壱幕:骨董品
「遅いな――」
約束をしたカフェで、一人、カエデが来るのを待っていた。
気象管理センターの発表する今日のU市の天気は「レベルEの晴れ」、青一色で塗り潰したような快晴だ。
もう三十分以上、この場所から駅の方角を眺めているが、カエデは未だに現われない。連絡を取ろうと何度かアイズでコールを掛けているが、反応も無い。遅刻癖のある私をいつも笑って出迎えてくれていた、カエデの真黒なシルエットを探し続ける。
今朝聞いたカエデの声が、脳内で繰り返し再生されていた。
普段通り朝はゆっくり八時に起床し、身支度を整えてから朝食にした。使用済みの皿を食器洗い機に入れ、立ち上がったついでにと、木製のキャビネットからアイズを取り出した。
今月は丸々休職期間に当たるが、休み中稀に職場から連絡が入っていることがある。確認すると、アイズの右レンズ上部に赤い点灯があり、着信があったのだと見て取れた。
「急な取材か、こないだの企画書のダメ出しかなー」
アイズのレンズ越しに、嘘っぱちの世界が現れる。装飾など微塵も施していない、在りのままに近い自身の手足が見えた。現実世界と同じ配色、同じ配置の視界の右上部に、ふよふよと複数のアイコンが浮かんでいる。その中の一つ、点滅している水色の三角形に触れた。
それは、映像の付いていない音声データで、開くと同時に聞き慣れた声が流れた。
「リセ? ごめん――」
「カエデ?」
「急で、悪いんだけど、今日のお昼、会えないかな? どうしても、早く伝えなきゃ、いけない事があって。例の、U市の、バー? お店の事、黄泉比良坂か。直接じゃなきゃ、話せないの。いつもの、あのカフェ、午前十一時に――」
珍しく不明瞭な音声だった。アイズの調子が悪いのだろうか。碌にメンテナンスをしていなかったのが祟ったかもしれない。最後の部分に一際大きな雑音が入り、話している途中で再生が切れてしまった。
「午前十一時?」
左手の甲に表示されている時刻を確認すると、午前九時半を過ぎている。家から駅まで徒歩二十分、U市までは地下鉄で四十分程掛かる。
「直接じゃなきゃ話せない、緊急の話――?」
胸騒ぎに背中を押されるように、私は急いで家を飛び出した。
駅の特別発券機と特別改札口を横目に、乗車ゲートを駆け抜けた。
いつもは発券機に現金を入れて臨時ICカードを発行し、いかにも特別に設えられた改札を通る。アイズに不具合が出てしまった人や、眼球に何らかの支障があってアイズを掛けられない場合を想定して作られた設備だ。電車に乗るための通過儀礼を経ずに駅舎内に足を踏み入れるのは、何だかこそばゆかった。
丁度発車する地下鉄に気付き、全速力で滑り込む。久々に走ったせいか、脇腹がきりきりと痛くなった。
「これは、アイズ、様々、かあ」
常日頃のように改札を通っていたのでは、この便には間に合わなかっただろう。
ドアが閉まるのと同時に、乗り込んだ駅名の文字が視界の左下で跳ねた。これで乗車の手続きは完了、降車する際に自動で、アイズに登録された口座から料金が支払われるはずだ。
手近な席に着き、息を整える。気持ちを落ち着かせながら、カエデにコールを入れた。だが彼女からの反応は無かった。
頭の中で色々な考えが纏まりなく渦を巻く。
黄泉比良坂に関する話とは何だろう。昨日口にした事で鮮明に蘇った、母を失った時の震えがまた込み上げて来る。ヒミコ君やイタチさんの家族の失踪について知った時の衝撃が、不安を掻き立てた。
カフェは思いの外賑わっていた。辺りを見回したが、カエデの姿は無い。時刻は午前十時三十九分、約束の時間まではまだ時間があったが、嫌な予感ばかりして気が気ではなかった。
見晴らしの良さそうなカフェのテラス席を選び、とりあえずコーヒーを注文する。
昨日裸眼で見た時には、周囲の擦り減った白い樹脂製だったイスとテーブルは、青銅色に輝くお洒落な作りをしていた。テーブルには赤のチェック模様のクロスが敷かれている。バラの刺繍が鮮やかに映えていたが、そっと触れた指先に、凹凸の感触は無かった。
「せめて、クロスくらい本物も敷かないと」
独り事をわざと大きく声にした。
「やっぱり、うん、そうだよね。食事は実際に摂取しているんだから。クロスは必要物でしょ」
