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参幕:銀鳩

 思考は高速回転している。身体は着実にBar“黄泉比良坂”へ近づいている。そして心は――


 考え事をしながら歩き続け、気付くと行く手に立て看板らしきものがあった。

 目を凝らして見ようとする動作を読み取り、アイズが対象を拡大する。

 それは花屋のブラックボードだった。今時珍しい、電子板ではなく木の板を加工した看板だ。それは間違いなく、何度も利用した経験のあるリアルショップ、本物の生花を取り扱った店のものだった。ということは、あの店の数メートル先は遊歩道の十字路になっている。

 次はそこを遠回りのために右へ曲がろうと思いながら、見慣れた店先に差し掛かった。強い花の芳香に珈琲豆の匂いが入り混じり、鼻孔を刺激する。

 歩き慣れた場所を行くほんの少しの安心感と、背後の男性を上手く騙そうと企む背徳感で、思考が不安定になった。それが気の緩みに繋がったのかもしれない。次の瞬間私の口から洩れたのは、実に間の抜けた困惑だった。

「ど、え?」

 どうして、という疑問と困惑の感嘆符が混じった。

「何だ、随分と間の抜けた台詞じゃないか。どうかしたのかね?」

「え。い、いえ」

「それなら早く進んでしまおう。いい加減、僕の手が痺れてしまう」

「で、でも――」

 明らかに変だった。

「幸い、迷う心配もない。さっさと左へ曲がりたまえ。留まる理由もないだろう。それとも、あの()()への手向けに、花でも買っていくつもりかい?」

 男の挑発的な発言も左の耳から右の耳へと抜けていく。

 そこは、在って然るべき十字路ではなく――単調な一本道だった。

 花屋のブラックボードは、既に右手が届きそうな程の位置にある。手書きの店名、今月の誕生花をあしらった装飾、見間違える訳は無い。道を挟んで左には、やはり見慣れた雑貨屋があった。しかし、残る店は見当たらない。

 この界隈はカエデのお勧めスポットで、頻繁にショッピングに訪れる。十字路を囲むように花屋、雑貨屋、カフェ、アイズのアクセサリショップの四件が集まっており、その間を、ケーキを切り分けたようなクリーム色の遊歩道が走っていた。短期間で道向こうの人気店がニ店とも入れ替わるはずはないし、U市の整備済み街路が二本も廃止になるとは考えにくい。

 このまま左へ曲がってしまうと、Bar“黄泉比良坂”はもう目と鼻の先だ。一度引き返した方が良さそうだと、拳を握りしめながら決意する。

 すんなり応じてもらえるとは到底思えないが、後ろの人物の出方を窺うためにも提案した。

「すみません、道を間違えたみたいです。引き返した方が良いかもしれません」

「間違えた? ここまで道はどう見ても一本だったと思うがね? まあ、仕方がない。君が相原楓を諦めるというのなら、僕は止めないがね」

「道が変なんです! いつもの通りじゃありません。一旦確かな場所まで戻らないと。このまま進んでも、あなたの目指す場所へ辿り着ける保証はありません」

「何、道がない訳ではないのだ。何時か辿り着く。辿り着けるまでこうして歩くまでだ」

「でも、本当に何か可笑しくて――」

「それは可笑しいのだろう。君の頭がね?」

 意味のない押し問答に耳を貸している場合ではない。私の脳が正常であるなら、間違う可能性が高いのは、普段と違うのは、疑うべきは――目だ。

 この嘘っぱちを決して信じてはいけない、肉眼で確かめなければと、アイズに手を伸ばす。

「おっと」

 それを背後から両の手で阻まれた。

「道を歩くのに不必要な動作は見逃せないね」

 頭を固定され見えないが、確かに両手を捕まえられている感触があった。男性の声は耳元で笑っている。

 瞬時にあれ? と疑問符が浮かんだ。先ほどまで私の後頭部へ突き付けられていたはずの銃はどこへ行ったのだろう。そして閃いた。今ならこの人物の二つの手は私の両手を掴んでいて、銃口は後頭部に向けられてはいない!

 その後どうするかなどその時には考えなかった。思考よりも先に身体が動いた。

 振り解くというより引きちぎる様にもがき、走った。


 走る走る走る。

 とにかく追手と距離を取らなければ、その一心で左右の足で力強く地面を蹴った。

 だが、私のものとは別の足音が直ぐに聞こえ始めた。かなり速い。みるみる後ろへ迫り、直ぐに横に並ぶように聞こえ出す。

「目で見えるものに頼るな」

 ああ、あの言葉は一体いつ聞いたのだろう。誰かの力強い台詞が甦り、思考を掠めた。

 どこまでも一本に伸び続ける道、忽然と消えた人気店と十字路、見慣れた街並みとすり替えられた建物達――

 このままではすぐ横に聞こえる足音の主から逃げ切る事は出来ない。腕を振って全速力で走っているため、アイズを外す余裕はなかった。

 覚悟を決めるのだ。そう、視界を操作されている可能性に、体当たりで挑むしかない。

 両サイドの街並みに素早く視線を送り、直感で狙いを定めた。

「もう、どうにでもなれ!」

 あんなものは無かった、と感覚が叫んだ店のショーウインドに突進する。そして勢いもそのまま、全身で文字通り体当たりした。

 ガッシャーン。

 途端に大きな物が倒れるような金属音が辺りに響き、足元に砕けた何かが散らばる。

 一瞬、店のショーウインドを割ってしまった罪悪感と恐怖で身がすくんだ。だが、眼前に広がっているのは、パステルカラーのレンガタイルで飾られた、塵一つない地面だった。散らばったと思われるものも何も見当たらない。

