅は、戦には行かない。女だから。でも、雪梅は強いから、ここで、俺の帰る村を守っていて」
「ここで? 」
「俺は戦で国を守る。俺の妹の雪梅は、村を守る」
嬉しそうで、誇らしそうで、少しだけ不安そうなその顔に雪梅は何も言えなかった。この村で一番の剣士である父ですら、戦から帰ると必ず傷ができている。傷から嫌な臭いが立ち上っている事も、一度や二度ではなかった。朝陽が怪我をすることも嫌だったし、心優しい朝陽が誰かを傷つける事も嫌だと思ったが、それは口にしてはいけない。十にも届かない雪梅にもわかり切っていることだ。代わりに、必ず村を守るからと力強く約束をした。
それから、朝陽は戦の都度駆り出されるようになり、雪梅の父は戦に行くことがなくなった。穏やかな時が流れる中で、雪梅は一人剣術の稽古を続けていた。剣を振るうたび、朝陽を守ってく欲しいと神に祈りを込めながら。
「雪梅、帰ったぞ」
戦が片付くと、屋敷に戻るよりも先に雪梅の住む小さな家に顔を出す朝陽。鉄の匂いをさせてくるのに、その顔はひたすらに明るく嬉しそうだ。だから、雪梅も聞けなかった。たった一言『辛くはないの? 』と。
飲み込んだ言葉の代わりに出てくるのは、他の人々と同じ。
「おかえり」
それ以上、言葉は浮かばない。
「ただいま。今夜は、宴に来るだろう? 」
子供の頃と同じように屋敷に招こうとする朝陽に、持ってはいけない希望を持つ。
「行かない」
父が戦に行っている間に預かってくれたのは、まだ幼かったから。もう違うのだ、屋敷で働いている訳でもないのに、出入りなどできないと何度言ってもわかろうとしない。
「可愛い妹にも無事を喜んで欲しいのになぁ」
大げさにうなだれて見せる朝陽は、『可愛い妹』などと呼ばれて雪梅が喜ばない事には、いつまでたっても気づくことなどないのだろう。
「……宴が、退屈なのでしょう? 」
「まぁ、なぁ」
バツが悪そうに笑う姿は、昔と何も変わらない。
朝陽からすれば、年配の親戚に囲まれた宴は窮屈で仕方ないのだろう。何とか、雪梅をひきこんで自分以外に関心を持ってもらいたいと言うのが見て取れる。でも、そこで向けられる関心は、雪梅にとって居心地のいいものではないと言うことまでは、考えが及ばない。そんな人だった。
「行かないよ」
そうかぁ、と至極残念そうに肩を落としてお茶を飲み、屋敷に帰っていくのがいつもの流れ。もう何度このやり取りを繰り返したのだろう。あと何度繰り返したら、終わるのだろう。
戦から戻って、一月もたつ頃。雪梅が畑から戻ると朝陽が家で一人、茶を飲んでいる。図々しくも一緒に昼を食べたいと言うので生地に南瓜を練り込んだだけの饅頭を出すと、感心したように眺めてから、ぽつりと呟いた。
「雪梅、嫁に来ないか? 」
「……」
ふざけているようには見えないが、本気だとも思えない。意図をはかりかねた雪梅は、朝陽の次の言葉をまった。
「嫁に来ないか? 」
同じ言葉が繰り返され、雪梅の聞き間違いではない事だけが伝わった。
「縁談が、来ているのでしょう? 」
次の戦に行く前に、と縁談の話が来ていることは父から聞いていた。山向こうの村の村長の娘だと、父がうつむいていたのが間違いだったとは思えない。
「綺麗な女性だと聞いている」
「良かったじゃない」
雪梅の声に苛立ちが混じる。綺麗な花嫁を迎えることになっているのに、どうしてそんなことを言うのか。雪梅が、今どんな想いで朝陽と向き合っていると思っているのか。妹などではないと、どうしてわからないのか。言葉に出来ない想いが、刺のある言葉となり朝陽に向かう。
「会ったこともない綺麗な女性よりも、お前がいい」
真直ぐな瞳は、雪梅と同じ想いを宿していた。夢にまで見た、朝陽の言葉。だか、縁談を断ってまで自分と一緒になって、朝陽は何を得る事が出来るのだろう。自分が屋敷で朝陽の妻として暮らす事ができるのだろうか。想いが伝わることを願ってはいたが、妻となりたかったわけではない。
ただ、妹ではないと知ってくれていたのなら、それでよかったのだ。
雪梅の想いは、言葉にしてはいけない。これまで、わきまえてきたではないか。言葉になろうとする想いを必死で胸の中へと押し戻す。
「妻にするのなら、お前がいい」
その言葉に、嘘は感じない。喜びと、不安。相反する想いが、涙に変わる。
「嫌か? 」
不安そうな朝陽に、必死の決意が音をたてて崩れていく。
頭が取れるのではないかと思うぐらいに首を振れば、嬉しそうな朝陽に抱きとられた。朝陽の胸は、もう鉄の匂いは消え、ほのかに甘い香の香りがする。