5:大学生の事情(1)
時間の流れは早いもので、私がこの町に来てもうすぐ一週間になろうとしていた。
最初の頃こそ頻りに山に帰ろうと対抗していた兄であったが、今はなんやかんや大人しく家に居座ってくれて……という表現もおかしい気もするが、兎にも角にも山に帰ることもなく、毎日散歩するくらいで満足してくれているらしい。
お隣二人組も兄の様子を見るついでによく遊びに来ている。駿河さんがちょっかいをかけに、そして義人さんがその付き添いといった感じである。
また、ご近所同士助け合いの精神で偶に隣の晩ご飯を食べに集まる事があり、何度か通ってそれぞれの得意料理も分かってきた。
義人さんはレシピがあればある程度作れるオールラウンダー。駿河さんはガッツリ系の丼、鍋、鉄板系。そして私は和食(おかず二品程度)である。
う〜む、女子力が足りない……。
それはさておき、現在午後一時を少し回ったところである。珍しく兄は隅っこで布団を敷き、昼寝に勤しんでいるし、私もそろそろ買い出しに向かおうかと思い、財布を手に取った時、妙に重々しい扉の音と共に彼らは訪れて来た。
「あ、こんにちは。義人さん、駿河さん」
「やぁ、ごめんね急に。今から出かけるところだった?」
「ええ。でも大丈夫です! ……何かあったんですか?」
やたらしおらしそうに玄関に佇む義人さんの顔を覗き込む。覗き見えたその表情からは、詳しい感情を読み取ることは出来なかったが、マイナス面の感情であることだけは感じ取れた。
続けて後ろの駿河さんの方に視線を向ける。普段通りのニヤケ顔を崩さない彼だったが、どうやら手元のスマートフォンをチラチラ見つつそわそわと落ち着かない様子である。
「あの〜……駿河さん?」
「Hey,girl.Everything goes well……maybe.」
「おっと、もしかしてかなり動揺してますね?」
怪しげな英語を使う駿河さん。右手はサムズアップしてますけど目がざばんざばん泳ぎまくってます。
とりあえず買い物は後回しにして、彼ら二人を居間へと案内することにした。
「あの……お茶どうぞ。冷たいので良かったですか?」
「あ、うん……。ありがとね……」
「サンキュー妹ちゃん」
いつものテーブルの上にコトンと小気味の良い音と共にアイスティー用のガラス製の湯のみが置かれる。
義人さんと駿河さんはそれに手を伸ばすが、心ここに在らずといった様子でボーッと麦茶の表面を眺めていた。
私も駿河さんの左側、義人さんと正面に向き合うように腰を下ろし、じっと二人を見つめた。
ここまで黙って見ていたが、はっきりいって二人の様子は異常である 。この状況が解決するかどうかは分からないけれど、とりあえず声をかけてみることにした。
「その〜、どうかしたんですか? 今日のお二人はすっごいボケっとしてますよ」
「……いや、まぁその、妹ちゃんにはホントに関係ない話で申し訳ないんだけどさ」
意を決したように駿河さんが口を開いた。しかし視線は相変わらず湯のみの中に向けられたまま動かず、全ての表情を伺い知ることは出来ない。
どうやら話題は私とは無関係であるらしいが、深刻そうな話であることに変わりはなさそうで、私も真剣な表情でコクコクと頷きながら話を促した。
「今日な、オレ達の成績発表日なんだ……」
なるほど〜……んん?
「え⁉︎ そんなに重要な事ですかそれ?」
私は驚きを口に出さずにはいられなかった。
学生として、学業成績は重要である事は理解しているが、まさかそんな理由でそこまで取り乱すとは全くの予想外だったのだ。
私が理解できずに悩んでいると、義人さんが口を開いた。
「まぁまだ中学校卒業したばかりの美咲ちゃんには分からないかもしれないけど、大学生にとって単位ってすごく重要なんだよ」
「へぇ……。単位って五段階評価みたいな成績通知書とは違うんですか?」
「全然違うぜ!」
私の疑問に駿河さんが間髪入れずに答えた。
そのまままくし立てるように、と言うか感情に流されているかのように彼は語る。
「そもそも、義務教育期間中は出席日数不足やよほどの理由がない限り、評定オール1でも進級できるけど、高校からはそうはいかねぇ。赤点取れば補修・追試は免れないし、赤点だらけは留年、場合によっては卒業出来ないなんてこともあるんだ」
ふむふむと相槌を入れながら話を聞く。
そういえば、私も風の噂で高校からは赤点と言うものがあり、特定のボーダーを越えなければ留年することがあると聞いたことがある。
雑誌経由の情報だったため、実のところ半信半疑で、大したことないと考えていたが、実際にその道を通った人から話を聞くと、それは急に現実を帯び始め、私は少し不安に駆られた。
「まぁ高校まではまだ担任教師や科目の先生がなんとか計らってくれることが多いから留年はまず無いが、大学にゃ担任もいなければ入学当初から年齢と学年の関係も薄い。つまり、浪人留年が日常的で、尚且つ成績面で助けてくれる先生がほとんど居ないってこった」
「えええええええええ⁉︎」
語られた内容と私の中学生活とのギャップに、私は愕然としてしまった。
今後私もそういう人生を辿って行くのだと考えると、途端にげんなりとした気分になってしまう。
「でも真面目に授業を受けてやる事をやってれば全然問題ないよ。実際に留年してる人達って殆どがバイトか遊びに入れ込み過ぎた人達だから」
私の様子を見かねてか、義人さんが助け舟を出してくれた。
アルバイトというのはまだ私の中ではおとぎ話に近い存在で、どういうものなのかは全くと言っていいほど分からないのだが、学業より優先しなければならないものなのだろうか……? と言うか授業って毎回真面目に受けるものなのでは……?
