気まずい同級生
この時期になると、部活のないテスト前でさえ、家に着く頃には薄暗くなっている。青く染まりかけた頭上を、鳴き声を響かせて飛ぶ五羽の白鳥。冬の訪れを間近に感じる。私は白鳥が見えなくなるまで見送り、玄関の扉を開けた。
「ただいまー」
この時間にしては珍しく母親の靴が目に入った。リビングに行くと、ソファにはおでこにアイスノンをして横になっている弟。キッチンではエプロンをつけた母親がおかゆを作っていた。
「おかえり。奈緒、帰ってきたばっかで悪いんだけど、コウにこれ食べさせてくれる」
「なに、コウちゃん、お熱出ちゃったの?」
末っ子のコウは年小さんだ。朝は元気だったから、保育園で具合が悪くなって、母親が呼び出されて早退したのだろう。私はかけ足で自分の部屋へ向かい着替えて再びリビングへと向かう。
いつも元気いっぱいでうるさいくらいなのに、ソファの上の弟は赤い顔で、目をこちらに向けただけで動かない。おなか、へってる? と問いかけると、微かに頷く。
「起き上れる? お姉ちゃんがあーんしてあげる」
起きるのを手伝って、おかゆを口まで運ぶ。食欲はあるみたいで、ゆっくりだけど完食したのでほっとする。
「これ、薬? 飲ませればいいの?」
「お願い、助かるわー」
母親はキッチンで慌ただしく動いている。私はコウが生まれたときからお世話役をかって出ているから、薬を飲ませるのも慣れたものだ。ゼリーに薬を混ぜたのを食べさせようとすると、コウは手を差し出した。自分で食べるらしい。器を渡し、小さな口がもぐもぐ動くのをぼーっと見ていたら、コウがこちらを見て首を傾げた。
「……お姉ちゃんも、元気ないね。お姉ちゃんも、かぜ? コウのお薬、あげようか?」
「え? 元気なくないよ。あ、すごーい。コウちゃん、薬も全部飲めそうだね。すぐよくなるからね」
弟は真っ赤な顔でしかめ面をした。
「でもー、いつもと違うかお。ねえ、これあげるからあ」
器に少しだけ残っていた薬入りのゼリーをすくって私に食べさせてようとするのを、慌てて止めた。
「いいよ、それはコウちゃんの大事な薬なんだから」
「えー。じゃあ、お姉ちゃんにはどんなお薬がきくの?」
「お姉ちゃんは風邪なんてひいてないし、大丈夫だよ」
「早くよくなって」
私の話をまるで聞いていないコウに、苦笑してうなずく。こんな幼い弟にまで心配されるなんて、私は一体どんなひどい顔をしているのか。
時間薬がよく効いたと思っていた私の心の傷。時間がゆっくりゆっくりと少しずつ癒してくれた傷は、もう開くことはないと思っていたのに――。
※
忘れもしない、中学三年生のときのできごと。
私の傷を作った人、戸部は、いつも目を輝かせ、毎日を全力で生きている男の子だった。活発で運動神経もよく、クラスを引っ張ってくれるムードメーカー。一方の私は、特別秀でている何かがあるわけでもない、ごく普通の女子。どんな人にも分け隔てなく接する戸部は私にとっても話しやすく、しかも中学の三年間ずっと一緒のクラスだったことで、私の中で一番仲の良い男子といってもよかった。彼にしてみれば大勢の女子の中の内の一人でしかなかっただろうけれど。
「絶対勝ちにいくぞ」
中学三年生のときの体育祭。戸部の張りのある声が耳に響く。プログラムラストを飾る、配点の大きい目玉種目である三年生のクラス対抗全員リレーでのことだ。
私みたいに運動神経に自信のない生徒には悩みの種でしかない種目だけれど、みんなの足を引っ張りたくはなかった。真ん中の弟に付き合ってもらって走り込みやバトンの練習を密かにして、やれるだけのことはやった、と決意を持って迎えた当日。
私たちのクラスは戸部を筆頭に主に男子の活躍で、全員リレーを前にして僅差ながら総合得点トップを走っていた。リレーで上位をとればこのまま逃げ切れるだろう。
