一五話 夜と帰還
夜のことだ。
エイジたちは離れを借りていたが、さて寝ようか、という段になって、扉の開くきしみ音が聞こえた。
音は小さく、この部屋ではない。
隣は誰が寝ていただろうか、と考えた時、相手は一人しかいなかった。
フランだ。
寝床から起き上がり、後に続く。
ぎぎっ、と直接聞く音は大きい。
暗闇に目が慣れていたからだろう、外は思いの外、明るかった。
この島に来て以来、星の多さを毎日のように驚く。
遠くでは波の音が聞こえてくる。
それに混じって、小さくざっ、ざっ、とという足音が聞こえた。
そして、ブルブルと馬の呼吸音が続く。
エイジは暗闇の中、音のする方向に目を向ける。
フランは星明かりの下で、ヤンの背に乗っていた。
ヤンの首を抱きしめ、とてもリラックスした様子だ。
目を閉じている。うっとりとした柔らかい表情だった。
天真爛漫な姿とは違う、元気いっぱいの姿ともまた違う。
これまでエイジが知らなかった別の一面だ。
こんな顔もできるんだな。
「フラン?」
「どうしたの、エイジ」
「どうして外に?」
「家の中じゃ落ち着いて寝れないから」
「寝れない? それでヤンとユンと一緒にいるのかい?」
「ギュスたちは家族だから。それに、柔らかいベッドは落ち着かない」
「それは……ディナンさんたちと一緒の時も?」
恐る恐る、エイジが聞いた。
フランにとって、人とは家族ではないのだろうか。
予想した答えが返ってきて欲しくなくて、のどが渇く。
必死に唾を飲み込んだ。
フランはためらうことなく頷いた。
「家の時は、ギュスがすぐ隣りにいるから」
「そうか……。ほんとうに大丈夫なんだね?」
「大丈夫。おやすみなさい、エイジ」
「ああ、おやすみ」
家の中に厩舎がある。
それなら確かに、すぐそばにいることになるだろう。
だが、答えを聞いて少し悲しかった。
フランはディナンやキアラとともにいるが、その心はどこにあるんだろうか。
もし、いつまでも人としての関係性を保てないでいるとしたら。
それなのに、人とともに生きているというのなら、それこそ悲劇だ。
フランを我が子と思って育てているディナンとキアラと、そしてフラン自身も。
エイジには答えを出せない問題だ。
フランと、ディナンたちが答えを見つけるしかない。
黙って部屋に戻った。
なんだか気分が優れず、眠りにつくのに時間がかかった。
次の日の朝。
エイジたちは荷を積み終えた船に来ていた。
船首の向きはすでに変わっていて、後は乗り込むばかりという状態だ。
「なあ、エイジくん」
「なんですか?」
「いや、信用していないわけじゃないんだが、本当に川を逆らって進むのかい?」
「フェルナンドさんは川で泳いだことは?」
「そりゃあるよ」
「川の流れに逆らって泳ぎ、進んだことはありますか?」
「ああ、ある」
「じゃあ、理屈じゃなく遡れるのが分かりますよね。泳いで進めるんです。船だって同じですよ」
フェルナンドは不安そうだった。
頭ではわかっていても、船が川を遡るということが、どうしても想像できないらしい。
フェルナンドには舵を持ってもらい、フランが錨を上げる。
エイジは急いで帆を張り、櫂を動かす。
「さあ、行きますよ。風よし!」
「舵よし!」
「錨を上げろ―!」
「出発!」
錨を使って何度か船に反動をつける。
船が徐々に動き、岸から離れていく。
帆が風を受け、ばさりと音を立てた。
最初は本当にゆっくりと。
そしてしっかりと進んでいく。
船は順調に進んでいた。
マリーナからアウマンまでは、一日で移動できる距離だ。
同じ地形でも、逆向きに進んでいると見え方がずいぶんと違う。
「さて、アウマンが近づいてきたぞ」
「フラン、そろそろ着く。準備をするんだ。……はぁ、先を急いだとはいえ、問題になりませんかね」
