前編
三井様
時下ますますご清祥のことと、厚くお慶び申し上げます。
突然のご連絡で驚かせてしまうことをお詫び致します。
さて、三井様は特別な人間となりました。
事後報告となったことを重ねてお詫び致します。
特別な人間と申しましたが、これは三井様が我々にとって特別なお客様である、といった意味合いではございません。読んで字のごとく、一般人とは異なる人間となったという事でございます。
この書面をお読み頂いた時点で、「特別な人間」としての性質を帯びて頂くこととなります。つまり、今この文章をお読み頂いている三井様は既に特別な性質を帯びています。変化したご自身を知って頂くためにも本書は破棄なさらず、この先のご説明部分を読むことを強くお勧めいたします。
この「特別な性質」というものについて具体的に説明いたしますと、「そこに在るものを自身の認識したものに一時的に上書きする」という性質です。噛み砕いて申し上げるならば、机の上にりんごがあり、それを三井様がりんごだと認識すればりんごなのですが、一瞬でもボールと見間違えたならそれはボールになります。
これはしばらくすれば元に戻りますが、見間違い(誤認識)している時間が長ければ長いほど効果時間も長くなります。
この性質以外は今までとなんら変わらない普通の人間ですので、ご安心くださいませ。
ちなみに、他にもこういった特別な能力を持った人間は存在します。
そういった人間を騙る人間も多く存在しますが。
なお、我々が三井様に金銭などを要求することは一切ございません。何か不備が起こりましたら書面にて通知致します。
では、よい人生を。
○
三井秀樹はA4用の封筒にきっちり入れられていた書類から顔を上げると、書類を封筒と一緒に丸めて足元のごみ箱に投げ捨てた。
今朝三井が目を覚ますと、ベッドから這い出すのと同時に玄関ポストに何かが落とされる音が聞こえてきた。眠気の抜けきらない目を擦りながらポストを覗くと、自分の名前だけが書かれた真っ白い封筒が入っていた。
不審に思い、そのまま捨ててやろうかとも思ったが、もしかしたら大学の友人たちの悪戯かもしれない。自分がこれを読まなかったら、きっと彼らは「つまらん、何で読まずに捨てるんだ。これだから三井は面白みがないと言われるのだ」などと理不尽に暴言をぶつけてくるに違いない。不審な郵便物があったら警戒してしかるべきだろうに。
とりあえず、まずは中身を見て判断しよう、そう思い立ってペーパーナイフで封を開けてみれば、封筒の中には紙が二枚入っているだけだった。一枚は書面の保護用だろう、ただの白紙だった。
さて、三井はじっくりと書面を読んでみた結果、これは幼稚な悪戯だろうと判断した。まともに取り合うのもばかばかしい。大体署名もないのだから文句の宛先が不明だ。きっと友人の誰かが行ったのだろうが、はて、どいつが犯人か見当がつかない。連中にしては内容が幼稚で意味不明が過ぎる。
ともかく、今日の講義で会ったときにでも問い詰めてみよう。
三井は椅子から立ち上がり、洗面台に向かった。通り過ぎざまに壁のコルクボードに刺された写真が風に揺れた。写真を思い出として留めておくのは三井の趣味だ。
洗面台で顔を洗ってコンタクトレンズをはめ、朝の支度を済ませて部屋を出た。
自転車に乗り、大学へ向かう。三井の住むアパートは大学と非常に近く、家賃も安く学生向け仕様になっている。アパートから大学までは、天気が悪くなければ五分程度の距離だ。
今日は生憎今にも降り出しそうな曇天である。
自転車に乗っている間、三井は朝届いた書面の内容を頭の中で反芻した。誰があんな妙な文章を作ったのだろう。大方下らない談笑から広がっていった話を、誰かが実行したのだろうが。
――しっかし、〝見間違い〟なんて言われてもな。
見間違いなんて注意のしようがないんじゃないのか。
そんなことを漠然と考えている内に、いつの間にか大学の敷地内に入っていた。
「なあ、おい。今日うちに悪戯したの、誰だよ」
三井が教室に着くと、友人たちが先に席を取ってくれていた。そこに歩み寄った三井は、挨拶もそこそこに疑問を口にした。
友人たちは皆一様にピンと来ていない表情だ。眉根を寄せて「え?」と首を傾げる。
「なんの話かわからないんだけど……」
友人の一人である中野が、皆を代表するように発言した。
三井は困惑した。交遊関係が広い人間ではないことは自覚している。サークルやバイト先ではうまく振る舞っていると思うが、プライベートでも付き合いがある友人となるとここにいる連中くらいのものだ。他に自分に子どもじみた悪戯をするような人間は思い当たらない。
嘘をついてからかっているのかもしれない、という疑いを拭いきれないまま、三井はとにかく朝届いた書面について説明した。
すると友人一同は顔を見合わせて、「え、誰かそんなことした?」「してない」「だよな」と口ぐちに確認を取り合った。少なくともこの場にいる連中は本当に関係ないようだ。
