閑話1 ワイン造り
シエナ村でのワイン造りは、非常に重要な産業の一つだ。
秋になってブドウ畑に実がなり始めると、村人たちはそわそわとし始める。
特に酒好きなフェルナンドなどは、川沿いに広がるブドウを見て、よだれを垂らさんばかりな状態だった。
ブドウ畑には不思議な光景が広がっていた。
若枝はまっすぐ伸びていない。
手が届く高さで無限、もしくは8の字を束ねられていて、その枝に添ってブドウが身をつけている。
これならば地面に立った状態で摘むことが出来るし、管理がしやすい。
生活の知恵というものだろうな、とエイジは感心した。
そのブドウ畑になったブドウを、素早く摘んでは籠に入れているフェルナンドが、実に嬉しそうにエイジに話しかけた。
ワインに変わる日のことを思うと、自然とモチベーションも上がるのか、その動きは精彩だ。
「いやあ、楽しみだなあエイジ君。っと、エイジ君はあまりお酒は得意じゃなかったっけ」
「そうですね。あえて飲みたいとは普段思いませんねえ」
「まったくもったいないことだよ」
「フェルナンドさんは飲み過ぎですよ。健康のために断酒とかするつもりは?」
「僕に死ねっていうのかい!?」
「いえ、長く楽しむためなんですが……」
本当の酒飲みに一日でも酒を止めさせるなんて、どれだけ説得が難しいか。
エイジは諦めて、ブドウ摘みの作業を手伝う。
枝切り鋏を使って、根本で房ごと切り落とす。
紫に熟れたブドウは、そのまま口に含んでも甘くて美味しかった。
「甘く育ってよかったな。今年は雨が多かったから少し不安だったんだが」
「雨と甘さに関係があるんですか?」
「ああ。暑くて雨が少ないと、農作物には困るけど、ブドウは優れた実がなるんだ」
「へえ、初耳です。よく知っていますね」
「ああ。そういう年はブドウ酒の当たり年って言われてる」
建築に関してだけじゃなく、ワインについても知識は豊富なのだろうか。
籠が一杯になると、牛車に載せていく。
荷台は大きく、籠が十個入る。
籠にブドウが収まり揃うと、牛車を発進させる。
向かう先は毎年このためだけに使われるブドウ酒工場だ。
「へえ、こんな所があったんですね」
「去年は君は工房を作ったり、試作したりで忙しかったからな。知らないのも無理は無い」
「石造りって珍しいですね」
「ああ、全部果汁をムダにしないためさ」
エイジは部屋を見渡した。
石畳がびっしりと詰まっている。
隅には沢山のブドウが入った籠が並べられていた。
部屋の中央には大きな漏斗形の台と、その漏斗の下に非常に大きな木桶があった。
漏斗台の中には、採りたてのブドウが放り込まれることになる。
ただし、一つずつ房から実を外し、軸が入らないようにする必要があった。
この軸が入ると苦味やエグ味の素になり、ワインの品質が落ちてしまうのだ。
エイジが部屋を確認していると、あることに気付いて、それに目を引き寄せられた。
口が自然と開き、自然と名が呼んで出た。
「タニアさん、何をしているんですか!?」
「ブドウ絞りです。こうやって踏んで……うんしょっ、一杯絞るんですよ」
「……身重なんだからムリしないでくださいよ、本当に」
「まるっきりじっとしているのも、足腰が弱って良くないんですよ。それにもうすぐ私は終わりますから」
「ええ。そうしてください」
「ふふふ、ん……っ、はぁっ、心配症な旦那さんですねえっ」
巨大なザルの上を、村の男女が足で踏んでいく。
潰れた実から汁が滴り、下に受けている大きな桶に集まっていく。
赤紫色の、ブドウジュースの出来上がりだ。
足踏みをずっと続けるのはかなりの重労働なのだろう。
タニアの全身に汗が吹き出し、顔が上気してかなり色っぽい。
心なしか目も潤み、時折切なそうな吐息を漏らすのも、官能的だった。
汗で服装が張り付いたせいで、豊かな胸元が強調され、足踏みの度にプルプルと震え、目に毒だ。
この光景を去年は見落としていたのか……む、無念!
