鬼の望み
ココハ クラクテコワイ
ドウシテ ワタシヒトリ
ドウシテ ダレモタスケテクレナイノ
地を這う様な声が、闇に響く。私の胸にあった勾玉は、春麗の姿の鬼へと姿を変える。
ニクイ クルシイ イタイ コロシタイ
イトオシイ マモリタイ イキテホシイ
ワタシダケ イタイ ワタシダケ クルシイ
マモレナカッタ マモリタカッタ
時間を置いたせいだろうか、鬼の言葉に混乱が見える。憎しみと愛情。庇護と殺意。相反する感情を持て余し、苦しんでいる。
イタイ イタイ クルシイ イヤダ
アネサマ アネサマ ドコ
姉を守ろうと、最期まで手を伸ばしていた春麗。先に娼妓となった姉は、売られてきた妹を哀れと思ったのだろうか、愛おしいと思ったのだろうか。己が逃げる事で、妹までも殺された。そこに後悔はあったのだろうか。それとも、汚れることなく死ぬことを、羨んだのだろうか。
「お前の姉は、もう旅立った。お前は、いつまで縛られるのだ? 」
アネサマヲ カクシタノ
アネサマニ ナニヲシタノ
ユルサナイ アネサマヲキズツケタラ ユルサナイ
春麗の周りの闇が深くなり、春麗に従う冷たい風が龍の硬い皮膚に傷をつける。
「お前は、何を望む? このまま鬼として闇を彷徨う事を、望むのか? 人として命を終えれば、その先で姉に会うことも叶うだろう。だが、鬼に堕ちれば二度と会うことは叶わぬ」
ウソダ ウソダ
オマエガ アネサマヲカクシタノカ
アネサマヲ カエセ
「何を言っても、通じぬ」
嘆くように緑龍が呟く。鬼に堕ちた者に言葉を届けるのは、たやすい事ではない。春麗の風は龍の身体を傷つけ、短い夏を謳歌する花々までも、切り裂いていく。
「想い出せ。お前が望んだのはこの地の平穏。この地に暮らす家族の平穏」
シラナイ シラナイ
アネサマ アネサマ
タスケテ アネサマ
コワイ イタイ イヤダ
折れそうな心を必死で支えていたのは、家族を守るという誇り。だからこそ、目の前で姉が動かぬ者となったことで、足元が崩れた。今の春麗に残っているのは、恐怖と怒りと、一緒に堕ちたはずの姉への執着。
ジャマヲ スルナ
オマエモ ニクイ
何もかもを飲み込み真直ぐに前を見つめていた瞳から、涙がこぼれ堕ちる。
冷たい風は勢いを増して私に向かい、切り裂かれた皮膚から徐々に体温が奪われる。恐怖と怒りと憎しみを乗せた春麗の風に幼い龍が操る甘い風が巻きとられ、少しずつ、少しずつ龍の身体が血に染まり、風は龍の血を巻き上げる。
好きにさせてやりたい。
呆けた頭に浮かぶのは、闇に消える細く小さな背中。真直ぐに前を向くのを、美しいと思った。願うことはたくさんあったのだろうに、私を前にして願ったのはただ一つ『暑い夏』。もう充分ではないのか。人でなくなってまで、願いを押し殺す必要がどこにあるのだ。春麗が闇に堕ちて彷徨うならば、供をしてやることも、悪くはない。私が倒れれば、緑龍が鬼を滅してくれるだろう。そうなれば、二人で闇に堕ちるのか。
痛みに崩れようとする身体を堪え、見上げた先にいたのは満足そうに龍の血を舐める鬼。
これは、春麗ではない。
一瞬で、頭が冷えた。折れそうな心を持ちながらも前を向いていたのは、家族を守るという誇りがあったから。家族を愛おしいと思う心を持っていたから。どんな死に方をしたといっても、それを失ってしまったら、真直ぐに前を向いていた春麗はどうなる? 己でなくなることを、あの小さな背中が望むはずがない。ならば、今目の前にいる鬼は? 春麗の身体を奪った鬼?
