2:兄、登場
稲池山-ー標高は低いが山中に水源があり、麓に流れ着いたその水は実に見事な池を作り出し、農業に使われれば稲が豊作になるという伝説から地元民にそう呼ばれているマイナーな山である。
ここまで調べて私はスマホの画面を消した。伝説が本当かはともかく、どうやら水は確保できる場所らしい。
ついでにこの地域は関東地方よりは積雪量が少なくかつ今年は暖冬だったため、冬も頑張れば越せるだろう。
「お兄ちゃん大丈夫かな……」
「確かに。あのもやしっ子だからな」
「止せよ縁起でもねぇ。今年は雪もほとんど降ってねぇから大丈夫だって」
気持ちが少し落ち着き、今度は兄が心配になってきた私と義人さんが醸し出す暗い雰囲気を駿河さんが茶化しにかかる。それに多少心が軽くなるのを感じた。
最初は唯のチャラ男かと思ったが、実は空気は結構読める方らしい。少し評価を見直すべきかなぁと思った。
しばらく車を走らせ、ようやく麓の駐車場に着いた私達は虱潰しに兄を探す事にした。日は既に落ち始めていて、時間的な猶予はあまり残されていない事は明らかである。
「お兄ちゃ〜ん‼︎ いないの〜?」
夕焼けに照らされる斜面を登り、時折辺りを見回しながら兄に呼び掛ける。当然というかなんというか、反応は返ってこない。
幸いな事に傾斜は緩やかで、陸上で鍛えた足腰と体力のおかげで難なく山頂付近まで辿り着いた。が、残念な事に道中兄の姿や手掛かりになりそうなものは何一つ見つからなかった。
もしや兄は既に別の山に移ってしまったのでは? そんな疑念すら浮かんできたが、他に手掛かりが無い以上この山を散策する以外にする事はない。
私は一度頂上に着いてから別のルートで下ってみる事にした。
ルートを変えたからと、そう簡単に何か見つかるわけもなく、中程まで下る頃には周囲が若干薄暗くなってきた。
軽く諦めの境地に達しかけたその時、視界の端に何かを捉えた。遠目からではハッキリとした形は捉えられないが、自然のものではない明らかな人工物であった。
「あれって……もしかして‼︎」
私は走り出した。あれは兄が作ったものであるという謎の確信が私の中にあったのだ。
辿り着いたその場所はちょっとした窪田となっていて、謎の人工物とボロボロになったテントを基点に周囲の草や枝が綺麗に処理されていた。兄かどうかはともかく、ここに人がいた事は間違いなさそうである。
私は山を登る前に連絡先を交換していた義人さんと駿河さんに『拠点らしきものを発見した』という旨を方角と共に伝えておき、先ほど捉えた人工物に近づいてみた。土が積み上げられたようなそれは、中から何やらパチパチと燃えるような音が聴こえる。
「何これ? …………竃?」
瞬間、背後から竃の火とは別にパチっと音がする。
バッと振り返ると、上半身裸で小麦色に焼けた肌の男がいた。髪は長くボサボサで、人相は確認できない。下は薄汚れた短パンを履いていて、素足に直接ではあったが靴もちゃんと履いていた。
「お、お兄ちゃん……?」
恐る恐る呼び掛けてみると、目の前の男はしばらく黙っていたが、突然ビクリと肩を震わせた。
「あ〜…あ〜…おまえ……みさきか……?」
妙に嗄れた声と共に顔を隠すほどの前髪が掻き分けられた。汗や泥で汚れているが面影のあるその顔と、私の名前を知っていた事から判断できる事は……
「やっぱりそうなんだ‼︎ 徹お兄ちゃんだよね⁉︎」
「ああ……。大人らしくなったな。最初に見た時は誰かと思ったよ」
いや、お兄ちゃんには言われたくないよ。
兎にも角にも、ようやく再会できたのだ。ここは素直に喜ぶべきだろう。
「もう……心配したんだよ?」
「悪いな。でも俺は大丈夫だ」
「大丈夫だ、じゃないわよ。大学サボってるんでしょ? 詳しい事は後で聞くから、とにかく今は帰ろ?」
そこまで言って兄が眉根を寄せた。今度はなんだというのだろうか?