甘ったるい匂いがあたりに充満している。
その匂いに釣られたのか、ブーン、という羽音とともに、蜂があたりに飛び交っていた。
蜂に刺されるのを避けるため、長袖長ズボンを着用していて、余計に暑さの原因になっているようだった。
ハエたたきの木板版のようなものを持ったジェーンが、次々と蜂を叩き落としていた。
タニアが作業を終えて、エイジの隣に並んで見学に回る。
「桶にブドウの汁がいっぱいになりましたね」
「これを後は樽に詰めていくんですよ」
「それで終わりですか?」
「いえいえ、実は樽に入れる葡萄のジュースは、全体の八割ぐらいなんです。そして実は、まだもう一つ作業があります。……ふふっ」
「どうかしましたか?」
突如としてタニアが笑い出したため、エイジは怪訝な表情を浮かべて、問いただした。
タニアはすみません、と謝りながらも、笑いを収めようとしない。
「いつもは私がエイジさんにいろいろ教わっているのに、今日は逆の立場になっているのが新鮮で、それが嬉しくって」
「なるほど」
「私でもエイジさんのお役に立てるんだな、と思うと自然と笑いが出てきちゃいました」
「いつでも、凄く助かってますよ」
「本当ですか? だとしたらすっごく嬉しいです。さあ、次の場所に移動しますよ」
晴れやかな笑みを浮かべて、タニアがエイジの手を引く。
それは、隣の部屋にあった。
壁から大きな柱が突き出していて、その端にはロープが掛けられていた。
ロープの先には巨大な石が結ばれていて、今は段の上に置かれている。
特徴的なのは、その石の大きさだ。
果たしてどれぐらいの重みがあるのか。数百キロには達しそうだ。
柱の下には出っ張りがあって、その下には金網のような「受け」が存在している。
「これは――」
「絞りきれていなかったブドウの皮とかに残ったジュースを、最後の一滴まで絞る設備ですよ」
「圧搾機ですか。へえ凄い大掛かりな装置だな」
エイジは興味深く、圧搾機を確かめる。
現代の圧搾機ならば、ネジが必ず使用されているようなものだが、その痕跡は見当たらない。
ローマ時代にはネジ式圧搾機は存在していたというから、この装置はそれ以前のものだ。
余談ではあるが、近代に新機構のネジ式圧搾機が登場するが、その違いはわずかに、鋼鉄製のネジを使用するかどうかでしかなかった。
千年以上の時を、同じ道具が使われ続けていたのだ。
踏み潰されたブドウの皮などは、水につけてふやかされる。
組織を柔らかくして、成分の抽出をしやすくするためだ。
ふやけた皮は台に置かれ、村の男達の手で、重りが台から降ろされていく。
ギギギィ……と木が軋みを立てて曲がりはじめた。
同時に台の隙間からは汁が溢れだし、受け皿にこぼれ落ちていく。
まだこれほどまでに水気や成分にあふれていたのか、というような大量の液が絞れた。
「これを先ほどのブドウジュースの入った樽の中に入れて、混ぜて終わりですよ」
「そうだったんですね。いやあ、勉強になりました」
「樽の中でブドウジュースが自然とワインに変わっていくんですよ」
「不思議な現象ですよねえ」
作業をしていた男たちが、石を再び段の上へと移動させると、台の上に残った搾りかすを回収する。
カラカラに乾いたそれは、冬の間の燃料になる。
すべてが無駄にならないようになっていた。
見学を終えたエイジとタニアは、場所をわずかに移動して、腰を落ち着けた。
エイジが二つの青銅杯を持って、その内一つをタニアに渡す。
搾りたてのブドウジュースと、数年前に入れたワインだった。
「はい、タニアさんはブドウジュースね」
「えー、私もワインが飲みたいんですけど―」
「ダメです。今妊娠中でしょう? お腹の子に悪影響があったらどうするんですか」
「はーい、我慢します……」
唇をとがらせるタニアの姿を、エイジは微笑ましく見守る。
何も知らせずワイン造りの手伝いをしていたりと、危なっかしい所もあるが、基本的にはエイジの意見を尊重してくれているし、なにより子ども第一だと言えば、大抵のことは素直に我慢してくれる。
お腹の子を楽しみにしているのは、タニアも同じだろう。
いい妻を貰ったと思う。
「タニアさん」
「はい、なんですか、エイジさん」
「この去年のワインの樽、一つ分けてもらいませんか?」
「いいですけど……、エイジさんがワインを欲しがるのって、珍しいですね」
「ワインは月日を重ねるごとに、熟成されて味わい深くなるんだそうです」
「最初はあまり美味しくありませんもんね」
「ええ。月日の積み重ねが、深みを増すんですね」
「それがどうかしましたか?」
小首を傾げるタニアの表情は、不思議そうで、まるで子どものようだった。
「これって、夫婦の仲も一緒だと思いませんか?」
「夫婦の仲ですか?」
「月日を重ねる内に、新婚当初の新鮮味や華やかさがなくなってきて、毎日の繰り返しになる場合も、あります。でも、月日を重ねて、お互いの考えることが少しずつ分かって、より深い愛情をかけることも出来るはずだと思うんです」
「それでワインですか?」
「そうです。私達が結婚した年のワインの樽を一つ持っていたら、年が改まって、こうしてワイン造りを始める時季になったら、今日のこの言葉を思い出せるんじゃないかなって」
「いいですよ」
タニアが了承したのを聞いて、エイジはホッとした。
だが、タニアの言葉はそれだけで終わらなかった。
エイジの前に手をかざすと、親指を曲げて、四本の指が残る。
「でもどうせなら、一樽じゃなくて、四つぐらい貰いましょう。それで、十年に一つ、開けるんです」
「じゃあ最後の一つを開けるときは四十年後ですか。凄いヴィンテージものですね。その頃には私達、結構なお爺さんとお婆さんですよ」
「だから、エイジさんが無事で長生きしてくれなきゃ、ダメですよ?」
「タニアさんもね」
目と目で微笑み合って。
エイジとタニアは、どちらともなく、杯を持ち上げると、お互いのそれを重ねあわせた。
――キン、と涼やかな音を立てて、二つの液体がわずかに揺れた。
きっと、辛いことや悲しいこともあるだろう。
だが、この人と一緒なら、きっと乗り越えていける。
エイジは心から、そう信じることが出来た。
今年も半分が終わりましたね。
前半に一冊出せてよかった。
今年中にもう一冊出せるでしょうか。
……頑張ります。