「知らないよ。その時は誠心誠意謝るだけさ」
「だいじょうぶ! フランが好きでやったから」
「おいおい、また誰か待ってるぞ」
「ディナンさんと、キアラさんだ……」
接岸すると、錨を下ろす。
不思議なことに、今回もまた、ディナンとキアラが迎えに来ていた。
村から川までは馬でも結構な時間がかかる。
毎日待っていない限り、偶然ではありえない会遇だ。
エイジはフランの顔を見た。
そこに驚きは見られない。
「フラン、ディナンとキアラさんは、馬と心が通じている?」
「私ほどじゃないよ」
「じゃあ、フランがいないのに一体どうやって?」
「たぶん、ギュスが呼んだ」
「馬の方が呼びかけたら、それを汲み取れるのか。フェルナンドさんは信じられます?」
「僕は信じるよ」
「私は信じられない……」
はたしてそんなことが可能なんだろうか。
馬の感覚を完全に信じていなければ、そんなことは出来ない。
馬とともに暮らす一族だから、それだけ信頼関係ができているのか。
エイジたちは船を降りた。
ディナンとキアラが駆け寄ってくる。
「ディナンさん、娘さんをお返しにきました」
「フラン! どこに行ってたのかと心配したら、一緒に出かけていたのか!」
「良かった……無事で、本当に良かった」
「お前のことだからそれほど心配していなかったが、今回はギュスも家に残っているし……心配したぞ。連絡してから出ろって行ってるだろう」
「ごめんなさい」
ディナンと、キアラがフランを抱きしめた。
キアラは震えているようだった。
よほど心配だったのだろう。
本当に申し訳ないことをした。あの時折り返したら良かったかもしれない。
「申し訳ない。一泊で帰るからと、先を急ぎました」
「いや、どうせ娘が乗り込んだのだろう」
「気付いたら船に。そのまま帰るべきか迷いましたが、先を急ぐ旅でもあったので……」
「ヤンとユンが村を離れた途端に姿を消したからな、想像はつく。昔からフラっといなくなることが何度もあった」
「私がこのまま乗せて欲しいって頼んだ」
エイジが頭を下げていると、フランが自分から説明を始めた。
ディナンの目がジロリとフランに向けられる。
フランの体が一瞬こわばったようだった。
「フラン、連絡してから出るんだ」
「ごめんなさい」
「もう、心配させないで」
「ごめんなさい、ママ」
「あとで説教だ」
「あうう……」
キアラがくちづけを何度もフランに浴びせた。
フランがどこまで反省しているのかは分からないが、エイジたちの問題は不問になったらしい。
だが、できればこんなことは今回限りにしたい。
たとえ行程に多少の問題が出ても、誠実が一番だ。
ほっと息をついた。
水の補給を済ませると、再び船を進ませる準備をした。
帰りは水と食料の補給ぐらいで、長居するつもりは一切なかった。
「じゃあな、エイジ! フェル!」
「ああ。ディナンさんとキアラさんを大切にね。ディナンさん、鋸はどうですか?」
「早速使ってみた。ほんとうに便利になって助かってるよ。もう棚と机を作った」
「そうですか、良かったです」
笑顔で大きく手を振るフランに、小さく手を振って返し、ディナンに鋸の使い心地を聞く。
できればすべての村々で感想を聞きたいところだったがそれは次回の交易に回すべきだろう。
フェルナンドが大工の手配を考えているのか、難しい表情を浮かべた。
「大工に関しては僕がまた考えておくよ」
「この前は勢いでエイジを誘ってしまったが、どうだい、フェルナンド。君がアウマンに来ないか?」
「いえ、やることが多く残っていますので。お心遣いだけいただいておきます。誰か人を寄越してもらったり……こちらからトーマスという下働きを派遣するか……即断はできません」
「ああ、構わない。楽しみにしておくよ。家が潰れない内に頼む」
