伍幕:
「気が付きましたか」
誰かの声に弾かれるように目を開けると、そこは見知らぬ建物の中だった。
視界の中は灰色一色。明かりらしきものは見当たらないが、それでもうっすらと周囲が見渡せる。
「あれ? こ、ここは――」
無機質なコンクリート打ちっぱなしの壁に取り囲まれた小さな空間。サイコロの中にいるみたいだと、ふと思った。殺風景で冷たい世界の中央に、ぎしぎしと軋む一脚の椅子。そこに一人座らされていた。
「そうですね、敵の手中、と言った案配でしょうか」
ヒミコ君の声だった。慌てて部屋の中をぐるりと見回したが姿は見えない。急に動いたせいか、思考に霞がかかったように酷くぼんやりとした。
「ヒミコ君、だよね? 大丈夫なの? 何処?」
「こちらはご心配には及びません。そんな事よりも、貴女は平気なのですか?」
「私――」
視線を下す。手も足も拘束されてはいなかった。
「どれくらい眠ってたの?」
薬品で眠らされている間に運ばれたのだろうか。焦点が上手く定まらずぐらぐらと揺れる視界に、さらに酔いそうだった。
「眠ってなどいませんよ。ほんの一、二分の出来事ですから」
「い、一、二分?!」
すると、敵のアジトのすぐ近くにいたという事だろうか。それともここは、ヒミコ君の出てきたあの店の中なのだろうか。
「ヒミコ君、何処にいるの?」
「扉があるでしょう、その先です。貴女からすると、隣の部屋、という事になるでしょうか」
「隣――?」
見ると一方の壁に頑丈そうな扉があった。鉄格子の嵌った小窓が付いている。
ふらふらする足で立ち上がり、その小窓から隣の部屋を覗き込んだ。
「そんなっ! ヒミコ君っ?!」
その痛々しい様子に、思わず大声で彼の名を叫んだ。
ヒミコ君は両手を縛られ、天井から吊るされていた。つま先立ちで何とか上体を保っている状態だ。手首に食い込む縄に鮮血が滲んでいた。
「酷いっ」
「あー、そうですか」
俯き加減のヒミコ君の目が僅かに泳ぐ。彼は言葉を濁してから頷いた。
「平気です。こちらは問題ありません」
随分と落ち着いた声だが、そんなもの痩せ我慢に決まっている。
鉄格子に手を伸ばし、思いきり乱暴に揺さぶった。勿論私の力ではびくともしない。扉には他に、取っ手も鍵穴も見当たらなかった。
もう一度振り返って自分の立っている室内を見回す。使えそうなものは初めに座っていた椅子しかない。
「そうだ、これを使って」
扉を壊すしかない。ひ弱な女性の力で壊せるかなんて、そんな事を考えている場合じゃない。そう思った時だった。
「ははははっ!」
あの、男の、声がした。恐怖心は微塵も湧かなかった。むしろ怒りで頭が沸騰しそうだった。
「何処にいるのっ! ヒミコ君を解放してっ!」
「いやあ、一度こんな映画みたいなシチュエーションに挑戦してみたくてね。気に入ってもらえたようで感無量だ」
「何で、こんな酷い事! 人でなしっ」
「はははっ。この善良極まりない僕を捕まえて“人でなし”とは。いやはや愉快だな。きちんと約束は守ったというのに」
「やく、そく――?」
「膝の手当てをしてやったろう」
よく見ると両膝に大きなメディカルシートが張られていた。自然治癒力を高め、細胞修復の活性化を促す薬品で構成されている湿布薬だ。
「まあ直接手当てしたのは僕の召喚した使い魔だがね」
「ツカイマ?」
何を言っているのだろう。聞きなれない単語に一瞬思考を攫われそうになったが、今はそれどころではない。
「そんなことより、早くっ、ヒミコ君のっ、縄を解いてっ!」
「君に指図される筋合いはないな。しかし、そうだ。君が僕の質問に満足のいく答えを出すというのなら、直ぐに種明かしをしてやらんでもない」
種明かし――?