「お兄ちゃん……?」
「……だ……」
「ん?」
「嫌だ……」
「へっ?」
「俺は帰らないぞーーーー‼︎」
お兄ちゃん は にげだした‼︎▼
呆気にとられた私は暫くの間その場で呆然と立ち尽くしてしまい、兄の背中が茂みの中に消えていくのを黙って見ていた。
時間にして数秒、しかし引き伸ばされたかのように奇妙なほど長く感じられた無音の後、ようやく私はハッと我に返った。同時に込み上げる謎の怒り。対抗心とでもいうのだろうか。
深呼吸をして心を落ち着け、屈伸とアキレス腱や足首のストレッチを行う。トレイルランニングは普段使わない筋肉に負担がかかり攣りやすくなるため、入念にストレッチしておかなくてはならない。そして--
「待てぇええええええええ‼︎」
私は駆け出した。詳細な兄の居場所はもう分からないが、幸いな事に兄の通った道が獣道のようになっており、雑草や枝を見れば追えないことはなかった。
草木を掻き分け、必死に兄の後を追う。細かい枝を蹴散らし、茂みに体ごとぶつかるのは少々痛いがこれはこれで堪らぬ爽快感である。
が、少し開けた場所に出たところで獣道の目印も途切れた。最早ここまで……。
その時、右の茂みがガサリと揺れた。同時に兄がしまったという顔をして飛び出し、慌てて別方向に走り出した。
「そこねっ‼︎ 逃さない‼︎」
間髪入れずに私も駆け出す。いくら悪路とはいえ陸上部である私と元もやしっ子の兄とでは自力が違う。徐々に近くなる兄の背中がそれを証明していた。
とうとう兄がバテたらしく、ヘロヘロの状態で立ち止まった。
「ば……バカな……」
「バカなじゃないわよ全く……」
対する私は息こそ上がっているがバテるほどではない。
ゆっくり歩いて兄に近づき逃さないように肩を押さえると、義人さんと駿河さんに連絡し、取り押さえに来てもらった。
「で、オマエさんは半年間こんなところで生活してたわけだ」
「半年⁉︎ そうかぁ……もう半年かぁ」
「何感慨に耽ってんだよ」
拠点を見渡しながら何やら感嘆する兄に駿河さんがツッこむ。そして拠点を一瞥し、大きくため息をついた。
一度兄が拠点としていた場所に戻った私達は兄が持ち去った家の鍵や、資源ごみと言われても分からないほどボロボロになった調理器具やテントを回収していた。どんな理由であっても、不法投棄はいけないのである。
当の兄はというと、拠点の中心でしょぼんと正座させられていた。長らく正座などしていなかったのだろう。早々に足は痺れてしまったようで、頻りに体勢を変えていた。
「妹として恥ずかしいよぉ。お兄ちゃんが原始人並みの生活レベルにまで退化してるなんて」
「待ってくれ妹よ。原始人並みは心外だ。俺だってちゃんとこの半年で進化したんだ」
兄はズボンのポケットから金属のプレートのようなものを取り出し、誇らしげに掲げた。どうやらそれがその『進化』らしいが、それが何なのかはさっぱりである。
「これ……何?」
「これは俺の進化の証だ」
「これがそうなの?」
「ああ。ここに来て初めての頃は火を起こすことにさえ中々出来ず苦労したが、今では自力で泥と粘土から竃を作って鋳造も出来るようになったんだぞ」
「どんな進化よ」
本当に原始人から文化人への進化を見ているようである。具体的には石器時代から飛んで弥生時代前半まで進歩したような感じである。
でもねお兄ちゃん。今、平成なんだよ?
呆れて何ともいえないような表情を浮かべていると、兄は「おかしいな?」と言わんばかりに首を傾けた。
いや、おかしいのはそれで認められると思っていたお兄ちゃんの頭の方だから。
「美咲ちゃん。アパートの鍵見つかったよ。はいこれ」
「あ、ありがとうございます‼︎」
テントの中を漁っていた義人さんが鍵を手渡してくれた。土まみれではあるが、見つかってよかった。これでやっと兄の部屋に入れる。
「テントと持ち込んだっぽい物は何とか車に入りそうだな。あとの自作したみたいなのは全部置いてこうぜ」
竃を一蹴で木っ端微塵にし中の火をきちんと消火しつつ駿河さんが言う。竃を壊したあたりで兄が叫び声を上げた。そしてがっくりと肩を落とす。
「そうですね。さ、お兄ちゃん帰ろ?」
「……文明社会になんて帰らないぞ‼︎ 大自然万歳‼︎」
お兄ちゃん は 再びにげだした!▼
「甘いよっ‼︎」
しかしにげられないっ!▼
兄の行動を予想していた私は、痺れる足でヨロヨロと逃げ出す兄の背中めがけて飛びかかった。
「とうっ」
妹 の とびげり!▼
私の放った飛び蹴りが兄の腰に命中し、兄はゴロゴロ転がりながら今度こそ動きを止めた。
さっきからお兄ちゃんのせいで疲れとストレスがたまってたからちょっとスッキリしたかも。
「あ、ストライプ……」
「…………」
しかしいくら疲れているとはいえ、駿河さんの失言を聞き流すほど私は疲れていないのです。
「さぁて、帰りましょう‼︎」
「お、おい。大丈夫か?」
「イテテ……。不可抗力だったのにぃ……」
帰りの車中、何故か頬を腫らしている駿河さんが居たそうな。
いえ、わざとじゃないですよ? ただ偶々(・・)坂で転んだ時に偶々(・・)目の前にいた駿河さんの頬に平手が吸い込まれただけなんです。決してわざとではないんですよ?
兎にも角にも流石に体力の限界である。私は後部座席のシートに体を預けると、徐々に意識を手放した。