にやっ、とディナンが笑い、フェルナンドも笑顔で答えた。
船で二日進んだ。
夜間も月明かりを頼りに進みたかったが、座礁が怖くて諦めた。
早朝から日の出ている限り進み続けて、ようやく折り返し地点まで来た。
「風が無くなってきたみたいだな」
「そろそろ馬を下ろして牽く準備をしましょうか」
「どっちが降りる?」
「僕が舵を持っておこう。エイジくん、頼んだ」
「了解。一回停めますよ」
エイジはヤンとユンを下ろした。
揺れる船の上よりも、安定感のある大地の上のほうが安心するようで、しきりに体を震わせ、足を前後させて地面の感触を確かめる。
胸帯ハーネスと呼ばれる犁やハローをつけるためのベルトを着けさせ、そこから先をロープで結ぶ。
船と馬が連結された。
「よし、進んでくれ。フェルナンドさん、錨を上げて! もう帆は張らなくていいです。細かな調整ができないと危険だ」
「分かった!」
「ヤンとユン。頼んだぞ。大変だったらすぐ伝えてくれ」
馬の目をみて言葉を掛ける。
キラキラと煌く大きな瞳が、エイジを見つめている。
じっと目を見ていれば気持ちがわかる……。
本当だろうか?
だが、無理をさせるつもりはなかった。
重労働で潰してしまっては、この馬たちがあまりにも可哀想だ。
船が再び、ゆっくりと進み始めた。
一時間進んでは、十分の休憩を取った。
疲れていそうなときは三十分でも休んだ。
とにかく潰さないこと。そして着実に帰ることが肝心だ。
だが、そのスピードが、明らかに鈍りつつあった。
行程の二割を切った頃だ。
ヤンとユンが連日の牽引に疲れてきているのか、とエイジは思った。
だが、すぐにそうではないことに気づいた。
高地に近づくに連れて、明らかに流れが早くなっている。
シエナ村の水車は非常に力強く動いている。
タル村への移動も非常に早かった。
上流はかなりの勢いだということを失念していた。
「フェルナンドさん、舵をまっすぐにきったら、降りて手伝ってください」
「分かった。すぐいく」
「ヤン、ユン。まだ大丈夫か?」
革手袋をして、隣でロープを引っ張る。
手は商売道具だ。間違っても傷つける訳にはいかない。
ロープを持つと、ぐっと手に重さが伝わった。
すごいな、こんな重たい物をずっと引っ張っていたのか。
肩に担ぐようにして、前を向いて歩く。
船の重さが手から背中にかけてずしっと感じる。
砂利が一歩踏み出すたびに足音を立てた。
すぐにフェルナンドが応援に駆けつけてくれた。
「行きますよ、フェルナンドさん。ファイトー!」
「うん?」
「そこは一発でしょうが!」
「何を言ってるかわからないよ!」
「くそぅ、重たいなあ」
コマーシャルネタが通じるわけもないか。
苦笑を漏らしながら、ひたすら引っ張り続けた。
「着いたぞ」
「本当に?」
「見覚えがあるだろう。水車小屋だ」
「ああ、良かった……もう肩も腰も痛くて。限界です」
長かった。
馬も人も疲労が溜まりすぎている。
前半の美味しい思いで少しは肥えたかと思ったけれど、それも帳消しになりそうだ。
エイジが見る限り、フェルナンドの顔も元に戻ってしまっている。
すでに出発していた岸に寄せるのは諦めていた。
鍛冶場なら船があっても大した邪魔にはならない。
回収は後日だ、と思った。
見慣れた光景を前に、力が抜けた。
もう一歩も動けそうにない。
「ようやく帰ってきたんですね」
「ああ。次から交易の帰りをどうするか。要検討だな」
「まったくです」
心から同意する。
次から一緒に行くのはやめようかな、とさえエイジは思った。
次回は間話で、帰ってきてから他の人とどのように交流したかのお話になります。
感想に返事を書いていませんが、時間が出来たので少しずつ返答していきますね。長くおまたせしています。