「それ、マジでどっかの誰かの悪戯だって。気にすんなよ」
そう言って友人の斉藤に肩を叩かれたが、三井はそれはそれで不安だろ、と思った。
誰でもいいから悪戯してやろうと無差別に選んだというのであれば、封筒にはきっちりと自分の名前が書かれていたのはおかしい。無差別ではないのだろう。
個人情報が悪用されている。気持ちのいい話ではない。
「内容も意味わかんないしさ、そのへんの中学生とかじゃないの?」
「え、今時の中学生ってこんなことすんの?」
「さぁー、するんじゃない?」
「ていうかさ、そのへんの中学生だったら三井の名前知ってるのはおかしいんじゃないのか?」
「ああ、そうか」
友人たちの議論を聞いている内に、三井はそんなに気にしても仕方ないか、と思い直すことにした。これからも不審な書類が来るようなら困るが、そうなったら警察に届け出ればいい。
◯
目を疑うような出来事が講義中に起きた。
席について真面目に講義を受けていた時のこと、三井は視界の隅に小さな黒い影を捉えた。床の上を不規則に動くその影を、三井は一瞬虫かと思い「だったら嫌だな」と思いながら視線を下げた。よく見れば、それはただの駄菓子の包装紙である。心ない学生が講義中に食べ、ごみを落としたのだろう。それが開け放った窓から入る風に揺れただけだ。
なんだそうか、と包装紙から視線を外そうとして、三井は思い止まった。包装紙が見る見る形を変え、三井の毛嫌いする黒光りする虫になったのである。そのゴキブリはかさかさと移動して他の席の影に入り、三井の視界から消えた。
――いや、そもそも包装紙と思った方が勘違いだったのだろう。
額に手を当て、小さく首を左右に振る。形を変えたように見えたのは気のせいだ、向きを変えただけだとか、そんなものだろう。
教科書に視線を戻す。講義をしている教授が話している内容に則した部分を目で追う。教授が教科書にないことを述べたり、黒板に図表を書いたりした時には、手元のノートにわかりやすくメモを取る。
その作業を繰り返している内に、教科書の文字を読み違えた。長い専門用語の〝経営〟という部分を〝経済〟と見間違えたのだ。
あれ、どっちだっけ。いや〝経営〟だ。一瞬、脳が戸惑ったが、しかし、この単語は〝経営〟の方であることは間違いないはずだ。
やれやれ、先程の虫の件で動揺してるのかな、と思って教科書の該当部分に視線を落とす。すると瞬きの間に〝経営〟が〝経済〟に置き換わっていた。
疲れているのだろうか。目頭を指で揉みほぐして、再度確認する。それでもやはり文字は〝経済〟のままだ。
となると、自分が覚え間違えているのか、教科書が間違っているのか、どちらかだろう。三井は隣の友人から教科書を拝借し、該当箇所に目を凝らした。友人の教科書では〝経営〟となっている。
小声で礼を言い、友人に教科書を返す。三井は首を傾げた。隣の友人も不思議そうにしている。
考え事を始めるとそちらに気を取られてしまうのは三井の悪癖である。この時もぼんやりと虚空を見つめながら、三井は今起きたことを考察していた。
包装紙のことは単なる勘違いだっただろうし、教科書のことにしたって自分の物だけ誤字があっただけのことだ。もっと他の人の教科書も見比べてみないと何とも言えないが、今朝の悪戯を信じるような事態ではないはずだ。
そのようなことを悶々と考えていると、そろりそろりと教室から出ていこうとする人影をいくつか視界の隅に捉えた。
大学の講義では、途中で抜け出す生徒や遅刻して入ってくる生徒は珍しくない。見咎めて叱る教授もいれば、言っても無駄だと諦めている教授もいる。この講義の担当教授は後者だ。大方、早めに講義を抜け出して食堂の座席を確保しておこうという輩だろう。この講義が終われば昼休みである。
講義を抜け出そうとする人影の中でも、髪が長く線も細い影が目についた。三井は「女の子が早抜けとは珍しいな」と思ったが、横目で伺うと服装は男物のそれである。そして、扉を開ける時にちらりと見えた横顔は明らかに男性の顔だった。
あんなに太い眉に堀の深い造形で長髪なんて似合わない、これだから軽薄な連中の感覚はわからない。などと思いつつ、三井はやれやれとため息をついた。
直後、廊下から騒がしい声が聴こえてきた。男が何事か喚いているようだったが、やがて喚き声は女の甲高い声に変わった。
どうやら周りにいた生徒たちも騒ぎ始めたようで、外の音が大きくなってきた。
さすがに教授も耳についたらしい。
「外の生徒、今は講義中です。静かにしてください」
マイクを使用した注意が為されるが、廊下の生徒たちは聴く耳を持たない。
まさかな、と三井は苦笑した。
「ちょっと見に行ってみようぜ」
友人の誰かが小声で仲間たちを唆した。こういう場合、普段ならば自分は教室に残り、講義の後で合流するのだが、この時ばかりは三井も様子が気になった。
好奇心でにやついている友人たちと一緒に、そそくさと教室を抜け出た。