3:私の画策
「……ちゃん。……咲ちゃん起きて」
「ぅむう?」
誰かに体を揺り動かされ、ようやく私は微睡みから覚めた。眼前には兄のアパートの白い壁があった。私が眠っている間に兄のアパートに着いてしまったらしい。
未だはっきりと開かない目を擦ると、義人さんがドアの外で立っていた。彼が私を起こしたようだ。
「あれぇ……? お兄ちゃんは?」
「体臭があまりにも臭うから雅也が風呂に突っ込んでるよ。さ、ここもファブるから出て出て」
そう言い彼は胸元にファ◯リーズを構える。
私は一度う〜んと伸びをすると、ようやく車から降りた。入れ替わるように義人さんが車内に入念に消臭剤をばら撒く。
ふとスマホを取り出して時間を確認すると、既に8時を回っていた。どうやらかなり長いこと寝てしまっていたようだ。
それを認識すると同時にお腹が鳴り、私は慌ててお腹を押さえた。ファブり終わり、車内から出て来た義人さんがそんな私を見てクスリと笑った。
「あっあの、これは……その……」
「ハハッ、お腹空いたでしょ? コンビニ弁当で良ければさっき買って来たよ」
「あ、ありがとうございます」
本当に義人さんにも、今ここにいない駿河さんにもお世話になりっぱなしである。私はお辞儀をしながら今度何かお返しすべきだなと思った。
車のドアをロックしながら義人さんが言う。
「とりあえず、弁当と荷物取りに僕の部屋に来なよ。ついでに徹の様子を見てこないとね」
「そうですね」
と言うわけで私と義人さんは階段を登って義人さんの部屋に向かった。道中、202号室つまり駿河さんの部屋からガタガタと騒がしい音と妙な叫び声が響いた。私と義人さんはそっと耳を立てる。
「きったねぇ! 垢だらけじゃねえか⁉︎ オラッ! 動くんじゃねえ!」
「キャーーーー! 無菌状態ぃいいいいいいいい! 体に良くないいいいいいいい!」
「バイキンだらけの方が良くないわッ! あっ、こら暴れんな!」
ドッタンバッタン。階下の住人に迷惑が掛からないか不安になるほどの大騒ぎっぷりだった。
思わずワッと顔を覆う。
「嫌ぁ、私のお兄ちゃんがぁ……」
「お察しするよ」
義人さんがポンと私の肩に手を置く。それだけでもう涙が出そうだった。主に優しさと悲しさから。
そんなこんなで連れてこられた義人さんの部屋。ついでに部屋の表札から義人さんの苗字が『今井』であることを初めて知った。
1DKの部屋は思いの外広く、家財道具は本棚やベッド、テーブルにテレビと簡素なもので、よく整理されていた。
初めて入る男子大学生の部屋に、思わずまじまじと部屋を見てしまう。
「ほぇ〜。綺麗に片付いてますね」
「そんなに見ても大して面白いものはないよ。はいこれ美咲ちゃんと徹の分の弁当。荷物は僕が部屋の前まで持って行くから」
「すいません、助かります」
よいしょと荷物を両脇に抱えた義人さんと部屋を出る。
義人さんは兄の部屋の前に荷物を置くと、そのまま駿河さんの手伝いに行くと言って隣の部屋に入って行った。
「社長ー。上手くいってるぅぅぅうあああああ⁉︎ 何だこりゃあ⁉︎」
「あっ! 義人丁度良いところに! こいつを取り押さえろ何としてもシャツを着せてやるんだ!」
「やめろーーーー! 男は上半身裸で良いんだーーーー!」
「んなわけあるかさっさと着ろぉおおおお‼︎」
そして同時に廊下に響く三人分の大声。私は思わず頭を抱えた。
私のお兄ちゃんがご迷惑をおかけしてすいません。
何とか立ち直りドアノブに先ほど回収した部屋の鍵を差し込み捻る。到着からおよそ六時間、ようやく私は部屋に入ることができたのだった。
数分後、私は隣の駿河さんの部屋で黙々とコンビニ弁当を摘んでいた。
……いや、分かっていましたとも。そりゃそうだよ半年も生活してないんだもの。だからあの積りに積もった埃のカーペットも、隙間から侵入したらしい蜘蛛達が天井に巣を張ってるのも仕方ない……。
「そんなわけないでしょーーーーーー‼︎」
「お客様急な台パンは困ります!」
「美咲ちゃん結構ヒステリックなんだねぇ……」
「あっ、いや、これはその……ストレスが許容値を超えたせいというか何というか……」
ヒステリックと言われて私は小さく縮こまった。しかし今日ばかりはこれほど叫んでも胸の中のマイナスな感情は晴れそうになかった。
