20話 出産1
エイジが施薬院にたどり着いたとき、タニアが苦しそうに息を弾ませ、ベッドで寝ているところだった。
エイジはまず、入り口前で手足をきれいに洗い、埃を払った。
少しでも菌を減らしておく必要がある。
玄関をくぐると、施薬院の中は非常に暖かかった。
外の空気との差に、一瞬ぼうっとなるほどだ。
暖炉にはたくさんの薪がくべられ、火が燃えさかっている。
ヤカンが吊るされていて、そこから蒸気が出て、湿度と温度を保っているようだった。
三十過ぎのやせ細った女が、新しく薪を放り込む。
彼女がシエナ村の薬師だった。
エイジの姿を見ると、タニアが微笑を浮かべて、頭を下げた。
かなり辛いのか、見ている側が苦しくなるような、弱々しい笑みだった。
「エイジさん……お仕事中にごめんなさい」
「何を言ってるんです。子どもが産まれようって時なんだから、遠慮しないでください。いつだって、どこからだって駆けつけますよ」
「ほら、エイジさん、あんたは手を握っておいてやるか。横にいたらこの子の緊張が少し弱まったよ」
「分かりました」
ラマーズ法といった出産の呼吸法を、エイジは詳しく知らなかった。
そのため、的確な助言を与えることも出来ない。
下手な知識を与えて、かえって逆効果になることを恐れた。
様々な道具の知識もいいが、もう少しこういった知識もあって良かった。
そうすれば、力になれたかもしれないのに。
施薬院の薬師は、エイジが用意した清潔な布を桶の横に置いた。
桶は温かい湯が張ってあり、いつ生まれても産湯につけることが出来る状態だった。
タニアが産気づいて、移動を始め、なんだかんだで一時間が経過している。
「どういう状況ですか?」
「こればっかりは人によるとしか言いようがないね。初産じゃなけりゃ、結構すんなり生まれて早く済むことが多いけど、タニアは今回が初めてだろ」
「ええ」
「時間がかなりかかるかもしれないね」
「そうですか……私に出来ることはありますか?」
「ない」
にべもない返答に、エイジは言葉を失った。
だが、薬師は気を悪くしなさんな、と断って。
「出産は元々女の仕事だよ。どれだけ熱望したって、男に子を産むことは出来ないんだから、代わってやりようがない。手伝いだって事の次第をわかってる女の方が役に立つ。だから、あんたは側にいて優しい言葉をかけてやるか――それが出来ないなら、この場から去って、せめて私の邪魔をしないようにしとくれ」
「分かりました。邪魔にならないように、側についています」
「いい返事だ。あんた良い旦那さんだね」
薬師の女が笑って言った。
言葉通り、エイジはタニアの傍にあって、優しく声をかけ続けた。
それから、ゴールの見えない迷宮を進むような、果ての見えない道を歩むような時間が過ぎた。
苦痛の声を聞きながら過ごす時間は遅々として進まず、何より出産の痛みをこらえているタニアには、誰よりも長い一日になっていただろう。
「うっ……! ふぅっ……、はっ、うぅぅ……!」
「ほら、頑張りな。気を強く持つんだよ」
タニアの歯を食いしばるような、くぐもった悲鳴がこぼれ続ける。
全身に力が入り、その姿は必死の一言だ。
エイジは、自身も漏れそうになる悲鳴をぐっとこらえた。
右腕が折れそうなほどの握力で掴まれている。
筋肉どころか、骨が軋むような力がかかり、一体この細腕のどこにこれほどの力があるのか、エイジは不思議に思った。
一体どれほどの時間が経っただろうか。
日が中天に昇るころに訪れたはずだが、今や外はとっぷりと闇に包まれている。
出産は、かなり進んでいるようだった。
薬師がしきりに声をかけてあげ、タニアが辛そうにしながら、全身に力を入れる。
「ほら、頭が見えてきたよ。もうすぐだ!」
「ああ……! エイジさん……! エイジさん!」
「ああ、ここにいるぞ」
「ほら、出てきたよ、タニア! 男の子だ!」
「ああ……私の赤ちゃん……」
薬師は大きな声で喜び、タニアは息も絶え絶えながら、我が子を見て愛しそうな目で見た。
薬師が取り上げた子どもは、本当に真っ赤だった。
生まれた時から、細いながらも髪の毛が生えているのが不思議だった。
これが、私とタニアさんとの子か……。
元気そうな男の子だった。
へその緒を切ると、しばらくは無言。
このとき、肺胞は大気圧につぶれ、赤子は呼吸をしていないと言う。
一番最初の一泣きで、その肺が仕事を始めるのだ。
お願いだ……泣いてくれ。
このまま元気に生まれてきてくれ……!
切実な願いを込めて、エイジは祈った。
やがてゆっくりと、泣き始めた。
その瞬間、辺りの空気がほっと、和らいだのを感じる。
薬師が産湯につけてやりながら、エイジに言う。
「元気な泣き声だ。これで一安心だね」
「長時間にわたって、本当にありがとうございます」
「あんたも良く隣で支えてやったね。さあ、頑張って産んだタニアにも誉めてあげなよ」
「ええ」
薬師に頭を下げて、エイジはタニアに向き合った。
長時間の、ひじょうに長時間の出産で精も根も尽き果てたのだろう。
タニアはひどく憔悴していた。
顔から生気が感じられない有様だ。
それでも薬師から我が子を手渡されると、胸に抱き、笑みを浮かべた。
「タニアさん、よく産んでくれました……。ありがとう。本当にありがとう」
「良かった……。エイジさん、この子に名前をつけてあげてください」
「ええ」
エイジに向かい、我が子を差し出す。
エイジはおそるおそる、その子を掻き抱いた。
なんて軽いんだろう。
しわくちゃで、とても美しいタニアの子とは思えない。
指などはびっくりするほど小さくて、どれほど精妙な腕を持つ彫刻師でも、これほど細部まで掘り起こすことは出来ないだろう。
でも、これから育っていくんだ。
「生まれてきてくれてありがとう。君の名前はリベルトだ」
「ああ……良かった…………」
ほっ――――としたように言うタニアの表情があまりにも何かが抜けて落ちていて、エイジは思わず息を止めた。
思わず、近くにより、手を取っていた。
「た、タニアさん?」
「エイジさん…………私、少しだけ疲れちゃって……」
「大丈夫ですか!?」
「少しだけゆっくりするので……リベルトをお願いしますね」
ゆっくりとまぶたが閉じられていくと――
握ったその手が、ずしりと重たくなった。
ネタバレになりますが、この小説はHappy End主義なので、ご心配なく。




