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黄泉比良坂(仮)〈ヨモツヒラサカカッコカリ〉  作者: 長岡まさ
第一章 始まりの合図の始まりは如何に
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壱幕:酒瓶と鎌鼬

「わあ、綺麗――」

 第一印象は碧だった。

 扉を潜り抜けた正面、その壁の一部を切り取るように、飾り棚が設置されている。そこへ一際目を引く、クリスタルの置物が佇んでいた。大きな翼を広げ、長い髪を揺らしながら、今にも飛び立ちそうな女性の後ろ姿だ。

「いらっしゃい」

「あ、こんにちは!」

 奥から聞こえた柔らかな男性の声に、咄嗟に挨拶を返した。

「あら、随分と元気の良い子ね。ふふ」

 彼の反応に弾かれるように、頭に疑問符が浮かんだ。声質から予想していた返答とずれがあったせいだろうか。得体の知れない何かが、心に引っ掛かった。


 店内はこぢんまりとした薄明かりのバーだった。古い映画で見た様な、入り口から見て横に長い作りのフロアだ。凝った置物が所狭しと並び、至る所を飾り立てていた。

「あれ? ここ――」

 外から見た雑居ビルの様子を思い出そうとしたが、はっきりとは覚えていなかった。それでもこんなに奥行きの無い建物ではなかった気がする。バックバーの向こう側に、広く居住スペースを取っているのかもしれない。

 アイズで部屋の景色を自由にコーディネイト出来る現代では、地下でなくてもわざわざ窓を設置しない物件は多い。現実の窓から外を見るよりも、眺めたい景色を映し出し、確認したい景色を情報として検索した方が、遥かに便利だからだろう。今時窓の無い家なんて普通だって、とカエデにからかわれそうだが、窓の無い生活空間など私には手を出しがたい物件だ。

「ああ、気にすんな」

 黙り込む私の横を、軽やかに人の声が通り過ぎた。

「この店、狭いだろ? 奥行き無い訳も、後でちゃんと教えてやるよ」

「え?」

 困惑した。考えを見透かされたことよりも、今の言葉を発した主がどこに居るのか分からなかったからだ。

 カウンターから少し首を出し、こちらへ優しく微笑み掛ける、バーテンダーと思われる男性。その前に五脚並ぶカウンターチェアの一番奥に、今まさに座ろうとしている少年。そして、椅子の背から少しのスペースを挟んで、壁伝いに二つあるテーブル席、そのソファには誰もいない。