「何でも、何でも答えます、だから彼を!」
さも愉快という響きの高笑いが、四角い空間を埋め尽くす。狂っている、この声の主は狂っている。
「その辺りでお引き取り頂きましょう」
ヒミコ君が絞り出すような声で訴え出た。
「これ以上、ヨモギさんの負担になる事は」
「君は黙っていたまえ、今は僕の時間だ。この意味が分かるだろう? 口答えをすると言うのなら、こちらにも考えがある、愉快な考えがね」
男の声が止むと同時に、ヒミコ君の首元にぐるりと縄が掛けられた。
「そんなっ」
縄はじりじりと機械で巻き取られるかのように左右に引っ張られていく。
「やめて! やめてっ! そんなっ、いやっ!」
完全に声を失ったヒミコ君の口元から唾液が垂れる。
「はははは、これで分かっただろう? 黙っていた方が賢明だという事がね?」
ぐったりとするヒミコ君を、鉄格子越しに見つめて叫ぶことしかできない。自分の無力さに絶望するしかなかった。
「では静かになったところで質問だ。まずは何から尋ねようかな。ふむ」
わざとらしく焦らすように、姿の見えない声は唸った。
「君は何故、この男に執着している? 出会ってさして経ってはいない、取り分け縁の深い人間という訳でもない人物のために、何故身体を張る必要があるのだね」
「彼は、ヒミコ君は、大事な私の友人です」
鉄格子を強く握り締め、泣き出しそうになるのをぐっと堪えて答える。
「友人。では君は一度会った人物は皆友人と名乗るつもりかね? ならば僕も既に君の友人という事になるな。それは良い! はははっ」
「人を見る目は、ある方です」
怒りを含んだ声が掠れた。
「ほほう」
意味ありげに男が唸る。
「良く選び抜いた友人、その友人のためなら何でもすると、そういう事かね。どんな憂き目に遭っても、見返りや希望がなくても」
「友人とはそういうものじゃないですか。ただ、その人のために何か出来たらって、何かしたいって、自然に体が動く。そういうものだと私は思います」
両手に力を込め過ぎたせいで、指の先がどんどんと白くなっていく。私に今、出来ることはないのか。苦しむヒミコ君のために、私が出来ることは何か――
「なるほど、行動原理としては一理ある。つまり君は友人の優先度がかなり高い人物という訳かね。血の通った身内よりも赤の他人の友人の方が重要だと、そういうのだろう?」
「そんなの比べられません、家族も友人もどちらも大切で――」
「おや? それは可笑しな話だ。実の母親のためには何もせず、友人だと思う相手には命掛けで最善を尽くす。平等に大切にしているようには思えないがね」
母親のためには何もせず――?
「どうして、母の事を――」
「それに君の原理には大きな落とし穴がある。君はこの男を友人と言うが、彼はどう思っているだろう? 君達の認識は共通かね? 君が一方的に、友人だと思い込んでいるだけではないかね? 例え裏切られても、同じ台詞が言えるかね? ああ否、失敬、少し語弊のある言い方だったかな。この場合勘違いと言うべきだろうか。それとも思い込み? 色眼鏡の方が良いかな?」
「う――」
裏切られても? 勘違い――? この人は一体何を言っているのだろう。何故母の話を知っているのか。否、そんな事よりもヒミコ君をどうにかして救わなければ――!
感覚のなくなった人差し指の爪が親指に深く食い込み薄皮を抉った。
「好い加減にして下さい!!」
叫ぶようなヒミコ君の声。
「彼女の怪我をこれ以上増やすことは避けて下さいとお願いしていたはずです。約束を守って頂けないというのなら、これ以上は看過出来兼ねます」
私の怪我――?
「だ、そうだ。やれやれ仕方がない、約束は約束だ。僕は嘘は吐かない主義だからね」
「ひ、ヒミコ君? どういう意味――」
「君の手の話だ。この男は、君がそんなに強く鉄パイプを握り締めるのが、余程気に食わないらしい。良いところだったのだが、やむを得ん。使い魔再召喚と行こうか、アーサー君」
「え?」
次の瞬間、背後から覆い被さられるように両手を掴まれた。
「ちょっ、何っ」
手の甲を固定され、無理やり拳を抉じ開けられる。同時に手の平に柔らかなものを握らされた。
「動かない、で」
耳元で聞いたことのない声がした。落ち着いた男性の声だ。
「持ってて。だいじょーぶ、だから」
ぶよぶよと柔らかな手の平の感触に、高ぶっていた感情がほんの少し鎮まる。ぼそぼそと話す背後の人物は、ごめんねと小さく付け足すと、私の両手を解放した。
瞬時に振り返ったが、そこには誰もいなかった。手には半透明のゼリーのようなものが握らされている。メディカルシートと同じ科学的な匂いが辺りに漂っていた。
「今の人、何処から――?」
ここはコンクリートで固められた狭い部屋の中で、見渡してもいるのは私一人。だが確実に、姿は見えないが触れられる人間がここにはいる。見えているものと、考えていることの相違。このパターンには勿論覚えがあった。そうか――
「再治療は済んだところで、再度おしゃべりの続きと行こうかね」
その声には耳を貸さず、両手のゼリーを背後に向かって投げ捨てた。それは少し遠いところでぺしゃっと音を立てたが、振り返った先にそのゼリーは見当たらなかった。
「その前に」
両手を耳の位置まで持ち上げる。
「これは」
人差し指の先が、あるはずのない固いものへ触れる。
「外させてもらいます」
私は嘘っぱちに指を掛け、それを再度はぎ取った。手を離れる瞬間、アイズのレンズに二人の人影が映り込んだのを見た。




