壱幕:色鉛筆
「リィセェェ、遅いよ!」
カフェテラスの路地に一番近い席、ホットスポットの真下で、友人カエデが豪快に手を振っていた。
「ご、ごめん」
「もー、待ちくたびれて凍えるとこだった。氷になりそう」
全身黒ずくめの格好のカエデは、わざとらしく肩を抱いてぶるぶると震えた。彼女に手を合わせて再度「ごめん」と言い、それからカエデの着ている真っ黒なヒートウェアをちらりと目で指し示した。
「でもそれ、あったかいんだよね?」
一見薄手の布一枚のようなヒートウェアは、それ単体で十二段階の体温調節が出来る。実際に着てみたことはないし今後も着る予定はないけれど、世間では徐々に知名度が高まっているようだ。しかし、好んで着る人はまだ少ない。あまりにぴったりと密着した生地のせいで、身体のラインが全て出てしまうからだ。
カエデの抜群のプロポーションは勿論、例外なく強調されていた。同性の私でも目のやり場に困るほどで、それとなく目線を下へ向けないよう空を見た。
「それに今日、そんなに寒くないよ」
軽く椅子を引き、キャメル色のスカートの裾を抑えながら、彼女の向い側に腰掛ける。カエデは不満げに口を尖らせた。
「えー、だってこの雪よ? U市は指定降雪都市だし、雪なんか珍しくもないけどさ、今日のはさすがに滅多にない量だよ」
カエデは大げさに両手を広げて、空を仰いだ。きゅっと結ばれている彼女のポニーテールが、左右に揺れる。そこで改めて、ああそうか、今日のU市は雪の日だった、と思い出した。
「まあ雪はすごいかもしれないけど、関係ないでしょ? ほらここ、ホットスポットだってあるのに」
私の指摘に、カエデは悪戯っぽく笑った。
「え、ああ、この木? やっぱりこれ、ホットスポットだったか。道理でちょっとあったかいと思った。ちょっとだけ、ね」
彼女に釣られて私も笑う。他に客の見当たらないカフェの屋外に、二人の声が良く響いた。
このテラス席には周りを取り囲むように、緑色のスポットライト型暖熱機が設置されている。光は淡いが発せられる熱は確かで、辺りの空気はかなり暖かくなっている。ホットスポットの真下にあるこの席なら、長く滞在すれば汗ばんできてもおかしくない。
ホットスポットは通常、景観を損ねないために店側のデコレーションシステムが外見を補正している。このカフェのそれは恐らく、小ぶりな街路樹の姿を纏っているのだろう。
あれもそれもこれも。世界中にあるものが皆、何かしら別の姿を付されている。
駅からの道のりでほんの少し冷えた指先を手っ取り早く温めようと、熱源に手を翳す。その姿を見て、カエデは大きな溜息を吐いた。
「なるほど、そういう訳ね」
「ん?」
「それ。リセには木じゃなくて、鉄骨剥き出しの暖房が見えてるってことでしょ?」
「だって、こうしてるとすぐあったまるから」
彼女には、私が街路樹に両の掌を向けているように見えるのだろう。
「そうじゃなくて! もうリセったら、またアイズして来なかったんだねっていう意味」
「うん、まあ、そう」
曖昧に語尾を濁しながら、横目でカエデの目に当たる部分を見遣る。彼女の顔は真っ直ぐに私の方を向いている。それでも彼女は、目の前に存在する現実の私を、確かにここに実体としてある私を、その瞳に映してはいない。
日の光を反射して、あちこちでレンズがきらりと光る。その輝きを追うのは私だけだ。
街を行く人々は皆、眼鏡を掛けている。裸眼での視力が弱い人もそうでない人も一様に。巷での通称は“eyes”、眼鏡型のウェアラブル端末だ。
私の幼い頃のアイズはまだ、現実の世界に情報を描き加える程度のものだった。しかし今では、皆の見ている世界はそっくり入れ替った。端末を身に着ける人間の、見たい世界がそこにはある。いや、誰かが作り上げる、その人間に“見せたい”世界が、だ。
「まだ、VRは嘘っぱちとかって思ってるの?」
カエデはコーヒーカップを唇に当てながら、私の頬を指で突いた。