 今、この場に居るのは私を含めて三人だ。

「あんた、顔に出過ぎ。ほんと分かりやす過ぎんだって」

 ぽかんとする私に注がれる幼い笑い声に、思わず目を剥いて言葉を失った。

「こら、ヒミちゃん! 可哀そうでしょ。この子、混乱しちゃってるじゃないの」

 バーテンダーの男性が口元を手の甲で隠しながら、楽し気にうふふと笑う。

「え、え、あの」

 ここまで私を案内してくれた少年に、恐る恐る質問した。

「さっきの、コ、ですよね?」

「さっきの子って? オレの顔、何度も見てるんじゃないの?」

「え、だって、しゃべり方が――」

 自然と瞬きが多くなった。状況が全く掴めない。

 少年の荒っぽい口調も、男性の艶めかしい仕草も、摩訶不思議なこの空間も、全てが自分の中で要領を得なかった。

「あれ? これって私の夢の中?」

 次の瞬間、目の前にいる二人は大声を上げて笑い転げた。

 ただ茫然とその様子を眺めている内に、だんだんと思考が冷静になる。こんなに耳を刺激する夢があるはずはない。そして次第に、むっと怒りが湧いて来た。

「ど、どういうことですか? 笑ってないで、ちゃんと説明して下さい!」


「ほんとに、ごめんなさいね」

 目尻の涙を人差し指で拭いながら、先に笑いから抜け出したのはバーテンダーの男性の方だった。

「ようこそ、Bar“黄泉比良坂(よもつひらさか)”へ。アタシがこの店のマスターよ。あなたを心から歓迎するわ」

 正直なところ、何から受け止めれば良いのか分からなかったが、外見から受ける印象と明らかに異なるマスターの話し方には、口を挟んではいけない気がした。

 彼は少しウェーブの掛かった明るい色の髪を揺らして首を傾げた。

「何か、アタシの顔に付いてるかしら?」

「あ、いえ、その――」

 慌てて何か言い訳をと考えたが、一体何を言えば正解なのだろう。

 マスターの顔立ちは端正で、切れ長な目元は涼しげだった。肩幅がしっかりしていて、カウンター越しに見える体つきは締まっている。年齢は三十代後半といったところの、カエデが好みそうなイケメンだ。

 目を離さぬまま次の言葉を紡げずにいる私に、少し困ったように微笑み掛け、マスターは奥の席を振り返る。

「ちょっと、ヒミちゃん、いつまで笑ってるの! 失礼でしょ」

 お腹を抱えながら、ひーひーと肩で息をし、少年はこちらを見上げる。

「ごめん。あんまり面白い反応だったからさ、つい」

 数分前までの能面のような表情の少年は、どこへ行ってしまったのだろうか。

「あれ、生真面目風が好みだった? オレ、こっちのが素だから」

 彼は真っ直ぐに右手を差し出した。それは紛れもない、先程も触れた幼い手だ。

「今更の自己紹介で悪いけど、オレ、ヒミコ。よろしく」

「ヒミコ、君?」

 不思議な名前。

 数歩近くへ歩み寄って、こちらも右手を差し出す。

「よろしくね。私は」

「あ、ちょっと待って!」

 名乗り掛けた所で、マスターから制止の声が上がった。

「ごめんなさいね。この店にはちょっとしたルールがあってね。皆、本名は名乗らない事になってるの」

「あ、はい。――え、じゃあ、ヒミコ君も本名じゃないの?」

「は? 当たり前だろ。ヒミコなんて名前、子供に付ける親いるかよ」

「それはまあ、そうかもしれないけど――」

 奇想天外の連続で、ここにだけ常識を持って来られても困る。

 一昔前には、インターネット上で名乗るハンドルネームなるものが存在したと、文献で読んだことがあった。自分の素姓を明かさず、やり取りをするための手段だったらしい。

「所謂ハンドルネームってことですか?」

「あら、随分古風な単語知ってるじゃない。まあ、そんなところね」

 あらゆる情報が集約されたアイズを、何の躊躇いもなく使用している現代を思うと、とても新鮮な発想だった。今の私たちは、氏名や住所、生体ナンバーどころか、ともすると好みや生い立ちまで、アイズという看板に広告のごとく掲げて歩いているようなものだ。

「ちなみに。アタシはイタチよ。よろしくね」

「イタチさん、ヒミコ君――」

 口の中で一度呪文のように二人のハンドルネームを繰り返し、記憶にしっかりと書き込んだ。

「イタチはおかまだからさ。妖怪鎌鼬(かまいたち)

 ヒミコ君がからかうように笑う。

「ちょっと! カマは余計よ!」

 イタチさんが右手をぶんぶんと振りながら猛反論する。

 どうもまだ、この二人のペースには付いて行けないが、マスターイタチさんの口調はやはり、そう言う事らしい。

「ということは、私も何か自分に名前を付けて名乗った方が、良いんですよね?」

 にこやかにイタチさんが頷く。

「ええ。でも、ゆっくり考えて良いのよ。何なら途中で改名しても構わないし。誰も文句は言わないわ」

「基本、ここのルール緩いからな」

「なる、ほど」

「まず、何か飲み物でもどうかしら? 座って」

 勧められた席の、一番手近なカウンターチェアに手をかけながら、イタチさんの背後に並ぶ酒瓶を見回した。バックバーも扉同様木製で、三段の棚いっぱいに未知の品々が整列している。