 顔を上げても、誰一人こちらへ意識を向けている人は見当たらなかった。絵に描いたような平和な日差しの中を、まばらに人が歩いている。

「やっぱり」

 操作されていた。本来あるべきはずの道が、アイズ越しには見えていなかったのだ。

 後ろがどうなっているのか気になったが、今は振り返る隙さえ恐ろしい。そのままよろけた体勢を立て直し、先程まで消えていた道を急いで駆け抜けた。

 普段もっと運動しておくんだったと後悔するが、今更どうにもならない。懸命に動かす手足が重い。

 何処かの店に逃げ込もうか。いや、でも。

 カフェでも先程の通りでも、こちらを見もしなかった人々を思い出して、躊躇われた。街中の人間の助けは期待できない。とにかく今一番にすべき事は――

 後ろからの足音は、嘘っぱちのショーウインドを突き破った辺りから聞こえなくなっていた。とりあえずほんの数分身を隠すために、建物の間に見つけた細い通用路地に身体を滑り込ませた。

 歩きながら、カエデにコールを掛ける。

 しかし、矢張り繋がらない。

 そのまま地域社会保全保安センター、通称“全安”に通報しようとコール先を再選択した。事件、事故、災害救助から急病まで、あらゆる通報の第一段階は全安だ。

 男から聞き出せた情報は、カエデが拘束されてはいないようだということ、そして私が走り出すまでは無事だったということだけだ。それすら真実である保証はない。ちっぽけな一般市民で太刀打ち出来ないなら、一刻も早くカエデの救出を公的機関に託すしかない。

 幸いワンコールで繋がった。

「あのっ」

 焦りとほんの一握りの安堵感で胸がつかえた。そして、次の瞬間――

「やあやあ、全く。君の猪突猛進ぶりには驚かされるよ。はは」

 冷や汗が背筋を伝う。

 目の前には、コール先に繋がったことの証である全安のトレードマーク、オリーブをくわえた銀鳩が羽ばたいているというのに、そこから聞こえる声は――

「どう、して――」

 きっと、何かの間違いだ。指先が急激に冷えていく。

「す、すみません。かけ間違えたようです。失礼し」

「道を間違えたと言ったお次は、かけ間違えかね。君は随分と間違えるのが好きと見える」

 この声、この口調は――

「君はかけ間違えてはいないさ。全安に通報するつもりだったのだろう?」

 唇が震えて言い返せない。

「君の行動は分かりやす過ぎてゲーム性に欠けるな。まあ、店に頭から突っ込んだのは、さすがに想定外だったがね」

 あざ笑うような笑い声が、アイズを通して天から降り注ぐ。

 そこでようやく思い至った。視界の操作について気付いた時、即座に考えるべきだった。国が一括管理している公道や建物さえ、視界から消すことが出来るのだ。通報の可能性を先回りして、全安への通信妨害をすることなど容易いだろう。

 コツコツと、左右の外壁に反響した靴音が、次第に大きくなる。

「君がどこへ行こうと、逃げられはしないよ。さあ、大人しく」

 恐る恐る振り返った。だが、嘲笑が辺りに響くばかりでその姿は捉えられない。透明人間――これもきっとアイズの仕業だ。

 もう、駄目だ。

 絶望感で胸がいっぱいになった。それでも、狭い通路を奥へ奥へともがくように進む。進む以外に、出来ることが何も思い付かなかった。

 どうして今日に限って、アイズを装着したままカフェで待って居たのだろう。

 ――カエデと連絡を取るのに必要だった。急いで家を出たから、今日は財布も時計も持ってきてはいない。全てアイズで済ませるしかなかった、だから。

 どうして目に映るものを疑わなかったのだろう。

 ――ずっと、アイズと関わらないように生活してきた。幾重ものセキュリティを掻い潜る高度なハッキング技術が、いつの間にか出回っていたなど、知る由もない。私とは無関係な世界のはずなのだ、だから。

 どうしてまだ、アイズをしたままなのだろう。

 ――これを手放してしまったら通報はおろか、認証が必要な公的機関にも逃げ込めなくなる。それに、相手に拾われてしまったら、繋がりのある他の人間にまで危害が及ぶかもしれない、だから――仕方がない。

 仕方がない?

 無意味な自問自答が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。

「我が国の情報管理は今やテッペキィ! 安心・安全・快適の三拍子がそろった、スッペシャル・シッステム!」

 週に数度流れる公共広告の、異様なテンションでまくし立てるマスコットキャラクターが、急に脳裏に浮かんだ。

「どこが鉄壁だ」

 国民には各々、唯一無二の生体番号が割り振られている。アイズから相手の生体番号を知ること自体は容易い。

 皆が個人情報を、文字通り目の前にぶら下げて歩いていられるのは、公的機関が一切の不正利用を厳重に取り締まっているからだ。本来は悪用されることなど有り得ない。しかし理論上、特定の生体番号で連動したアイズの追跡は可能なはずだ。

 もし何らかの方法でこのアイズを追尾されているのだとしたら。“御影理世”の番号が登録されているこのアイズは、世界にたった一つの私の発信機、これを持っている限り逃げ切れない。

 がんじがらめだ。

「どうすれば、どうすれば!」

 その時、突然視界の右上部に注意が向く。現れた黄緑色のアイコンは、拍子抜けするほど滑らかな動きで、ぷるんと輪郭を震わせた。

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