スタート直前、クラスの円陣の輪に加わった私と、戸部の目が合った。彼はこちらに明るい笑顔を向けてくれた。
「奈緒、何自信なさそうな顔してんだよ。がんばろうな!」
「うん」
彼の自信に満ちた笑顔は、私の中のやる気まで奮い立たせるくれるようだった。吐きそうなくらいの緊張も少し和らいだ。大丈夫、たくさん練習したんだし。最後の体育祭を優勝で飾るんだ。息を大きく吸い込み気を落ち着かせると、なんとかなるような気がしてきたのだった。
でも、あんなことになるなんて。
一位でバトンを受け取った私は懸命に走った。早々に二位だったクラスに越されてしまったけれど、必死にくらいつく。いまだかつてこんなに足を速く回転させたことがあったか、というくらい無我夢中だった。でもコースを半分くらい走ったところで、突然足がもつれた。ぶれる視界、近づく地面、衝撃。スローモーションのようだった。何も聞こえなくなり、私の目線のすぐ横を何人もの足が横切っていく。転んで、越された。そう理解した瞬間に周囲の応援の歓声が耳に押し寄せた。すぐに立ち上がって残りの距離を走り、なんとかバトンを渡したのだけれど、最下位まで順位をおとしてしまった。その後何人かが抜き返してくれたものの、結局結果は八クラス中六位。リレー首位のチームが輪になって喜んでいるのを呆然と見つめるしかなかった。
「あーあ」
体育祭終了後教室で、戸部の不機嫌なため息が心に突き刺さる。
「最悪の体育祭。誰かさんのせいでさあ」
騒がしかったクラスが、彼のよく通る声で静まり返った。それが誰に向けられた台詞なのか、誰もが分かっていた。全員リレーの順位が響き、総合優勝を逆転で別のクラスに奪われてしまったのだ。私は、バンソーコーが貼られたひざや肘よりも、心がひどく痛むのを感じながらうつむいた。
「ごめんなさい」
謝ることないよ、わざとじゃないんだから、ちょっと戸部、と優しい女子が戸部を咎めた。彼が返事の代わりのようにけたたましい不機嫌な音を立てたので、私は身をすくませた。彼はそのまま、教室から出て行ってしまった。転がっている蹴り倒された椅子を、私はなす術もなくただ見ていた。
それから卒業までの間、戸部とは口をきくことはおろか、怖くて目を合わせることすらできなかった。もちろん、気にすることない、と言ってくれる人の方が多かったけれど、それでも影響力の強い戸部があんな態度だったことで、引きずられた男子もいて、居心地が悪かったことは確かだ。
転んだ私が悪い、と私は自分を責めた。よっぽど優勝したかったのだろう戸部に迷惑をかけてしまったことは私を苦しめた。何度も転ぶ場面が夢に出てきたりもして。
けれど、時間薬、とはよく言ったものだと思う。身が抉れるような思いは時間が経つにつれて癒された。卒業して戸部とは違う高校になったし、戸部と仲良しだった男子数名とは同じ高校になったけれど、高校生にまでなって中学のときの体育祭のことを掘り起こすようなことは彼らもしなかった。高校生活は楽しく、近頃は気持ちの消化もだいぶできていた。忘れることはまだできないけど、ここ最近はもう悪夢だって見ていない。
誰にだって転ぶ可能性はある。練習だって頑張ってた。手を抜いた結果じゃなく、ただ運が悪かっただけ。気に病むことはない。あの頃の私にかけてあげたい言葉が山ほど浮かんでくる。
それでも当時の私は同じような周囲からの慰めの言葉にも、うつむくばかりだった。それらが、戸部からかけられた言葉じゃなければ意味がなかった。
※
コウに心配されるほど、うかない顔をしてしまっていた原因ははっきりしている。ついさっき、高校からの帰り道で久しぶりに会ったのだ。戸部に。