カエデと母を重ねないように、外では話せないと言ったヒミコ君の台詞と、直接でなければ話せないと言ったカエデの言葉に、共通点を見出さないように、必死で別の事を考える。
「アイズしてこのカフェ来るの、何年ぶりかな」
アイズ越しの新鮮な景色を見た。街は“不備の無い綺麗なもの”で覆われている。それが堪らなく恐ろしかった。
「――神隠し」
少なくとも今、私は三人の失踪を知っている。黄泉比良坂には他にも、共通点を持ったメンバーが集まっていると言っていた。ヒミコ君は、多くの人間が社会から消えたとも言った。この状況で、待ち合わせに遅れている友人と失踪を結び付けてしまうのは、浅はかなことだろうか。
今朝聞いたカエデの音声データが、雑音と混じり合いながら思考を巡った。
時刻は午前十一時二十分を回っていた。
「あ、そうか!」
もしや私の方が、待ち合わせの場所を間違えているのかもしれない。微かな希望を見つけ、ほっと胸を撫で下ろした。カエデが約束を破ったことは一度も無いし、今朝は慌てていたから私がメッセージ内容を勘違いしたのだろう。何だ、きっとそうに違いない。
もう一度カエデからのデータを確かめるため、右上のアイコンに手を伸ばす。刹那、後ろでカチャッという小さな音がした。
「振り向かない方が良いだろうね」
「え?」
後頭部に何かを押し当てられている感覚があった。
「僕は骨董品に目が無くてね。拘りの強い性格なのだよ」
落ち着いた渋めの男性の声だった。日の光は真後ろから差しているはずだが、目の前の机上には自分の影しか見当たらない。
「これも僕の骨董コレクションの一つでね、手に入れるために随分苦労をした。何せ分母がまず少ないからね」
「あの」
こちらの事情はお構い無しといった風に、男性は流れるように話し続けていた。何が何だか分からず振り返ろうとする頭を、ぐっと押さえ付けられる。
「だから、さっきも言っただろう。君の耳は節穴かい? 振り向かない方が良いと、親切に忠告したんだ。僕がこのコレクションの引き金を引いてしまうと、もう君と会話出来なくなってしまうかもしれないからね」
「引き、金――?」
「モデルは、二〇三〇年式の自動小銃なんだ、珍しいだろう? あれをさらに小型化してね」
「自動、ショウジュウ――?」
この人は一体、何を言っているのだろう。
「ああ、そうそう。先にこれを尋ねるべきだったね。まあ、聞くまでも無いことではあるがね。相原楓さんを待っているのは、君で間違いないかな?」
その一言は、弾丸のように私を貫いた。一瞬で頭の中が真っ白になる。
「どうして、カエデの名前を――?」
「質問に質問で返されるのは好かないな。おまけに僕は気があまり長く無い」
頭を銃口と思われるものでこつんと突かれる。
「もう一度聞くよ? 君は相原楓さんを待っているのだろう?」
「は、はい」
「そうか、やはり。残念だね。彼女はここへは来ないよ。というよりも来られない」
思わず唾を呑んだ。
「――何故ですか?」
「そんな分かり切ったことは、ちゃんと聞くのだね、君は。それともヤツの進言が効いたのかな?」
嘲笑するような声が響いた。会話が何処か噛み合わない。
「君が悪いのだよ?」
「え?」
「君は“黄泉比良坂”を知っているね。知らないとは言わせないがね。ああ、もちろん本物ではないよ? ここU市にある、萎びたバーの方さ」
「――はい」
ほんの一瞬迷ったが、正直に頷いた。
「うん、正直で宜しい。そして、君はあの店の事を相原楓に話した」
鋭利な刃物で抉る様な痛みが、胸中を満たした。吐息が耳に掛かるほどの近さで、低音の僅かに楽しげな声がする。
「そのせいで彼女は目を付けられてしまった、この僕に」
「あの」
無性に喉が渇いた。
「カエデは何も知りません。確かに私は、いつかカエデに、あのお店を紹介したいと思っていました。でもまだ」
「そんなのは瑣末な事だよ」
「瑣末って」
声を荒げて振り向きそうになったが、出来なかった。首から上が固定されたようにびくともしない。
カフェには他にも客がいたが、誰一人こちらに注意を向ける人はいなかった。巨大なバルーンにぶら下がったピエロや、スリットが腰まであるチャイナドレスの少女、仮装行列の様な人々は皆楽しげに談笑し続けている。
「カエデを返して」
泣きそうになるのをぐっと堪えて、声を絞り出す。
「もちろんだとも。君の返答次第でね」