「まぁ気持ちは分かるけどよ」
そう言い駿河さんが横目にチラリと部屋の隅を見る。
そこには簀巻き状態で転がり、何やらもぞもぞ芋虫のように動いている私の兄の姿があった。
やはりというかなんというか、服を着る着ないで一悶着した後も何かあったらしい。今は無理やりシャツと短パンを着せて、脱がないようにああして簀巻きにしている状態である。
そんな状態の兄にコンビニの袋を下げた義人さんが近寄って、彼の眼前に包装を解いたおにぎりを差し出した。
「ほら徹、おにぎりだ」
「工場で加工されたものなど食わん! 俺は焼き魚を所望する」
「中身は焼き鮭だよ。文句を言わずにさぁ食べた!」
「もがががが」
あ、義人さんが無理やり兄の口におにぎりを押し込んだ。いいぞもっとやれ。
さて、無事に兄を山から連れ戻したわけだが、ここからが問題だ。どうにかしてこの漫画顔負けの野生児とかしてしまった兄に現代人に戻ってもらわないといけないわけだが、どうすればいいだろうか。
私は食べ終わったお弁当をゴミ袋に捨て、お茶を一口含み頭をひねった。
幸い兄の大学が始まるのはまだ先だ(寧ろ私が高校に入学する方が早い)。その間に何としてもこの兄をマトモな人に戻さなければいけない。
「ほーら、水だよー」
「待て! 川の水なら煮沸消毒して飲めばタダなのに何故わざわざペットボトルのものを買ってもごごごごご……」
「………………」
この兄を……マトモに……。
応援が要る。私は直感的にそう判断した。
「そうだ! お母さん達に……」
家族に連絡しようとスマートフォンのキーパットをタップしていた私は、その動きをピタリと止めた。
「あ、あれ? どしたの妹ちゃん?」
「ダメだ……」
家族は兄を信用して私が兄の元に転がり込むことを許してくれた。兄を信用して、である。
兄が今こんな状態になっていることをお母さん達に知られたら……。
(兄諸共強制送還……それだけじゃない! 私の第一志望校の入学取り消しされちゃうかも〜〜‼︎)
私は心の中で叫び声を上げた。動悸も激しくなり、顔から血の気が引いていくのが分かった。
せっかく去年遊びもそこそこにみっちり勉強して入った高校である。県外に行くということで、親しかった友人らも気合の入ったお見送りをしてくれた。
それが……こんな事で……。
「あれ? 美咲ちゃんどうしたの?」
「いや、なんかフリーズしちゃって。それより、どうするよ、アレ」
「とりあえず、家族に連絡じゃないかな?」
「……ってくだ……」
「え?」
「それだけは勘弁してくださーーーーい‼︎」
私、小岩井 美咲。一五歳。もうじき華の女子高生になります。そんな私は今日、初めて土下座をしました。泣きたいです。色々な意味で。
出会ったその日に土下座をかまされた義人さんと駿河さんは、困惑しながらも私を慰め、しばらくしてようやく気持ちが落ち着いた私は二人に事情を話すことにした。
「ははぁ。そういうわけだったのね」
駿河さんが頬杖をつきながら難しそうな顔をした。
「すいません、さっきは取り乱しちゃって」
「いや、必死さは伝わったよ」
しゅんと小さくなった私の肩をポンと義人さんが叩いた。そして何やら同情しているのか、憐れむようななんとも言えない表情で私を見つめた。
ちょっと自分が憐れに思えてくるのでその表情やめてもらえませんか?
「で、結局どうするんだ?」
「これは本来家族の問題だと思うから、美咲ちゃんの決定に従うよ。もちろん僕もサポートするから」
二人がじっとこちらを見つめる。私は視線を落として少し考え、再び二人に頭を下げた。
「家族にバレないように兄を真人間に戻したいです。協力してもらえませんか?」
目の前の二人はしばし顔を見合わせると、苦笑しながらも首肯した。
「良いよ。協力しよう」
「全く、こりゃ骨が折れそうだぁ」
「あ、ありがとうございますっ‼︎」
私は立ち上がりバッとお辞儀をした。今日何度頭を下げたことか。
二人はそんな私を見て照れ臭そうに笑った。
今、『小岩井 徹真人間化計画』が始まろうとしていた。
「なぁ、俺に関する重要な話を俺抜きでやってないか?」
「あー、あー、聞こえなーい聞こえなーい」