「うーん、まあ、そうだね」
彼女は呆れた顔をしながら、空を撫でるような素振りをして、私のためにコーヒーを注文してくれる。アイズ不携帯の私では、コーヒーを一杯頼むだけで随分と手間が掛かってしまうからだ。
「そういう気持ちも分かるけどさあ。時代の流れっていうかさ、そういうのに逆らうって、ほんと生き辛いよ?」
「だよね」
休みの日、私は極力アイズに触らない。キャビネットの一段目の引き出しにそっと仕舞っている。仕事中だって出来ることならば使いたくはないのだ。しかし会議室も休憩用談話室も、会議資料も意見箱も、全て現実世界にはないのだから、アイズ抜きでは文字通り話にならない。私の拘りも結局、背に腹は代えられない。
「全く手の掛かる親友を持ったもんだ」
私の顔を覗き込みながら、彼女は楽しげにころころと笑った。
カエデは数少ない、実際に会って話をする友人だった。彼女は今、服飾デザインの仕事をしている。手で触れることのできる布製の服ではなく、アイズ越しにのみ映る虚像の衣服だ。
「それはそうと、ね! リセ!」
「ん?」
「喜び給え! 今日はそんなリセのために、ちゃーんと持って来たんだから」
彼女は丸テーブルの半分はありそうな大きめのケースを取り出した。中から厚手の紙が数枚出てきて、テーブルの上に並べられる。見るとそれは手描きの服飾デッサンだった。以前カエデに冗談半分で頼んだものだ。
「すごい!」
手触りの存在する、正真正銘の画用紙だった。この図面のタッチはもしかして色鉛筆というものだろうか。
「でしょ、でしょ?」
得意げに彼女は胸を反らした。
「ほんと、ありがとう。こんな高級なの頼むつもりじゃなかったんだけど。びっくりした」
カエデと食事の約束をする時、それは私にとって仕事が入っていない時期。つまり仕事が休日中なら私のアイズも休職中ということだ。アイズを着用せずにふらふらと家を出て、私は彼女の前に現われる。だから現実世界には存在しないカエデの作品を見る機会は滅多にない。
「どうせならうんと昔風に、と思ってさ」
「よく描けたね、大変だったでしょ」
「まあね。最近じゃ、紙面に直接デッサンすることなんてないからね。すごい新鮮な体験だった。でも、ダテに時代遅れのリセの友達やってないから」
「時代遅れって。まあ、その通りだからしょうがないけど」
彼女は豪快に笑った後、紙の端を軽く指で弾いた。
「で、何が一番大変だったと思う?」
「え、うーん、紙の調達? 画用紙ってB市くらいしかお店なかったよね? あ、でも画材もあれか」
「そ。正解は色鉛筆」
「あ、やっぱりこれ色鉛筆で描いてるんだ」
「そう。デザイン学校時代の先生に、古い画材コレクターの方がいらしてさ。今でも仕事で繋がりあるんだけど。その先生に連絡とってね、貸してもらった」
「よく貸してくれたね。色鉛筆って、すごく貴重なものなんでしょ?」
「うん、あたしたちの生まれる前に生産終了してる品だからね。でも先生、画材は使われてこそ、って人でさ。頻繁に手で描いてるんだって。リセとも気が合うんじゃないかな」
近くの一枚を手に取って眺めてみる。滑らかな線で描かれた、優しい雰囲気のエンパイアドレスだ。本物の色鉛筆画を見るのは初めてのはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる柔らかさがあった。
「これ可愛い」
「でしょ? 実はそれ、今着てるの」
彼女は人差し指と親指で空を掴み、ドレスの裾を少し持ち上げるような仕草をする。
「ええっ、そうなの?」
私の眼には黒いタイトなウェアーしか見えないその上に、想像の中でオフホワイトの優雅なドレスを重ねる。
「髪もアップにして、赤いバラで留めてるんだ」
「へー」
「ね? アイズしてくれば良かったと思うでしょ?」
先程運ばれて来たコーヒーに手を伸ばしながら、にやにやするカエデを睨む。
「その手には乗らないもん」
「ざーんねん」