「あの、ジュースとかってありますか?」

「あら。お酒、飲めないの?」

「はい。ちょっと苦手で」

「ま、あんた、見るからにアルコール弱そうだしな」

「残念ね、とびっきりの秘蔵酒ご馳走してあげたかったのに。でも大丈夫。こーんなお子様もいるくらいだから、ノンアルコールも沢山あるのよ」

 急に話に巻き込まれたヒミコ君は、眉間に皺を寄せて口を尖らせた。

「お子様言うな」

「さっきのお返しよ」

「じゃあノンアルコールで、イタチさんのおすすめ、頂けますか?」

「分かったわ。アレルギーとか、好き嫌いとかはある?」

「いえ、何でも平気です」

「なら、出て来てからのお楽しみね」

 爽やかに微笑んで背を向けるイタチさんに、あっと声をかける。大事な事を忘れていた。

「あの、私今日、アイズ持って来てないんですけど、このお店のお会計――」

「何言ってるの、モチロンご馳走するわ。こっちの都合で来てもらったんだし。それに、さっき大笑いしちゃった無礼、これで許してね?」

 朗らかにウインクすると、イタチさんはカウンターの先、横長の店内のさらに横奥へと引っ込んだ。

 男性のウインク、いや、生のウインクというものを初めて見た様な気がする。でも、その整った顔立ちからか、この数分ですっかり慣れてしまったのか、違和感はまるで感じなかった。

「あんた、ほんと抜けてんだな」

 横からヒミコ君の盛大な溜息が聞こえる。

「え?」

「この店、普通に端末の電子マネーも使えるけどさ。イタチもオレも端末してないだろ? 現金使えるっつーの」

「あ、そう言えば」

 街中に溢れるアイズに日々触れていて、アイズをしていない自分に違和感すら感じていたというのに、この短時間でうっかり忘れていた。

「すっかり、アイズ無しに驚かなくなってた。そうだね、そういう人が入れるお店ってことは現金レジあるってことだもんね」

 カエデに連れて行ってもらう所のように電子マネーでしか会計のできない店には、アイズを持たない人間だけでは入店出来ない。会計を受け持つアイズから個人情報と残高を読み取られ、承認を受けないと敷地に入る事さえ許されないのだ。

「あ、そっか」

 あることに思い至り、今度は私が、ふふふと笑う。

「ヒミコ君の顔に見惚れ過ぎたからかな」

「は? 何それ」

 ヒミコ君の頬がさっと紅く染まる。そんな彼の様子に、純粋な可愛らしさを感じた。

「ずっと見てたせいで、だんだん特別感、薄れちゃって。珍しいアイズ無しの人だ、って意識しなくなってた」

 彼の口調や態度は、外で話した時とは別人のごとく豹変したが、やはり悪い子ではなさそうだった。

「不思議――」

 ゆっくり、カウンターの向こうに広がる棚に目を移す。

 酒瓶について、静かに思いを巡らせた。

 どんな店でも、瓶の色形やラベルの装丁は、アイズ越しには賑やかに凝って映る。アイズ未装着の私にはそれが、いつも単調で面白みの無いものに見えていた。流石にラベルが白紙という事は無かったが、製造管理番号しか印字されていないものを、何度か見かけたことがある。

 しかし、この店の棚に所狭しと並べられている品々は、実に色とりどりだった。まるでアイズを装着していると錯覚しそうだ。眺めるだけでも全く飽きそうになかった。


「あんたさ」

 声を掛けられ、我に返って横を向く。

「聞かないのな、色々」

 一瞬何を言われているのか分からなかったが、すぐに思い至る。確かにそうだ、ここに着くまで頭の中に浮かんでいた無数の疑問が、いつの間にか消し飛んでいた。

「うーん」

 また、どんな言葉を選択すればこの気持ちが伝わるのだろうと、ぼんやり考える。

 店内に漂う非日常的な空気に、雑念を薄められたような感覚、そしてどことなく感じる安心感。

「ヒミコ君は、ちゃんと話してくれる気がするから――かな?」

 にっこりと隣の少年に笑いかける。

 彼はすっと目を逸らし、呆れているとも哀しんでいるともつかない、複雑な表情をした。

「あんた、もうちょっと人を疑うとか、した方が良い」

 とても小さな声で、彼はぽつりと呟いた。

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