「春麗では、ない? 」
「違う。間違いなくお前の知る娘だ。だが、闇を見つめる心だけが残り、光を見つめていた心は眠っている。このまま鬼に堕ちれば、光を見つめる心は消え、闇だけが残る。それは、お前の知る娘ではないともいえるが、変わらないとも言える」
血に染まっていく私の背を黙って見守っていた緑龍が口を開く。言葉はすぐには飲み込めなかったが、目の前にいる鬼が確かに春麗なのだということは伝わった。
「救いたいと願うのならば、逃げるな」
静かで低い声が真直ぐに耳に届く。逃げたいわけではない。だが、どうしたら。
「好きにさせてやりたいと願ったお前の心は、間違ってはいない。だが、それは力を持つ者こそが願えること」
「力を……」
鬼の操る風は徐々に緑龍を遠ざけ、私の周りだけを冷たい風が襲う。幼い龍なら恐れることはない、殺し、喰らい己に取り込めると思っているのか。
「幼くとも、龍だ。鬼になど負けぬ」
少しずつ、少しずつ、鬼の風を巻き取り我が意に添わせていく。私の身体を切り裂いていた風は春麗に向かい、白い肌を切り裂き始めた。どれだけ切り裂いても、赤い血を流すことはない。もう、命を持たぬ者なのだという事実が、私の胸を重くする。
イヤダ イヤダ
ドウシテ ワタシガシヌノ
シニタクナイ ウラレタクナドナイ
幼子のような泣き声が風に乗り、私の胸を切り裂いていく。皮膚を切り裂かれるよりもずっと強い痛みに風を操る力が弱まっていく。『どうして』なのだろう。何故、春麗は生きられないのか。
「黒龍! 幼くとも、其方は龍だ。鬼になど惑わされるな。その娘は、何を望んでいた? 今の姿がその娘の望みか? 望みを叶えるのは一度でもかかわった其方の役割」
緑龍の冷たい声が耳に届く。弱まっていた龍の風が、暖かい春の風に押し上げられ、力を取り戻して鬼に向かう。春麗の『望み』とは? 闇にまぎれて社を磨きながら、彼女は何を望んだ? 何を欲した? 北の地に咲く梅の花を誇らしげに語ったのは、何故だったのか。
社の横に植えられた梅の木は、鬼の風にも龍の風にも負けずにただそこに立っている。細い幹を、枝を揺らしながらも、折れることなくただそこにある。
「人の娘よ、お前の守りたい地を、我と共に守っていく気は無いか? 」
ワタシハ マモッテモラエナカッタ
ダレモ タスケテクレナカッタ
ダレモ マモリタクナドナイ
ダレモ タスケタクナドナイ
いやいやと幼子のように首を振る。本当は、こういって逃げ出したかったのだろう。だが、それでは春麗ではない
「お前の兄は、いずれ子を成すだろう。その子は、お前の血も引く。お前がつなぐ命は幸福な未来へと続く」
我が身を捨て、何もかもを飲み込んだのは家族の幸福な未来を望んだから。その望みすら忘れてしまったのなら、春麗の生きた証は何も残らない。
シラナイ
シラナイ
春麗の意に沿う風が、全てを拒絶するように冷気を増して私を襲う。己の望みを叶えるために、龍を殺して肉を喰らおうと紅い口が大きく開かれている。
力で抑える事も、滅することもできる。だがしかし、それでは春麗は鬼となる身から逃れることはできない。どうしたら、救えるのだろう。
迷いながらも退くことはできない。少しずつ鬼の風は龍の風へと変わっていき、春麗の身体は自らが呼んだ風にまかれ、切り裂かれていく。
イタイ イタイ ヤメテ
悲痛な叫びに怯んだ龍の風を鬼が捕らえる。意に沿う風全てを剣として、盾となる風は少しも残さない。鬼の身体は少しずつ裂け、白い骨が見えるようになっても我が身を守るために風を呼ぶ寄せることはない。今の春麗には、痛みよりも憎しみなのか。
どうしたら、救えるのだろう。
緑龍ですら救えないと言った鬼を、未熟な龍である我が救えるはずなどない。闇に堕ちるぐらいならば、我が手で滅するべきではないのか。
龍の風は強く激しく鬼に向かう。終わらせてやりたいと、勝手な願いを風が叶えようとしているのだろう。鬼は痛みに呻きながらもわずかばかりの風を使い真直ぐに龍の懐に飛び込んでくる。紅い口から覗く鬼の牙にもう人としての意志などなく、迷うことなく龍の首に食らいつく。
救えない。
私の頭に浮かんだ覚悟は、このまま人として春麗を終わらせることだった。まだ誰も殺めていない魂なれば、闇に堕ちることはない。せめて、人としての最期を。
春麗の操る風は抗うように強く激しく私に向かう。だが、龍の意志を受けた風は鬼の風など寄せ付けることはない。争う風は竜巻のように地を滑り、天を駆け、梅の木は激しく撓り、苦しさを訴えるようにその身を軋ませる。