全く残念そうには見えない表情のまま、彼女は画用紙を私の方へと寄せた。
「これリセにあげる。要らないなら先生のとこ、持ってくけど」
「貰う! ありがと」
三枚のデッサンを重ね、トントンと音を立てて角を合わせる。
「でも、ドレスにバラかあ。こんな普通の日に外で着てたら、街の中で浮いちゃわない?」
何気ない疑問に、彼女は溜息で答えた。
「ほんとリセ、何時の時代の人間よ? これくらいのカッコ、みんなしてるって」
「えー、流石にそれは嘘でしょ?」
「ほんとだって。こんなことで嘘ついてどうすんの」
カフェから見渡せる周囲に視線を走らせる。今度は真昼間の、統率の取れない仮装行列が街を闊歩する様を想像した。
「最近の人はみんな変わってるなあ」
「はいはい、そうですね。リセおばあちゃん」
「おばあちゃんって、もう」
文句を言いつつ、味気ないコーヒーを啜る。手の中の画用紙の質感と、色鉛筆の曲線美だけが鮮やかだ。
もう一度、変なのと心の中で呟く。
「それより、それ」
頭上からの声に驚いて顔を上げると、カエデは何時の間にか立ち上がっていた。
「飲み終わったら移動するよ! これからランチ行くとこ、予約時間過ぎたら入店出来ないんだから」
「はーい」
返事をしながら立ち上がり、カップの底に僅かに残った液体を、ぐっと流し込む。後味はやっぱり、薄い単調な苦みだけだった。
「よし、記録終わり」
自作のメモ帳を上着の胸のポケットへ、押し込むように仕舞う。
最近、アイズ無しでは入店すら出来ない飲食店が多くなった。予約も注文も支払いも、全てアイズを経由するためだ。自分一人では勿論入れないため、カエデに頼みこんで、一緒に食事をする店は入店制限のある場所から選んでもらっている。そこへアイズ無しで潜入すると色々な発見がある。カエデと会った後には何時も、気付いた事をメモするようにしていた。
カエデとは店を出たところで別れ、私は一人、U市の地下鉄の駅へと歩く。
つい回り道をしたい衝動に駆られる。暫く仕事漬けだった日々からの解放感を、分かりやすく味わいたかった。
左右に過ぎて行く景色を見ながらぼんやりと思う。
飾り気のない殺風景なこの店の壁面には、きっと巨大なショーウィンドーがあって、色とりどりの商品を身に着けたAIが動き回っているのだろう。老朽化の目立つあの建物も、華美な装飾データを重ねて豪華絢爛に輝いているのかもしれない。どれも、アイズの見せる嘘っぱちの世界だ。
あなたの見ている世界は灰色だと、以前誰かに言われたことがある。
「あれは、誰だったかな」
空を見上げながら考える。この小春日和の落ち着いた青空を、皆知らない。今日はほんのり大気が柔らかくて、時折吹く風が心地良いくらいだ。
肌で感じることを忘れた人たちは、目で見る空を本物と勘違いする。気象管理センターによって決められた天気を、一方的に垂れ流されるその光景を、網膜に映し込む。何時しか思い込みの激しい脳に、身体は引き摺られていく。温かな日差しを凍てつく雪風と取り違える。それは、淋しいことではないだろうか。
「どうして今日みたいな日、わざわざ雪の日にしたんだろ」
何処かへ行きたい気分だった。遠くへ、まだこの瞳で捉えていない所へ行きたい。その場所をこの目で見たい。
駅前の大通りへと続く道の途中、交差点に差し掛かったところで、強い視線を感じた。
辺りを見渡すまでもなく、進行方向の先に、こちらを向いている一人の少年がいた。これで彼と視線を交わすのは何度目になるだろう。私と同じ、眼鏡を掛けていない、あの少年だ。
一瞬迷ったが、周囲の人たちの歩み出す動きをちらと確認してから、前を見据えたまま踏み出した。少年は交差点の向こうで動かずに、じっと私を見ている。また何時ものように、近付く手前で姿を消してしまうだろうという予想に反して、少年との距離はどんどん縮まって行く。
ついにすれ違うかという刹那、彼の口が動いた。
「そこのお嬢さん、僕と一杯いかがですか」