私は頭に疑問符を浮かべていたが、駿河さんは気にせず続ける。
「で、その単位ってのが一定以上無いと、オレらは卒業出来ないわけよ。うちの大学の場合は百二十四単位だっけな」
「はぁ……」
「それでな、今日の成績発表の結果次第で……四年も授業に出ないといけなくなるんだよ……っ」
遂にヨヨヨとテーブルに伏した駿河さん。
詳しいシステムはまだよく分からないが、要するに卒業を掛けた成績発表と言うニュアンスのようで、ようやく事の重要性を理解出来た。
「そ、それで、その成績発表は何時に行われるんですか⁉︎」
「ええと、僕の成績はもう出てて、社長は五分後に開示される予定だね。でも同時に開示しようって二人で決めてたからまだ成績見てないんだ」
義人さんが手元のスマートフォンの画面にチラチラと視線を落としながらも、落ち着いたように言う。
あと五分……。私は部屋の掛け時計に視線をやる。いつもならあっという間に過ぎる時間のはずなのだが、今日は妙に秒針の進みが遅い気がした。
「本当は僕の部屋で二人で時間が来るまで適当に時間を潰して待つ予定だったんだけど、気が気じゃなくて一時間も潰せなかったんだよ」
「そこでオレが妹ちゃんとこ行けばちょっとはマシになるんじゃないかっつってな。だからほれ、オレ等の気が紛れそうな面白い話を一つ頼む」
「そんな無茶振りありますか⁉︎」
私のリアクションに満足したのか、豪快に笑う駿河さん。多分七割くらい空元気である。
そんなこんなで成績発表の時間まで二分を切ろうとしていた。
「あ、お二人ともそろそろ時間なんじゃないですか?」
ピシリと二人の表情が硬くなった。お互いに震える手でスマートフォンの画面をスワイプする。
「お、おう……そうだな……」
「大丈夫、大丈夫……二つまでは落としても何とかなる……」
そして二人の手が止まる。どうやらパスワード等の入力するものは全て終えたらしく、後は画面に表示されているボタン一つ押すだけで成績が表示されるらしい。
私も手元のスマートフォンのアナログ表示の世界時計を見ながら、心の中で、そして遂には口に呟きながらカウントダウンを始める。
「七……六……五……四……三……二……っ時間です!」
「こい……ッ! こい……ッ!!」
「菅原道真よ……特に理由はないけど我に力を!」
凄まじい気迫と共に二人がほぼ同時にログインボタンをタップした。しかしサーバーが混み合っているようで、しばらく二人は無言で画面を見つめていた。
そして遂にその瞬間が訪れた……。
「お? ………………しぃゃあああああああ! 勝ち申した!!」
最初に拳を掲げたのは駿河さんだった。
スマホをテーブルに投げ捨て小踊りを踊る彼に、私は拍手と「おめでとう」の一言を送る。
「へっへっへっ! これで来年は授業出ずに済むぜ!」
「凄いですね! 義人さんはどうでした?」
「う〜ん……。教養科目を二つ落としたけど、大丈夫! まだ来年のゼミで挽回できる!」
「じゃあ義人さんもギリギリセーフって感じなんですね! おめでとうございます!」
私が拍手を送ると、義人さんは「あまり褒められた成績じゃないんだけどね」と小さく呟きながらも照れ臭そうに笑った。
「いやぁ、お二人共優秀なんですね。来年はほとんどフリーってことですよね? いいなぁ、楽しそうだなぁ……」
一年間学校サボり放題と言う夢のような光景を思い浮かべながら私が言うと、駿河さんは愉快そうに、義人さんはげっそりした表情を浮かべた。
「なぁに言ってんのぉ? そんなわけないっしょ。オレ等はこれからが本番だぜ。なぁ義人」
「ほんと、気が重いけどね」
「え? 本番って……何か最終テストみたいなものがあるんですか?」
私の疑問に、駿河さんはチッチッチっと顔の前で中指を揺らした。少しイラっとしました。
「まぁゼミによっちゃあ卒論なんてものもあるけど、大学生が卒業間近にするものって言ったらアレしかねーだろ」
「アレ……ですか?」
「そう……それは……」
「就活だ!!」