第九十一話 傾国の美声
(こ、これが伝説の歌姫、【歌姫】なのか……)
完璧、そう評する以外に他ないその完全なる美声。これの前には『贋作者』による審美眼や小難しい知識など必要ない。ただ耳に入るだけでこれこそが最高であり至高だと誰もが分かってしまうからだ。
それこそ否応なく残酷なまでに。
「まったく、相変わらず恐ろしい声だな。これがただ普通に話している声だってんだから始末に負えねえよ」
《うふふ、私からしたら課している制限を解いて普通に話しているだけなのだけどね。でもこれはこれで不便なのよ。下手にこの状態で話すと周りが勝手に虜になってしまうんだもの。ある種の呪いと言っていいかもしれないわ》
「その声だけで幾度となく国を傾けたことがある実績は伊達じゃないな。てか頼むからそろそろ抑えてくれ。分かっててもその声はヤバい」
先程まではいくら伝説の歌姫からの提案とは言え伯爵達は簡単に乗っかりすぎじゃないかと思っていたが、それは完全に俺の間違いだった。
この声はそういうレベルじゃない。一度耳に入れたが最後、逆らおうなんて気にならなくなってしまう。
否、もう一度その声を聴くためなら何でもしていいとさえ思ってしまうような麻薬にも等しい危険なものだ。
背後のソラやロゼも完全に聞き惚れている様子だが、それも無理はないと言わざるを得ないくらいの。
《あら、そうだったわね。それじゃあ抑えましょうか》
その言葉の後に幾度か咳払いすると、その綺麗過ぎる声は嘘のように消えてしまう。その事をホッとすると同時に少し惜しいと感じる時点で自分も相当やられてしまっているようだ。
「んん、これで大丈夫かしら?」
「ああ、ようやく気が抜けるってもんだ」
安堵した様子のマハエルの態度には同意するしかない。この場の全員同じ気持ちらしくそこでようやく止めていた呼吸を再開するようにホッと息を吐いていた。
「さてと、それじゃあいい加減に盗っていた物を返しましょうか。と言っても本人が本気で望めばすぐに戻るようにはなっていたのだけどね」
出来る事なら本人の意思で取り戻してほしかった。そうジュリアは最後に付け足す。
そう言えばマハエルの天職は対象者の価値基準によって能力が効果を発揮しかったり解除されたりすることがあるのだったか。それを考えると伯爵令嬢は今でもまだ自らの声を取り戻したいと思えてはいないということになる。
それを承知の上だろうにジュリアはマハエルに合図を出した次の瞬間には、
「あ……戻った、の?」
自分に起こった異変に気付いたメスカのその一言で声の返却が成された事が判明する。当然メスカの表情は喜色満面とはいかない。嬉しくない訳ではないだろうが、複雑そうな心境をその顔を見るだけで察する事が容易だった。
「どう? 自分の声を取り戻した気分は?」
「ジュリア先生……」
「うふふ、こんなひどい事をした私をまだ先生と呼んでくれるなんてやっぱりあなたは優しい子ね。本当ならこれから先も見守ってあげたいのだけれど、残念ながら私に出来るのはここまでだわ」
そう言ってジュリアはメスカの頭を優しく撫でる。
「私からすると折角の才能なんだから活かして欲しいけれど、本人がそれを望まないのなら強制は出来ないわ。だから後はあなたがどうしたいのか。目が覚めたのならそれをじっくりと考えて答えを出しなさい」
ジュリアはその言葉の後に続けてメスカの耳元でこう囁いた。
《だから今は安らかに眠りなさい》
その途端にメスカは眠るように意識を失う。そして脱力して崩れそうになった体を優しく抱き留めたジュリアは伯爵を近くに呼んで伯爵令嬢を預けた。
「【歌姫】様、その、これは一体……」
「説明は後でさせていただきますので、申し訳ないけどそれまで待っていて貰えます?」
「か、畏まりました」
別に先程のように特別な声で圧倒された訳でもないのに完全に恐縮し切った様子で答える伯爵。その姿はここら一帯を治める貴族のお偉いさんとは思えない態度だ。
(いや、伯爵ですらそうする他ないほど【歌姫】が圧倒的って事か)
でなければ伯爵があの方なんて言葉使いをする訳がない。恐らくは何らかの高い地位を有しているのではないだろうか。現にその後の会話もそんな雰囲気を匂わせているし。
「そうそう、これで彼は依頼を達成したことになりますよね? 経緯はどうあれ、こうして無事に伯爵令嬢であるメスカに声を戻すことは出来たのですから」
「それは……そうですね。ではそのように手配しておきます」
「それは良かった。それじゃあ伯爵は彼女を連れて先に戻って貰えますか。私は誰の邪魔も入らないここで彼ともう少し話をしたいので」
「さ、流石にそれは! 【歌姫】やその配下であるマハエルならともかく、本来土地核の存在を知らせてはならない彼らを置いて行くわけには!」
「何か起きたのなら責任は私が取ります。それでも駄目ですか?」
「…………わ、分かりました」
(……なんか哀れというか可哀そうだな)
真っ青になった顔と大量に冷や汗を掻いた状態で頷いた伯爵は完全に上司に無茶な命令をされた部下のそれだった。逆らいたいが逆らう訳にもいかずどうしようもない、そんな心境が手に取るようにわかってしまう。
「で、では私は失礼させていただきます。ですが、その……」
「分かっていますよ。長居はしませんし、もちろん土地核に変な事はしませんから安心してください」
「はい……」
返事はしたものの、その言葉だけで安心で来たら苦労しないという表情を浮かべて伯爵は娘を抱えた状態で去って行ってしまった。
と言うか先程から俺達は完全に置いてきぼりである。全身に張り巡らせていた魔力も無駄になってしまったようだし、この後どうすればいいのかもさっぱり不明だ。そもそもこの場に俺達が必要だったのかすら正直疑問である。
(事情があるのはいいが、関係ない俺達を巻き込まないで欲しいんだが)
「あらあら、面倒事に巻き込むなよって顔しているわね。まあそう言われたら反論の仕様がないのだけど御免なさい。こっちにもいろいろ事情があるのよ」
こちらの考えを読んだかのような発言に加えてジュリアの言葉には続きがあった。そしてそれは土地核という単語を聞いた俺が真っ先に思い付いたことでもあった。
「と、いう訳で早めに土地核に触れて貰えるかしら?」




